一致と同一は違う(一人一人は、神の前に頭を上げることの出来ない罪人である、という点において共通している、という事。第二に、どんな違いがあっても教会のかしらであるイエス・キリストに呼ばれた者として共通している--教会の公同性を強調する努力において、ともすると。われわれはその一致への分別を見失ってしまっているのかもしれない。しかし、われわれが追求すべき一致(unity)は、画一性(uniformity)ではなく、共通の信仰、共通の使命の上に立った多様性に富む表現方法を有する一致である。「現代の宣教と伝道」新教出版社、八四頁--一方通行のメッセージで、単純に問題は解決され、教会の中にいれば、自動的にいつも光の中にいて、万事うまくいく、という安直さがある、ということです。そして、教会の外にいる人は、いつも暗闇の中にいる。そんな簡単なことではありません--私も時々、大きな礼拝に参加していて、大きな歌声を聞いたり、大きな聖餐式で、一致しているんだなあ、と感激することがあります。ムードで一致を味わう、ということではなくて、礼拝において、キリストに赦され、キリストに召され、キリストによって遣わされていることを確かめ合うことが大切なことです--仲間内で、自分たちの教会は、いい教会だよね、と言っているのでは、仲良しクラブになっているだけで、宣教の教会とは言えません。仲良しクラブは、その存在そのものが、新しい人を排除しています--) 神様が、ただ、あなたは、そのままでいいんですよ、と言っておられるのではなくて、あなたが今、人に仕えようとしている、そこで失敗したり、落ち込んだりする、その姿を神様が、いいよ、と言って下さっている 戸出伝道所教会(--在日韓国人--この教会は、その宣教目標を「戦責告白の実質化」として宣教を続けて来ました--) 善は必ず勝つ(--アメリカは、常に正義に立っている、という思い上がりがあります--) ミシエル・クオスト(「神に聴くすべを知っているなら」--永遠の昔から わたしはきみを選んでいたのだ、わたしには きみが要るのだ--)
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