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の び の び 講 座 一 8 「今日に賭ける」(死と最後の審判)

石川和夫牧師   
  デス・エデュケーション(死の教育)で有名な デーケン博士が、ある講演会の席上、
              「最近、日本人の死亡率が分かりました」
と言ったので、満場固唾を飲んで、次の言葉を待った。
すると彼は言った。 「それは、百パーセントです。」会場は、爆笑の渦に包まれた。当たり前のことだったのだが、改めて「死亡率」などと言われる と、はて?と考えてしまう、そこをついた彼独特のユーモアだったのだ。
 人は、必ず死ぬ。だが、死ぬ準備については無頓着な人が多いことはすでに述べたとおりである。 しかし、世の中では、死後を「あの世」とか、「冥土」と呼んでいる。宗教によっては、死後の報いを強調しているものもある。
 昨今、よく耳にする「聖戦」での死者は、死後、殉教者の位置を与えられると教えられて、「自爆テロ」が正当化されている。太平洋戦争の末期の「神風特攻隊」の精神にも通じるものだが、死後を美化することは、非常に危険である。
 キリスト教の歴史の中でも、宗教改革の発端となった「免罪符」も誤った死後の生命についての教えが招いたものとも言える。
 今日でも、「ものみの塔」などでは、信じたもののみが、天国に入ることが出来、信じていないものは滅びる、とお しえているようである。私は、死後の天国とか極楽を保証する宗教は、きわめて自己目的的な(勢力拡張のみを目指した)堕落した宗教だと確信している。
 貧富の差の激しい社会にあっては、極貧の人々に対して、せめて死後においては豊かに暮らせる、と慰めようという考えもあるが、それは、単なる 現状肯定にとどまって、貧しい人はいつまでも貧 しいままでいる、ということにならないか?
 現在のベ'ストセラ-の「世界がもし100人の村だっ たら」によると、 「全ての富のうち 6人が59%をもっていて みんなアメリカ合衆国の人です74人が39%を20人が、たったの2%を分けあっています」
 (池田香代子再話、C.ダグラス・スミス「世界かもし100人の村だったら」マガジンハ ウス、)
ということになる。
 このような富の偏在がテ□の温床になっているのだ。世界が、世界の富の2%を分け合っている20/100の人たちに視点を置いてすべてのことを考えなければならないのだ。このような人たちにとって、せめて死後の安楽を願うとしても、それをとがめだては出来ないだろう。
 少々脱線したが、キリスト教では、死と死後の問題について、どう考えているのか。

 
          
人生は「死」で、終わりなのではない!
 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリ ピ1:6)
人生のゴールは、キリスト・イ エスの日!
 キリスト・イエスの日=キリストの再臨の日=最後の審判の日

最後の審判とは?
 
最後の審判は、天国と地獄への判定裁判ではない!
生前、不当に苦しめられ、差別されて命を落 とした人の救いのためにある。神は、不公正を見逃される方ではない。
最後の審判の基準洗礼を受けているか、どうか

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタ イ7:21)


 
御心を行うことは、単なる忠実な教会生活ではない
 最後の審判の基準
⇒マタイ25:31〜46
 
最も小さい、者の一人に対する無意識の愛
  (小さくさせられた人)(無視され、無関心のまま放置されている)
                  ↓
 
神が最も気にかけておられる者=人間のエゴや罪が相乗的に働いた結果、不当に差別されたり、孤立に追い込まれた人々
 
神がご自分の民を選ばれた理由と目的
 これに応ええなかったなら、有罪は当然
 永遠の命にあずかる者⇒「いつしたでしょう か?」(3 7〜3 9節)……|無意識]
 永遠の罰を受ける者⇒「いつしなかった でしょうか?」(44節)…[自意識過剰]
 
審半Iの座に立つ者→ 有罪の覚悟→謙遜
 
最後の審判は、神の正義が完成するときである。「正直者がバカを見る」ということが 現実だか、神はその現実をお見逃しにはならない。この世で、不当に扱われた人は、無条件で神の懐に入れられる
(ルカ16:19-31, 金持ちとラザロのたとえ)。
 この世で、「小さくされた者」に無関心で、 自分のためにだけ生きた者に対して、
神は黙っておられない。神は、「差別」の罪におい て、人を裁かれるのであって、単に、洗礼を受けて忠実な教会生活をしたか、どうかで裁かれるのではないことを銘記すべきである。

◆神はすべての人をお救いになる(万人救済)
 
