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「自分のための祈り」

石川和夫牧師

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

だから、こう祈りなさい。

『天におられるわたしたちの父よ、』

(マタイによる福音書六・八―九)

  「われわれは自分から、『われらの父よ』と言うことが許されていると考えるに至ることは不可能である。たとえ、『星空のかなたに愛する父がいまし給う』というような言葉を聞いたとしても、その高くかつ遠い座をみて、ほろ苦い思いをするだけである。そのような言葉は、自分の中に生の歓喜が溢れてくる酔いしいれたような瞬間に、歓喜をかなでる楽器でいっぱいな天空を眺め、その上にやさしく愛すべき父を見るあの恍惚とした瞬間に、誰かが歌ったものでしかあり得ないことを、われわれは感じるからである。

 そうだ、『われらの父よ』と言うことなどわれわれには到底出来ないのだ! 本当にそんなことは出来はしない!

 まったくの奇跡でしかないただ一つの条件の下でだけ、われわれも父を呼ぶことが或いはできるであろう。われわれが口を開くに先立って、父が先ずわれわれに語り給うならば、父がほんとうに確かに御自身を開示し、人間の如何なる思いにもかかわらず暗黒の森の中に事実いまし給うことを保証し、『父よ、父よ』とわれわれの叫ぶとき、おのが渇望の幻影の犠牲となることはないと確証し給うならば、われわれも父を呼ぶことが或いはできるであろうものを。

 このように考えてくると、イエス・キリスト御自身が主の祈りを祈るように教えてい給う、という事実が如何に重要なことであるかを、われわれは今はっきりと理解するのである。」(ティーリケ「主の祈りー世界をつつむ祈り」新教新書六五、一九、二〇頁)

 ヘルムート・ティーリケ博士(元ハンブルグ大学学長)が第二次世界大戦末期とドイツ敗戦直後にシュトゥトガルトで牧師をしていた時になされた説教の一節です。イエスが、祈りの呼びかけを「父よ」と教えられたことは、画期的なことでした。当時のユダヤ教でも「われらの父よ」と祈りましたが、それは、形式的な美辞麗句の用語の一つに過ぎず、イエスが教えられた「父よ」という言葉は、家族的な言葉で、それまでのユダヤ教で祈りに用いられたことのない日常の通俗的な語でした。イエスは美辞麗句を連ねた形式的な言葉を廃し、素直な心で祈ることを教えられたのです。

 イエスが「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言っておられることは、私たちの祈りを根本的に変えられました。願うことよりももっと大切なことがあるということです。だから、こう祈れ、と主の祈りを教えられたのです。だから、極端なことを言えば、主の祈りさえ祈っていればいいということになります。

しかし、宗教改革者のルターに言わせれば、最大の受難者が、また主の祈りでもあるのです。当時のカトリック教会では、自分の罪を神父に告悔した後で、ロザリオ(数珠のようなもの)の祈りを何回唱えなさいと命じられたそうです。主の祈りを一回祈るたびに、ロザリオの玉を一つずらして、それを繰り返すのです。人間誰でも早く終わらせたいと思いますから、当然、呪文を唱えるように早口で祈ります。ルターは、そのことを批判したようです。

 唱えるのではなく、一句一句をじっくり噛み締めながら祈ることによって、自分と神との関係が非常に近いものと変えられるのです。

 何を祈るか?

 「御名が崇められますように。

  御国が来ますように。

  御心が天で行われますように、

       天におけるように地の上にも。」

(マタイ六・九節、一〇節)

 これは、直訳すると、「あなたの名が崇められますように」というように、神様のことを祈ることです。英語では、「THY」(汝の)が使われています。神様は私達が祈らなければ御心をなさらない方ではありません。では、どういうことなのでしょうか。

  一九六一年九月一八日、国連事務総長在任中に、アフリカのコンゴで飛行機事故のために五六歳で亡くなったダグ・ハマーショルドは、篤信のクリスチャンでした。彼の日記が本になって発表され、日本語でも「道しるべ」という題で、みすず書房から発売されました。その中に、彼が主の祈りを書いているところがあります。

