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神の国の秘密

石川和夫牧師

また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」

イエスはこのように話して、

「聞く耳のあるものは聞きなさい」と大声で言われた。

(ルカによる福音書8:8)

「イエス様の言葉に驚くことを失ったら、信仰は呼吸困難になるでしょう。」(清水恵三「イエスさまのたとえ話」(日本YMCA同盟出版部、1982年12月1日、第1刷、41頁)

 これは、すでに召されました清水恵三先生の言葉です。イエス様の言葉に驚くということが、聖書をしっかり受け止める出発点なのだというわけです。

 「イエス様の譬え話には、極めて日常的な素材と状況の中に、ある異常性や異質性を持った部分がはさみこまれています。そこで、聞き手が、驚きます。驚きの中に神の国の福音がしまい込まれています。なるほどと、感心して納得できる部分にではなくて、『これはおかしいぞ』とひっかかる所が大事なのです。バカバカしく思ってしまうようでは元も子もありません。それこそ福音の種を拒絶してしまうことになります。同じように、よく納得してしまうことも危険です。驚くことです。イエスさまの言葉 に驚くことを失ったら、信仰は呼吸困難になるでしょう。」(前掲書、41頁)

 イエスさまの言葉に驚く、あるいは不可解だと思う、「何で、このようなことをおっしゃるのだろう。」というところが、実は鍵なのです。

何に驚くか?

今日の福音書は大変有名な「種まきの譬え」です。

私は、何に驚くのかな、と思いながら、もう一度、聖書を読み直してみました。

「弟子たちには神の国の秘密を悟ることが許されているが、

他の人々にはたとえを用いて話すのだ」(ルカ8:10)

とイエス様はおっしゃいました。にもかかわらず、弟子たちがイエス様にこのたとえは、どんな意味なのでしょうか、と尋ねました。だから、神の国の秘密が分かるはずの弟子たちが、実際には、分かっていないということが、明らかです。このことに、驚きました。

 驚いた点から、もう一度、よく見てみました。

 私も過去の説教では、「種が、神の言葉で、地が、私たち聞く人間だ、そして、いろいろな状況になって、神の種の言葉が芽生えないけれども、私たちは良い地になって、たくさんの実りを上げるものになりましょう」というような話になりがちだったと思います。

 しかし、イエス様の説明を読んでみると、どうもすっきりしません。

 「良い土地というのは、どういうことなのか。立派な心で、御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ。それが良い土地なのか。」というように考えたこともありました。ある意味では、そのようにも思います。 私たちが御言葉を聞くときの態度についてもヒントを与えられます。しかし、このたとえでは、神の国の秘密が述べられているわけですから、私は、もっと大きな広い意味があると思いました。

「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい』と言われた。」

(マルコ 1章15節)

これは、イエス様の宣教開始の言葉です。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出て行った」

(マルコ 4章3節)

 イエスさまは、ご自分の宣教を種まきにたとえておられます。

 まず、種をまく人(イエスさま)が種まきに出て行きました。神は、既に種まきを始めておられます。神の国は、人間の側のいろいろな状況にもかかわらず、最後に、必ず芽が出て、百倍の実を結ぶようになります。神の国は必ず成ります。ということに、ポイントがあるように思うのです。

 イエスさまの時代は、現在の日本の農耕と全然違って、畑にきちんと畝を作ったりしていなかったようです。そして、とても大雑把に、どこにでも、種を蒔いたようです。だから、道端に落ちることが起こるのです。みんなが近道をするために、畑の中を斜めに通って行きます。そのために、自然にそこが固まって、道ができるのです。そのような道のそばを道端といったようです。

 イスラエルには乾季と雨季があります。乾季には、まったく雨が降りません。だから、小麦は雨季に蒔かれるようです。地中にしみている地下水をあまり蒸発させないように浅く耕すのだそうです。深くひっくり返して耕しません。だから、石なども傍にあります。このようなことを想像してみたら、これでは、収穫量が少ないだろうと察しられます。だから、一粒の麦から十粒ないし二十粒位取れれば良い方、ということになったのです。

良い土地である、とは限らないが・・・

「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。

ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。

ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。

また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」

(ルカ 8章5節〜8節)

 百倍というのは、当時においては考えられない、桁違いの収穫ということです。

 神様は、ご自分の国を実現なさるために、既に、この世界で、業を始めておられます。だけど、世界には、いろいろな人がいます。ある場合には、御言葉を聞くが、信じようとしない。悪魔に啄ばまれてしまい、御言葉を素直に受け入れないこともあります。喜んで受け入れたと思ったら、簡単に捨ててしまう人もいます。試練の中で、耐えきれなくなり、脱落する人もいます。しかしながら、神の国は、確実に進められています。そして、必ず、百倍の実を結ぶことになります。

 私たちは、一生懸命「良い地になろう」と努力するのではなく、目を神に注ぐようにしましょう。私たち自身は、いつも良い土地であるとは限りません。むしろ、この四つの状態(1. 悪魔に啄ばまれてしまう。2. 御言葉を素直に受け入れない。3.御言葉を簡単に捨ててしまう。4. 脱落する)になり勝ちなのです。良い土地であることがめったにないかもしれません。しかし、神は、確実に、救いの業を進めていてくださいます。このことが、このたとえ話で伝えたい「神の国の秘密」なのです。

神の国は必ず成る!

