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の び の び 講 座 一 7 「矛盾の同居」(自由に生きる)

石川和夫牧師   
人間の価値判断は妄想
 古い見方にとらわれていては、新しい世界は開けない。道元さん(曹洞宗開祖)もそう 考えていたに違いない、
 「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という涅槃経(ねはんきょう)の一文がある。普通は「一切衆生悉く仏性有り」と読み、誰もが仏になれる性質を持っているという意味。だから人間は尊いと昔は読んでおった。
 だけど道元さんは「悉く有り」を「悉有」、つまり存在するものすベての意味とし、「悉有は仏性なり」と読んだ。
 われわれ人間にだけ仏性かあるのではなくて、天地一切が仏性だという。それまでの人間界から、全法界が仏性であると。人間も犬も全部仏性なのだとね。道元さんによって世界観がまったく変わ ってしまった。
 「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり」という歌かある。この歌は川端康成さんがノーベル賞をもらった記念 講演で引用して有名になった。
 それから一般の人は、その歌を「美しい日本の自然」という意味に受け取っておる。
だが、そうではない。その歌は実は『本来の面目』という題なのだ。天地のものは様相が全部違っており、しかもそれぞれが絶対の存在なのだという意味。
 この世界には人間の価値観は通じない。赤い花も黄色い花も、どれか良くてどれか悪いと言うことはない。
 人間も頭が良かろうが悪かろうが、そのあるがままで絶対の存在だという安心の上に立てば楽になる。 だが、競争社会ではそうはいかない。イワ シの群れに「お前は一体どこ向いて泳いでい るのか」と聞くと、「よう分からんからもっ と偉いやつに聞け」と言う。少し偉いやつに 聞いても「俺も知らん」。それと同じこ っちゃ。人間もどこを向いて行くのやらわけが分からないままアップアップしている。そのくせ、他人を蹴とばして浮かび上かろうとする。そんなことせんでも人間は過不足ない存在だと分かっていない。
 釈尊が悟りを開い たとき、「我と天地有情と同時に成道せり」という言葉を発した。「同時に」というのは「いつでも」という こと。過去、現在、未来、いつでも成道すということは、過不足なくそこにあるということ に気づくということじゃね。人間は生まれたまま過不足なくそこにある。ところが人は過不足ないどころか、足らん、足らんばかりで生きている。
 あるところへ話をしに行ったとき、前回の講演者の話が印刷して置いてあった。それには「修行すると立派に死ぬ」と書いてあった。 わしは「そんないらんことせんで普通に死になさい」というてきた。立派だとか立派じゃないとか、そういう人間の価値判断は妄想なんじゃとね。」
 (余語翠巌「名僧いんたびゅう」' 産経新聞社、1993年4月30日、初版、 217-219頁)
人間だけが、比べる。どっちか良いとか、悪いとかいった具合に。そのような判定か必要な場合もあるが、私たちが自分自身は何者であるかを考えさせられるのは、他の人との関 係においてである。
 従って、どうしても比べてしまう。そうすることによって、自分の個性を発見するに至ればいいが、人間には、本能的に、優越感の快感と劣等感の嫌悪感を知っているので、どうしても快感の方を選びたくなってしまう。そうすると、その条件が満たされていないことに気付くと劣等感に走ってしまうのである。
  しかし、よく考えてみよう。もしも優越感 だけに浸って生きている人があれば、他者から見たとき、「なんという高慢な人だろう」と映るであろうし、逆に、劣等感に陥っている人を見れば、そんなこと大したことないの に、と映るだろう。
 だから、自分自身の意識と他者に見える部分に落差が少なければ少ないほど、当人にとって楽なのだ。 余語和尚には、そういう人と比べている自分が全く見えない。自由なのである。
 全く人の目を気にしなくなってしまうと問題だが、
人の目ばかりを気にしてばかりいると窮屈で生きづらい。
 自分が自分らしく生きられれば一番生き生きとするだろう。その自由を妨げているものを聖書の信仰では、「罪」という。この「罪」 という言葉も「犯罪」、「罪人」、「功罪」 などと使われているので、非常にイメージが悪い言葉だが、聖書で言う「罪」は、そのような道徳的、法律的「罪」とは類を異にする。

◆罪とは何か?
 ある中学生の質問
  「人にうそをつくことは、罪ですね。人を教会に連れてくることは、いいことですね。そうすると、人にうそをついて(騙して)教会に連れてくることは、罪になりますか?」
「罪」を道徳のレベルで とらえてはならない。
 「今まで<罪>ということばを<倫理・道徳>としてとらえていたのですが、
 今は<罪>ということばを<思い違い、考え違い、心得違い〉ということばに変えて使っています。」
 (今野東志男神父、「素顔の信仰生活」、 中央出版社、1990,6,11,157頁)
罪=ハマルテヤ(ギリシア語)⇒的を射はずす⇒神の前での見当はずれの判断
信仰の問題
道徳→行為
信仰→関係
罪⇒神との関係→究極的な審判者である神を無視して結論を下すこと
神の前での見当はずれの判断

◆「罪」は、人間固有の「善悪の知識」 から発生する⇒差別→人間固有のもの


 善→幸福 健康 成功 富
 不幸→病気 失敗 貧
 究極的善は、人間には分からない。「何が幸 いするか、分からない」
 創世記2章のアダム⇒あるべき人間の姿⇒神の領域(命、善悪の知識)に触れない イエス・キリストは、 創世記2章のアダムを生きられた方
 「善い方はおひとりである」(マタイ19:17)
 「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」 (マルコ10:18、ルカ18:19)

