2001/05/06 「やり直す勇気の源」 ヨハネ 11:17〜27  (MP3)   
悲惨な事故(--もしもあのときこうしていたら--) ラザロの蘇り(--完全に死んでいた--イエスの受難の始まり--マルタとマリヤの対応--”主よ、もしあなたがここにいてくださったら弟は死なないで済んだのに”--.”あなたの兄弟は復活する”--知識では知っています。でも今はどうしようもありません--”私を信じる者は死んでも生きる”--死んだことで無になっていない--”生きていて私を信じる者は誰も死ぬことはない”--このことを信じるか--”今ここにいる主イエスを信じる”--) ジェーン,タッド, ベーカー婦人宣教師(--子宮がんをクリスマスプレゼントとして受け取る--体の不自由な人のことが少しはわかる--病室のクリスマスツリー--夜中目が覚めて見る人の心を慰める--再入国に託された望み”また会いましょう--復活に望みを置く”--) ガンで夫を亡くした妻の子供からの励まし(--亡くなった父とはだんだん遠くなるのではなく、だんだん近くなってくる--)

2001/05/13 「ゆっくり歩む」 ヨハネ 14:1〜11  (MP3)   
主題(父への道) 遠藤周作(「生き上手死に上手」--無駄にしてはいけないもの--僕が味わった苦しみ僕が他人に与えた苦しみだった--そのすべての経験が無駄ではない--神はその無駄と見えるものに実は我々の人生のために役に立つ何かを隠しているのであり、それは無駄どころか貴重なものを秘めているような気がする。これを知ったために私はかなりうまく生きたと思えるようになった--) ヨハネによる福音書の特徴(イエスが人となられた神なのだということを強調している) 私は何々である(--I am--神だけが使える言葉--) 長尾優(「信仰の半歩前―オトコ、四十を過ぎれば」--青年時代は教会に入りびたりだった、しかし、倫理的な説教を聞くのが苦痛になってきた--倫理的にできない自分に疑問を感じた--”22歳のとき渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行した荻原守衛(碌山満30歳5ヶ月で永眠する。)に興味を引く”--碌山の生涯にエレミヤの言葉を重ねる”主よ、あなたの目は真実を顧みられるではありませんか”--神がいつも碌山を顧みたはずだと感じた”http://www.rokuzan.jp/nenpu.html”を参照--) 小山晃佑(「水牛の神学」エキュメニカル神学の論客--説教”時速五キロの神”--神は愛であられるゆえにゆっくりと歩み給います”私たちの日々の歩みにいつもいたもう神、どんな時も離れていない神”)

2001/05/20 「自分のための祈り」 マタイ 6:1〜15  (MP3)   
主題(主の祈り) ヘルムート・ティーリケ博士(--元ハンブルグ大学学長--「主の祈りー世界をつつむ祈り」新教新書--”われらの父よ”と言うことなどわれわれには到底出来ないのだ!--ただ一つの条件の下でだけ、われわれも父を呼ぶことが或いはできるであろう--イエスは美辞麗句を連ねた形式的な言葉を廃し、素直な心で祈ることを教えられたのです--祈りにおいてたいせつなことは、われわれがある特定の懇願を申し述べるということではなく、われわれが父なる神と結ばれ、人格的な交わりに入ると言うことである。ただ、心から『愛する天の父よ』と言うだけであっても、すでに祈りのたいせつな点は満たされているのである--) 主の祈りさえ祈っていればいいということになります(--唱えるのではなく、一句一句をじっくり噛み締めながら祈ることによって、自分と神との関係が非常に近いものと変えられるのです--) ダグ・ハマショールド(--「道しるべ」みすず書房--危険を予感しつつ、過ぎ去った事柄については、後悔したり、恨みがましく思ったりしないで、万事を益としてくださる神に委ねて、すべて感謝する。これから起ころうとすることは、どんなことでもOK、というあり方--) うまく祈れるか、どうかは問題ではありません。イエスさまは、なんとありがたいことでしょう!どんなに小さい子どもでも祈れる単純で完璧な祈りを教えてくださったのです。

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2001/05/27 「心の目が開く」 ルカ 24:44〜53  (MP3)   
主題(キリストの昇天) 讃美歌(--21の前の讃美歌--共通したパターンがある--私と神様の関係だけ--何か困ったことがあると歌うイメージ--横との繋がりがない--どこか絶えず欲求不満からくる求め”自分はだめなんだ”ということがテーマになることが多い、求めることが多い--) キリストの証人(--イエスが天にあげられた後、弟子たちは喜んで帰って行った--弱点だらけの弟子たちをイエスは私の証人とすると言われた--) インゲンボルク・ベッカー牧師(”説教”「証人は主を指さす」--私たちは何を証するのか--私たちの言葉は信仰深いものではないのです--私たちの交わりが真実なものとは認めていません--証とは何かが証されるのではなく彼”イエスキリスト”が自らを証する--出来事の証人ではなくキリストが私の中にいてくださるということを証する。あなたそんな生き方をしているのにと言われても、「そうです、お前を承認とすると主が言われたのです」と証言する--こんな私ですがキリストが私のうちに住んでくださっていることを証する--私たちの状態にかかわらない--) パウロ(--キリストが私を選んだ--ユダヤ教徒とキリスト教徒の両方から非難された事実もある--人間であるので完璧であるはずはない--) 私は主のもの(--私が主人公であることから脱却する--礼拝はそのためにある--)


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