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「一致の危険」

石川和夫

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。

勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

(コリントの信徒への手紙一、一・一〇)

   本当に、大変なことが起こってしまいました(九月一一日の同時多発テロ事件)。今日の主日の主題が「教会の一致と交わり」となっていますが、このテロ事件の報道でよく聞かれることが、民主国家に対する挑戦だから、世界の民主国家は一致して、これと戦わねばならぬ、ということです。

 先月にも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」(使徒言行録四・三二)というテキストのところで、「一致と同一は違う」と申し上げました。その時申し上げたことは、先ず、一人一人は、神の前に頭を上げることの出来ない罪人である、という点において共通している、という事。第二に、どんな違いがあっても教会のかしらであるイエス・キリストに呼ばれた者として共通している、ということでした。

 今朝は、もう一つのこと、「一致の危険」ということを申し上げたいと思います。一九八三年に世界教会協議会(WCC)の世界宣教・伝道委員会から発行された「現代の宣教と伝道」と題するリポートに、次のような文章があります。

 「教会の公同性を強調する努力において、ともすると。われわれはその一致への分別を見失ってしまっているのかもしれない。しかし、われわれが追求すべき一致(unity)は、画一性(uniformity)ではなく、共通の信仰、共通の使命の上に立った多様性に富む表現方法を有する一致である。」(「現代の宣教と伝道」新教出版社、八四頁)

 神学者の表現ですから、むつかしいのですが、要するに、一致と同一性は違うということです。ここで、一致の危険性が述べられています。

このリポートの中で、いわゆるクルセードのような単純な伝道方式は、これからの宣教にふさわしくない、と言っています。どういうことかと言いますと、一方通行のメッセージで、単純に問題は解決され、教会の中にいれば、自動的にいつも光の中にいて、万事うまくいく、という安直さがある、ということです。そして、教会の外にいる人は、いつも暗闇の中にいる。そんな簡単なことではありません。

一致のポイントの第三点

では、何が大事なのでしょうか?一致のポイントの第三点は、教会のかしらであるキリストに仕えている、ということにおいて共通している、ということです。今日は、そのことに重点を置いて考えてみたいと思います。

私も時々、大きな礼拝に参加していて、大きな歌声を聞いたり、大きな聖餐式で、一致しているんだなあ、と感激することがあります。ムードで一致を味わう、ということではなくて、礼拝において、キリストに赦され、キリストに召され、キリストによって遣わされていることを確かめ合うことが大切なことです。

遣わされる、ということは、具体的に誰かに仕えていく、ということです。このことを抜きにして、自分たちが天国を保証され、平安だ、と満足しているだけでは不十分です。仲間内で、自分たちの教会は、いい教会だよね、と言っているのでは、仲良しクラブになっているだけで、宣教の教会とは言えません。仲良しクラブは、その存在そのものが、新しい人を排除しています。

地域の人々、それは、私たちの肉親も含めてのことですが、私たちの接する人々の問題を共有し、一緒に悩み、一緒に喜んでいく。そして、彼らに仕えていこうとする努力において、自分の弱さと怠慢さを痛感させられて、神様にお詫びし、赦されて、また、新たに造り変えられていく喜び、それが福音ということに他なりません。

神様が、ただ、あなたは、そのままでいいんですよ、と言っておられるのではなくて、あなたが今、人に仕えようとしている、そこで失敗したり、落ち込んだりする、その姿を神様が、いいよ、と言って下さっている。

出会いと協働を真摯に生きる

教会の一致のもう一点は、それぞれが、人に仕えようとして苦闘している、という共通性をしっかり確認することです。それが無いと、ただの仲良しクラブに過ぎなくなります。教会だけが楽しいとか、教会にいるときだけが幸せ、ということでは、教会が逃げ場いなってしまいます。もちろん、逃げ場が必要なときもありますが、それだけでは、キリストが見えなくなります。

川崎市の多摩川沿いの河川敷に、戸出伝道所という教会があります。この教会の周辺には、在日韓国人が多く住んでいます。そこで、この教会は、その宣教目標を「戦責告白の実質化」として宣教を続けて来ました。あの太平洋戦争で、無数のアジアの人々を苦しめ、犠牲を強いて来たこと、そして、戦後もあの南北分断の悲劇を生み、今なお家族の離散の悲しみを負わされる原因となった、一九五〇年の「朝鮮戦争」の特需で、日本が経済復興し、その後もアジアが人件費が安いからということで、アジアに進出して利益を上げてきたこの国は、アジアの人々に大きな負い目がある、という認識に立って、多国籍の存在と多様な文化の共存を柱として宣教して来ました。

この教会の牧師をしておられた大倉一郎さんが「河原の教会にて」という本を書いておられますが、その中で、こう言っておられます。

「私が気づいたと言った宣教の意味とはこうです。私たちは和解と平和、全てのいのちの癒しと救いを願っておられる神の祝福をこの戸出の町の歴史の中で具体化していくひとつの道具になれるのだということです。少し伝統的な言葉遣いで言えば、戸出伝道所はこの町で神の救いの言葉が事実となっていくための祝福の器なのだということです。小さく欠けるところも多い器ではあるけれども、神はこれを用いてくださる。この町の人々へのイエス・キリストの祝福の器として。それこそが宣教の喜ばしき意味なのだということです。大切なことは住民の方々と人間のまちづくりの課題を一緒に担い続ける中で、人々との出会いと協働を真摯に生きようと努めることです。」(同書、九六頁)

