2003/02/02 「神が住む」 ルカ 21:1〜9  (MP3)   
 主題(新しい神殿)
 山下万里牧師(「信徒の友」2003年2月号--聖書翻訳の際ギリシャ語のエクレシアをチャーチあるいはキリヘと訳してしまいそれを完訳聖書が教会とし、口語聖書も教会としたことは大変残念な事だった--私たちは教会を共同体ではなく文字通り”教える会”としてしまいました。教えるものと教えられるものとは厳然と区別され、それぞれ牧師、信徒と呼ばれます。そして教えるものと教えられるものとは本当に心を分かち合えることはできません。あるいはキリストの業を成すべき組織としてしまいました。組織であるなら一番効率の良いのは軍隊であるように、牧師が信徒を支配するようになり、信徒の間にも支配関係が成立します。逆に信徒が牧師を支配しようとするかもしれません。そして共同体は崩壊するのです。牧師にせよ信徒にせよこの教会は私が守らねばと思い始めるやいなやどんなにまじめで熱心で精力的であろうと、そうであればあるほど共同体は破壊されるのです。なぜなら共同体は主イエスによって存在させられているものであり私たちの努力の結果でも、理想でもなく主イエスによる霊的な現実だからです。--) 
 教会と訳したことで(--先生と弟子の関係--一つの組織になってしまった--本来のエクレシア”呼び集められた集団”の意味から外れてしまった--)
 献金”貧しい寡婦の献金”(--私たちの献金の祈りの中に”レプタ二つを捧げます”というような謙遜ととられる祈りがあります。謙遜した言い方ではありません。金額の小ささを言っているのではありません。レプタ二つとは全てを捧げて”神様にすべてをゆだねている”いるという信仰の表現です。--私はこれだけのことをしましたというのは自慢していることです--)
 神殿の石垣(--目に見えるものはいずれ崩れます--形だけのものはいずれ崩壊します--)
 悪い言葉を語るな(--どんなにあるがままを受け入れましょうと語っても--そのあとで信徒相互が”あなたの信仰は間違っていますよ”といえばそれは悪い言葉です--)
 共同体(--支えあい”事の良しあしではなく誰のおかげだとかだれだれががんばっているからということではなく共感しあい励ましあうものです--)
 私たちが神の神殿(--支えあう共同体--そこにこそ神が住む--)
 久世そらち 牧師(「信徒の友」2003年2月号--私たちの--教会は百年の歴史を刻むことを許されていましたが主の前にあまりにふさわしくない土の器にすぎなかったことをうなだれて告白せざるをえません--にもかかわらず土の器である私たちを不思議に用いることができるのです--戦時中餓死した牧師を見殺しにした--このことを痛恨の痛みとして感じた信徒の話--)
 壊れやすい土の器(--宝”神の神殿”を抱えている--)

「分類キーワード(教会)」

2003/02/09 「伝統と革新」 ルカ 5:33〜39  (MP3)   
 モルトマン神学博士(--人間がそれにだんだん慣れてしまうことが一番悪いのだ--いい年をした若者が失業しています。人はそれになれてしまいます--人々は他人の困窮に目をけれようとせず自分が苦しむことを避けるからなのです--)
 信仰生活の慣れ(--イエスに質問”徴税人レビがイエスの仲間になり宴会をしたことが下敷きとなっている”したパリサイ派の人達や律法学者たちが道徳的に悪いということではないが信仰生活の慣れが他人の困窮に目をけれようとせず自分が苦しむことを避けた--)
 イエスをなじった人たち(--レビが救われたことに目を向けず断食の習慣に従わなかったことをなじった--他の人の困窮に対して心を閉ざしている--)
 新しい葡萄酒は新しい革袋に入れる(--イエスの教えに割礼も加えて必要なのだと妥協をしている人たちのことを福音書の記者ルカは意識しているようだ--)
 新しい革袋(--自分が持つ価値観を一度捨てて見直す--)
 古い革袋(--自分の持つ古い価値観にとらわれる”大事なものが見えない”--自己中心となり自分を守る姿勢となり。他の人の痛みや苦しみに目を注がなくなる--)
 戦争による解決(--どれほどの弱い立場の人たちが傷つき死ぬことか--)
 関茂牧師(--信徒の友「御言葉に聞く」”まかせゆだねる”--それなのに、ああそれなのになかなか手放せないどころか,かえって後生大事に抱え込む--実につまらないものを、余計なことを、それこそかけがえがなきもののように取り入れ抱え込む、あんたなに夢中になっているの血相変えて--私たちは神よりも人に頼る傾向がある。ではなくて自分と自分の一生をゆだねお任せするのです--あーら不思議ここから先はやった人でなければわかりません。信仰とはそういうものです--信頼してゆだね、お任せしないでただ要求ばかりしている。その上思い通りにならないとすぐ尻をまくる。それがわたしたちです。それは信仰ではありません。信仰を装った取引です。信仰はいただくだけではなく、むしろより多くお捧げするものです。時も力もお金も自分と自分の今とこれからも、要するに捕らわれない、縛られない、まかせゆだねて軽くなる。なんだまだ飛べるんだ。--)