  御名を聖となさしめたまえ

                わが名にはあらずして

  御国をきたらしめたまえ 

                わが治世にはあらずして

  御意(みこころ)を行わしめたまえ

                わが意志にはあらずして

  御身との平安を

      人びととの平安を

      われら自身の平安を

          われらに与えたまえ

   そして、われらを恐れより救いいだしたまえ

(ダグ・ハマショールド「道しるべ」みすず書房、一九七四年四月二〇日 第一一刷、一三九頁)

 そうです。このように祈らなければならないほどに、私たちは自分が可愛いのです。自分のことばかり考えているのです。だから、

  「御名が崇められますように」

と祈ることによって、崇めていない自分を知るのです。主の祈りは、自分を知らされる祈りなのです。そして、御名を崇めていない自分を知ることによって、「神様、ごめんなさい」と告白すると、その途端、一切を神様にお委ねした平安に覆われます。

 後半の

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 わたしたちの負い目を赦してください。

     わたしたちも自分に負い目のある人を

     赦しましたように。

 わたしたちを誘惑に遭わせず、

     悪い者から救ってください。」

も同じです。まず、「わたしたち」と祈ることに注目しましょう。「わたし」ではありません。まず、自分の一家に目を向けましょう。それだけに留まりません。「わたしたち」は限り無く広がります。まず、「わたしたち」の教会に目を向けましょう。さらに、多摩市、東京都、日本国、アジア、全世界と範囲は広がります。そして、「わたしたち」には、いい人も悪い人も含まれます。イエスが「わたしたち」と言うとき、それは、神が創造された全ての人を意味しています。だから、ティーリケ博士は「世界をつつむ祈り」と言うのです。

 礼拝の前半で、主の祈りが祈られるときは、悔い改めの祈りとなるでしょうし、終わりの方で祈られるときは、献身と服従の祈りとなります。だから、主の祈りは、早口で祈らないで、しっかり一句一句を大事に祈らなければなりません。

 二重の慰め

  「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とイエスが言われたことのもう一つの大事な意味があります。ティーリケ博士は、それを「二重の慰め」と言っています。一つは、神はわれわれの祈りに先がけて、いつもそこにおられる、と言うことです。別の言い方をすれば、「わたしたち」が先にいるのではなくて、神が先におられる、ということです。そのことをパウロは、ローマの信徒への手紙で、こう言っています。

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、

神の道を理解し尽くせよう。

 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。

栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

(一一章三三節、三六節)

 もう一つの慰めは、たとえ、わたしたちには神からの答えが聞えなくても、神はわたしたちの期待を遥かに超えた素晴らしい解決を必ず用意しておられる、と言うことです。だから、「ああしてください」「こうしてください」とくだくだ祈らなくていい、とイエスが言われるのです。

 ティーリケ博士は、連日の連合軍の激しい空襲におびえていた会衆に向かって、こう言います。

 「わたしは敢えて言う、まさに防空壕の中であっても、われわれはまったく静まって言うべきである。父なる神は知り給う。父なる神は知り給う。父なる神は、御自身の生命と永遠の御計画からみて、あなたにとって何が良いことかをほんとうによく知ってい給う。……それだから、あなたは静まっていなさい、と自らに言うべきである。そして、この平静さをもって、この心の平安をもって、今や、あなたは父に祈ることが許されている。」(前掲書四二、四三頁)

  ハマーショルド氏の日記に時々同じ言葉が登場します。

 「『――夜は近きにあり。』

 過ぎ去ったものには――ありがとう、

 来たろうとするものには――よし!」

(前掲書九九頁)

 危険を予感しつつ、過ぎ去った事柄については、後悔したり、恨みがましく思ったりしないで、万事を益としてくださる神に委ねて、すべて感謝する。これから起ころうとすることは、どんなことでもOK、というあり方、彼の徹底した信仰が、見えます。彼は、きっと主の祈りに生きたのだと思います。

 うまく祈れるか、どうかは問題ではありません。イエスさまは、なんとありがたいことでしょう!どんなに小さい子どもでも祈れる単純で完璧な祈りを教えてくださったのです。ティーリケ博士は、こう結んでいます。

 「祈りにおいてたいせつなことは、われわれがある特定の懇願を申し述べるということではなく、われわれが父なる神と結ばれ、人格的な交わりに入ると言うことである。ただ、心から『愛する天の父よ』と言うだけであっても、すでに祈りのたいせつな点は満たされているのである。」(前掲書四三、四四頁)

(二〇〇一年五月二〇日、第二礼拝の説教要旨)