ここが、とっても大事なところです。「人々との出会いと協働を真摯に生きようと努める」。じいっとしていて、ただ、神様ありがとう、というスタティック(静的な)ものではなくて、人々の問題を共有し、仕えていこうとする、その中で、自分の弱さと怠慢を神様にお詫びしながら、また、神様に、おい、頼むぞ、と言われて、やり直す。そのようなダイナミック(動的な)な在り方が、一致の原点となるのです。私もダメだが、この人も苦労している、そういう「戦友愛」において一致している、ということです。

「そしてこのような営みとしての宣教の道行きで、イエス・キリストの福音の喜びに人々と共に与る機会は必然化するにちがいありません。なぜならイエス・キリストの福音そのものが人々を一つにする力をもっているからです。」(前掲書)

キリストに招かれた、ということは、キリストに遣わされた、ということです。今日のポイントは、キリストに遣わされた者同士、ということです。そこに多様性があります。常に、社会問題と取り組むとか、行政との交渉に奔走する、ということばかりではなく、一番身近な誰かの課題を共に担おうとする姿勢が大切です。自分に閉じこもる、自分だけ満足するのではない、それが遣わされている、ということです。

ここで、ちょっと、脱線

こういうことに重点を置いた信仰は、クルセード方式の伝道では生まれず、どうしても自己本位の信仰になってしまいがちです。今のアメリカには、ブッシュさんを含めて、そのような信仰が多数を占めているように見えて仕方ありません。

私が大変気になったのは、彼が「善は必ず勝つ」と言ったことです。そこには、アメリカは、常に正義に立っている、という思い上がりがあります。今回のテロの遠因は、一九四八年のイスラエル建国にあると私は思っています。超大国のご都合で、自国内のユダヤ人問題を解決するために、既に、住んでいたパレスチナ人を全く無視して、ユダヤ人を移住させ、多数のパレスチナ人が難民となり、貧困にあえぐ暮らしに追い込んでしまいました。

イスラエルは、何回かの中東戦争の後に占領地域を拡大し、国連が、ヨルダン川西岸地域から撤退せよ、と決議したにもかかわらず、今日に至るまで、これを無視し続けています。その背後には、「正義の味方」アメリカがいます。

土地を奪われ、職を失ったパレスチナ人たちは、石を投げて抗議しましたが、常に圧倒的なイスラエルの武力で、「鎮圧」させられて来ました。その「抗議」も次第にエスカレートせざるを得なくなって、ついに自爆テロに至ります。無差別で人を殺傷するテロは絶対容認できませんが、その背後に隠されているパレスチナ人たち、ひいては、アラブ人たちの悔しさは、理解しておかなければなりません。

今回の同時多発テロの背景には、積り積もったアラブ人たちの恨みがあることを知っておきましょう。事件の残忍さだけに目を奪われて、「報復」だけに走ることは、「報復」の悪循環だけを生み出して、本当の解決からは、程遠い結果、つまり世界を戦争に巻き込む恐ろしいことになるだけだと思います。

今回のテロの首謀者とされているビン・ラディン氏の反米感情は、湾岸戦争の時に、イスラムの聖地である祖国サウジ・アラビアが米軍に踏みにじられたからだ、と解説されていますが、それは、とても浅はかな解釈だと思います。長期にわたるアラブ人たちに対する差別、それから生み出されてきた貧困に対する鬱積された恨みが、あの大富豪の息子を根強い反米に駆り立て、ジハード(聖戦)に生命を賭けさせていることを理解しておく必要があります。

という訳で、アメリカも決して「正義」だけではないのです。日本も小泉さんがアメリカから声がかからないから淋しい思いをしている、というようなことが今朝の新聞に出ていましたが、私は、それで腐る必要は、さらさら無いのではないか、と思います。アメリカは、日本からの武力協力をそんなに期待していない、ということでしょうから、別の面で貢献することを考えればいい。

日本は、中東のどの国からも恨みを買うようなことをしていないから、いい関係を持っています。だから、それらのパイプを大事にして、将来の平和を構築する下準備にかかるべきです。その方が、ずっとアメリカを助けることになると思います。

六千人以上の犠牲者を出したのだから、アメリカ中がカッカとするのは分かります。少々のことでは後に引けないでしょう。だからこそ、一緒になってカッカするのではなくて、冷静に将来の平和への道筋を作り出す下準備こそ、今の日本に期待されていることではないでしょうか?

人と共にいるときに、福音を知る

本論に戻りますが、自分は、正しい、いいことをしている、という意識がいつの間にか傲慢な態度を生み出すのだ、ということを肝に銘じましょう。本当に、人々と共にいるという姿勢を持つ事において、福音が福音として私たちに迫って来ます。それは、いいことをしているという意識とは正反対に、自分は、何をしているのだろう、と疑問を抱いたり、自分の無能ぶりに、あきれかえったりすることにおいて、自分が福音の中に生かされていることを知らされるのです。

ミシエル・クオスト神父が、そのような状態で福音に触れたときのことを祈りに書いておられます。それを私たちの祈りとしましょう。

「永遠の昔から わたしはきみを選んでいたのだ

わたしには きみが要るのだ。

わたしの祝福をおくりつづけるために、

きみの手が要る

わたしが語りつづけるために、

きみの口が要る

わたしが苦しみつづけるために、

きみの身体が要る

わたしが愛しつづけるために、

きみの心が要る

わたしの救いを広めるために、

きみ自身が要る

だから、子よ 

わたしといっしょにいてくれ。」

(ミシエル・クオスト「神に聴くすべを知っているなら」一一七頁)

  (二〇〇一年九月一六日、聖霊降臨節第一六主日第二礼拝の説教要旨)