「分類キーワード(ゆだねる)」

2003/02/16 「神の国の秘密」 ルカ 8:4〜15  (MP3)   
 清水恵三牧師(「イエスさまのたとえ話」(日本YMCA同盟出版部、1982年12月1日、第1刷、41頁--イエス様の言葉に驚くことを失ったら、信仰は呼吸困難になるでしょう。--)
 何に驚くか(「種まきの譬え」--、弟子たちがイエス様にこのたとえは、どんな意味なのでしょうか、と尋ねました。だから、神の国の秘密が分かるはずの弟子たちが、実際には、分かっていないということが、明らかです。このことに、驚きました。--神は、既に種まきを始めておられます。--神の国は必ず成ります。ということに、ポイントがあるように思うのです--良い土地であることがめったにないかもしれません。しかし、神は、確実に、救いの業を進めていてくださいます。このことが、このたとえ話で伝えたい「神の国の秘密」なのです。--道徳的に解釈すると「神の国の秘密」が見えなくなります--)
 晴佐久神父(「福音宣教」三月号「ミサは地球を救う」という論文を書いておられます。--ぼくたちのミサこそがその救いのパワーを秘めているからだ。--「父の抱擁」を、放蕩息子のたとえ話で説明します。--「洗礼を受けたから救われるのではなくて、救われていることに気がついたから洗礼を受けるのだ」”前掲書、17頁”といいます。--私たちは、自分は愛されていない、という欲求不満で一杯なのです。私たちが「赤ちゃん帰り」をする。つまり、お母さんの懐に抱かれて、お母さんのおっぱいを飲む赤ん坊に帰る。イエス様が、「赤ちゃんのように、なりなさい」といわれた、そこに帰るのです。--今、本当に父親の抱擁を身に受け止めていたら--我が身を犠牲にしても、他者と全てのいのちを生かしたいという愛がこの世界にもたらされるのである。」前掲書、21頁--) 詳細解説ページはここです

「分類キーワード(信仰)」

2003/02/23 「人間回復宣言」 ルカ 5:12〜26  (MP3)   
 主題(癒すキリスト)
 柏木 哲夫医師(かしわぎ てつお、淀川キリスト教病院--ホスピス--この病院にきて癒されました--患者さんたちの気持ちをわかってあげる--)
 癒される(--病気や苦痛が治ること--長い間ほしくてたまらなかったものが手に入って満足する--)
 イエスのいやし”中風の人”(--人間回復宣言された人は神を賛美して初めて人間回復となる。病気が治ったから一人前というのではない、命が癒されて神によって生かされていることを受け止めた人”ルカの主張”--部分的に病気を癒すのではなく、全人格的に目を神様の方へと向けるように新たに切り替える--)   ヴィクトール・E・フランクル(「夜と霧」”新版”--解放された時の思い--あまり何も感じない--極度の限界状況におかれていると感覚がおかしくなる--心よりも体の方が回復は早い、次の日から食べに食べまくった--数日たってから内面で何かが起こる。突然それまで感情をせき止めていた奇妙な柵を突き破って感情がほとばしるのだ--花の咲く野原を突っ切ってゆく--あなたはこの自由な空間に歩を運ぶことをふっとやめ立ち止まる。あたりをぐるりと見回し、頭上を見上げ、がっくりと膝をつくのだ。この瞬間あなたは我を忘れ、世界を忘れる。たった一つの言葉が頭に響く--この狭きよりわれ主を呼べり、主は自由な広がりの中、我にこたえたまえり--この日、この時あなたの新しい人生は始まったということだけは確かだ--あなたは再び人間になったのだ--)
 神との対話、賛美、心が通じることによって本当に人間回復ができる
 フランクルが収容所にいるとき(--いつ死んだってしょうがないという人々に対し”そうじゃない、その苦しみと、死も真正面に見据えようじゃないか、死においても私たちは素晴らしかったんだといえる人生を送ろうじゃないか,自分たちの死が誰かのためになる。誰かが解放されるということを信じる”といった--)


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