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人間の仲介者も、人であるキリス卜・イエスただおひとりなのです。この方はすべ ての人の贖いとして御自身を献げられました。 これは定められた時になされた証しです。」 (テモテ一 2:4〜6)
 「永遠の罰」(マタイ25:46)とあって、「地獄」 ではない。
 罰は救うために与える→
追試験
 「天国と地獄」、「極楽と地獄」の発想は、 信者を脅迫して、自己の教団に服従させよう とする堕落した宗教の自己繁栄策に過ぎな い。
 神は、「差別」に無関心で生きた者、
 特に自己の繁栄のみを追求して生きた者に対 して厳しく裁かれる。だが、そのまま「地獄」 に落としてしまうのではない。そのような者たちも最期には、必ず救われる。なぜならば、
 滅びる魂か存在すれば、神の愛が絶対ではなくなる!
 神に赦されえない、罪はない!
からだ。
  従って、最後の審判、終末は、恐ろしい悲劇のときではなく、死に至るまで忠実に主に従って、神が最も心にかけておられる「最も小さい者」に仕えようと務めてきたものにとっては、「希望と喜び」、「解放」のときで ある! 人が、他者の生涯を軽々しく裁いてはならな い。どんな人生にも必ず生まれてきた意味がある。たとえ人には分からなくても! その典型が、イエス・キリスの生涯⇔「史上最大の失敗者」

◆確かに生きているのは、今(今日)しかない⇒今日に賭ける!
 今日死ぬかもしれない 死=今
 
死は終点でなくなる
 
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』 『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 (ルカ 17:20,21)
 未来への希望←
今に牛きる→過去を受容できる(呪わしい過去はなくなる)
  ↓
マラナ・タ(主よ、来てください)(コリントI1 6:22)

完成と発表の日!
 「歴史の終わりにおいても、天使と救いの完成された義人の永遠の讃歌が鳴りわたる。
 神の国は永遠の礼拝の場所である。それは絶えざる神讚美の場所である。」
 (ティーリケ「主の祈り」一世界を包む祈り一、新教新書65,224頁)
 「神を讀美するとは、すべてをその終りから見ることにほかならない。事柄を大いなる目的地と神の完成とから静かに思うことである。その故に、パウロは、胸を締めつける うな心配と不安に襲われながらも、真夜中に、讀美の声をあげることができるのである。
その故に、彼はさらに、讚美の歌をうたわざるを得ない。肉体と心の悩みの中で,敢えて単純に神をほめうたう時、----あらゆる外観 と己が知覚と感覚の如何にあろうとも----その時に、神の道のこの終りがその心の前に顕わに歩みくる、その時に、しめっぽい洞窟のただ中で、神の国が彼を取り巻くことを、 彼は知っていたからである。...... その人の平静さと沈着が多くの人々に平安を与え、この非常に困難な、激烈な空襲に明け暮れる戦争の時にこそ、多くの人々に平 安を与えることのできたある人を、わたしは 知っている。その人は、ある時、わたしにそ の秘密を打ち明けてこう言った。空襲が激し く、ほんとうにひどくなった時には、わたしは神に祈ることを止めます。そのかわり、神にひたすら讚美を捧げるのです。そうするこ とによって、この人は、恐るべき瞬間のいわば魔力を免れ、この死の恐怖の時を越えて、 永遠の広場を見、それに比すれば、この瞬間はすばやく過ぎ去るほんの一瞬に過ぎない、 あの神のあらゆる道の終点を見るのである。 そうすることによって、彼の思いは、いわば 火事の警鐘を越えてゆき、まったく新しい視野を獲るのである。 そのように、神を讚美するとは、すべてをその終りから見ることにほかならない。」
 (前掲書.226〜227頁)
 神の国に不必要な生命は、-つもな い!-つでも欠ければ、完成しない
 ジグゾー.パズルのよう
 うらをみせおもてを見せて散るもみじ (良寛)
 基督のものになってしまえば 私の目的ってなくなる
 ただきれいな気持ちで遊ぶようなきもちでいればいいのだ (八木重吉)

                   使徒信条解説一8
きよい公同の教会

まず、「教会」とは何であるか、ということに触れておきましょう。ギリシア語で「エクレシア」と言いますが、それは、もともと召集された集団、ということでした。古代において、王が敵と戦って勝利を収めて凱旋するとき、町の広場に市民がそのことを知らせるファンファーレと共に集まります。
そのような集団のことを「エクレシア」と呼びました。教会は、キリストに呼び集められた人の群れです。
単なる「同好の士」の集まりではないのです。あなたもキリストに呼ばれたのです 「きよい」と訳されている言葉は、文語文の使徒信条では、「聖なる」と訳されていました。それは、 もともと「特別に区別された」ということを意味していました。つまり、神様のために特別に区別され た、ということなのです。
 教会は、ただの宗教的クラプではなく、神様のお選びになったク'ループ、人の群れ、ということです。
 「公同の」というのは、文字通りには、「カトリック」ということです。それは、普遍性を意味します。
 カトリック教会は、全世界どこでも同じ式文で同じ聖書のテキストで礼拝をしていますが、それも 大事な普遍性ですが、最も大切な普遍性は、キリストにおいて一つである、ということです。
 プロテス タント教会では、そのキリストにある一致がなかなか現実的にはむつかしいのは、悲しいことです。