 この箇所を、道徳的に解釈すると「神の国の秘密」が見えなくなります。神の国は、私たち人間のどのような罪や反抗にもかかわらず、必ず成ります。そこに、しっかりと目を注いでいなさいというメッセージではないかと思います。

 晴佐久神父がカトリック教会の「福音宣教」という雑誌の三月号に、「ミサは地球を救う」という論文を書いておられます。私もミサが地球を救うということを信じています。

 「ミサは、地球を救う。ぼくは、本気でそう信じている。もちろん、万物を救うのは万物の生みの親である神ご自身であるから、こう言ったほうが正確だろう。『父なる神は、ミサにおいてわが子地球を救う』。

 現在、地球と人類は共にその誕生以来最大の危機を迎えて瀕死状態にある。……ぼくは、現代のような黙示録的な危機の時代にあっては、より根源的で霊的な、いうなれば父なる神からの力にじかに触れることが必要だと感じている。といってもそれを新しく開発する必要はない。まさに、ぼくたちのミサこそがその救いのパワーを秘めているからだ。ヨハネ福音書が言うように、『光は暗闇の中で輝いている(1・5)』のである。」(「福音宣教」2003年3月号、オリエンス宗教研究所発行、15頁)と言っておられます。

 大事なことは、私たちが、しっかり神の国が実現するという確信に満ちて、礼拝することです。

 カトリックの礼拝をミサと言います。カトリック教会では、その中心は、プロテスタント教会で言う聖餐式です。毎週、聖餐式をして、キリストの体と血に預かるということになるわけですが、晴佐久神父は、このミサのことを「父の抱擁、母の授乳の時」と言っております。

父の抱擁、母の授乳のとき

 「父の抱擁」を、放蕩息子のたとえ話で説明します。

 父の財産を貰って出てゆき、放蕩に身を持ち崩した息子がいました。その後、本心に帰って父の元に帰ろうという決心をし、帰ってみたら父親がはるかかなたより出迎え、そして、熱い抱擁で歓迎してくれ、すぐに祝宴が始まりました。ミサは、この「父の抱擁」なのです。その抱擁は祝宴でもあります。全てに先行しているのは、神の愛なのです。

 父親が子供を抱擁したのは、そのときが、始めてではないでしょう。赤ちゃんのときからずっと抱擁し、愛し続け、子供が分け前をくれと言ったら、そのまま渡してやりました。心を痛めながら、彼が7帰ってくるのを待っていました。子供が本心に帰り、父のところへ帰ろうと決心出来たのも、すでに、そのような父の愛があったからなのです。

 晴佐久神父は「洗礼を受けたから救われるのではなくて、救われていることに気がついたから洗礼を受けるのだ」(前掲書、17頁)といいます。洗礼が、救われる条件ではありません。

 道端に落ちたとか、茨にふさがれたとか、いろいろ、困難な状況に陥っている私たちに対して、神は変わらずに、見守って、愛してくださっています。そして、最後には、必ず、救いを完成してくださいます。自分が生まれる前から、神は私たちを愛しておられます。救われていることに気がつくことが、洗礼を受ける動機となるということなのです。

 晴佐久神父は、「ミサは赤ちゃん帰りだ」とも言います。

私たちは、自分は愛されていない、という欲求不満で一杯なのです。私たちが「赤ちゃん帰り」をする。つまり、お母さんの懐に抱かれて、お母さんのおっぱいを飲む赤ん坊に帰る。イエス様が、「赤ちゃんのように、なりなさい」といわれた、そこに帰るのです。お母さんからのおっぱいをいただいているとき、お父さんに抱きしめられていたときを覚え、私たちが本気になって赤ちゃん帰りをし、今、本当に父親の抱擁を身に受け止めていたら、つまり、晴佐久神父は、こうなると言われます。

 『我々が、ミサで、神に抱きしめられ、ミサで、神の命を飲んで、真に無力で、完全に非暴力な赤ん坊となったとき、はじめて、異質な他者をわが身に迎え入れるという一致と、我が身を犠牲にしても、他者と全てのいのちを生かしたいという愛がこの世界にもたらされるのである。」(前掲書、21頁)

 私たちが偉そうなことを言わないで、「赤ちゃん帰り」して、へりくだって、神は私を愛したように、あのひとをも愛している。ブッシュさんも、フセインさんも、愛しているというその思いに立ち、愛が実現しないはずがないのだという確信を持つ、それが、私たちの礼拝なのです。だから、プロテスタント流に言えば、「礼拝が世界を救う」そのことがこの礼拝で、行われているのです。

 地上で行われているミサは、「天上のミサのこの世界における創造的実現」(前掲書、20頁)なのです。天で行われていることを、私たちがしっかりこの地上で確かめ、もう一度、神の愛により造り直されて出発するところが礼拝なのです。

 神様は「帰って来い、いつでも帰って来い」とおっしゃっています。そこに、常に戻りながら、また、私たち、不十分ではあっても(そのようなことは神様が全部ご存知)愛を信じて、神の国の中に入れられることを信じて、前向きに歩みを進めて行けたらと心から願います。

 祈りましょう。

 聖なる御神様。今日も、私たちをお招きくださってありがとうございました。あなたが私たちを愛していてくださることが、いつも先行条件でした。だから、私たちは、今、ここに、居ます。どうぞ、本当に、赤ちゃんのようにへりくだりながら、信じきって、委ねて、さらに、この地球上に及ぼされているあなたの愛をしっかりと信じて、歩み続けていくことが出来ますように。ともすれば挫けそうになりますけれども、希望を持ち続けて、歩むことが出来ますように、お助けください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン

(2003年2月16日、降誕節第8主日、第二礼拝説教より)