 イエスにおいては、常に絶対的に「良い」方は、創造者である神のみだということに徹 しておられた。
 だから、究極的に「良いこと」 は、神様しかご存じないということがすべて の場面で生きておられた。
 十字架の死においてすら。
 創世記3章のアダム⇒現実の人間の姿

◆「罪」の現実
 創世記3章から

 @ 判断のミス…みにくさを悪と判定(とらわれの結果)7節
 A 神を避ける…真実から目をそむける8節
 B 会話のズレ…言い訳が先行 10節
 C 責任転嫁…自分だけが悪いのではない 12節
 D 性差別……女性は男性に服従すべきもの 16節
 E 労働の空しさ…労働が正当に報われない 17節、18節
 ボタンのかけちがい

◆「罪」の解決は、一方的な神の業による

 「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(コリントニ 5:13)
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなく なっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とさ れるのです。」(口ーマ3:24)
「贖い」……旧約では、@人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと。A身代金を払って奴隷を自由にすること。B家畜や人間の初子を神にささげる代わりに、いけにえをささげること、などの意味がある。旧約聖書の中で神が特に「贖う方」(イザヤ41:14)と呼ばれているのは、イスラエルの民を奴隷状態から解放する神の働きを述べたものである。
 新約では、キリストの死によって、人間の罪が赦され、「神との正しい関係」に入ることを指す。
 (新共同訳聖書、用語解説より)
「義」……新約聖書では、神が人間にお求 めになるふさわしい生き方。
 神の裁きの基準を意味することが多い(マタイ5:20、6:33、1ヨ ハネ3:10、ヤコブ1:20参照)。
 特にパウロ書簡では、「人間を救う神の働き」、その結果である「神と人間との正しい関係」を意味するが、キ リストによる贖いと必然的に関連し、人間が義とされることは、神の前で正しい者とされることで あり、「救われる」とほとんど同義である(口ーマ 3:21?26参照)。(新共同訳聖書、用語解説より)
 神との関係の断絶=罪⇒死の恐れ
 神との関係の回復=求い⇒永遠の生命
 究極的な審判者であり、私たちの創造者である神が、それで良いと認めてくださる。
 イエスの十字架(死に至るまで従順であられた)の死が、私たち人間と神との関係を再構築し た。あの出来事において、神は人間の罪を赦 しておられることが再確認された、と言ってもいい。旧約においてもそのことが明らかに されていたのだが、客観的な出来事として認められるに至っていなかった。キリストの十字架の出来事において、今やそれが明らかになった、というのがキリスト教信仰なのである。

◆救いは到達ではなく、出発⇒今を見直し、希望を持ってチヤレンジ
 
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
 古いものは過ぎ去り、新しい ものが生じた。」(コリントn 5:17)
 「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行っ た。J (ルカ15:20)

 神との新しい関係=罪と死からの解放⇒自由=あるがままの受容⇒矛盾の同居
 道徳(律法)的に正しい確信⇒無意識に人を見下げる
 矛盾の同居⇒人を見上げる へりくだる (従順)
 義人・罪人 天使・悪魔 王・奴隷 自由・不自由 善人・悪人
 イエスの「わたしに従いなさい」(マタイ9: 9)の背景には、このへりくだりがある。⇒「お前なしにはやってゆけぬ」
 「宗教の中には、二種類のものがあるようです。一つは、その宗教に入ると、自分がピカ ピカしてきて他の人たちは救われていない、 かわいそうな人に見えてくる。もう一つの宗教は、それを信じると、他の人がピカピカに見えてくる。」(前掲、「素顔の信仰生活」' 80頁)
 救い=自由=復元力への信頼

              使徒信条解説一7
わたしは聖霊を信じます。
  「愛の助け手」のところで学んだように、聖霊は信じるべきもので感じることに重点を置いてはいけません。 「感じる」ことに重点を置くと、非常に主観的になってしまうからです。 もちろん、「感じる」場合もあると思います。しかし、それも丁度電気にしびれるように、今、ビンビン来てい る、という風なものではありません。それは、ひょっとすると「悪霊」かも知れません。異常な神秘体験とあまり 結び付けないほうがよいと思います。
 聖霊は、私たちの無意識の部分でいつも働きかけておられる神ご自身です。
 肉体が空気の中で生かされているように、霊は、聖霊の海の中で生かされているのです。
 空気を殊更に感じることが滅多にないように、聖 霊を殊更に感じることはあまり無いのが普通です。
 聖霊は、イエス・キリストの霊でもあります。
 ヨハネによる福音書14:25〜26、15:25〜16:15をよく読んでみてください。
 聖霊は
 @ 聖書の理解を助け(14:26)
 A イエスの教えを思い起こさせ(14:26)
 B 平和を与えます(14:27)。
 C イエスが神の子であることが証され(15:26)
 D 罪を明らかにし(16:8,9)
 E 義について明らかにし(16:8,10)
 F 裁きについて明らかにします(16:8,11)
 G さらに、真理を悟らせ(16:13)
 H イエスに栄光を与えます(16:14) つまり、
  イエスさまが素晴らしい!と分からせてくださるのが聖霊です。
  また、聖霊は、「イエスは主である」と告白させ、人に適した賜物を下さいます(コリント一:12:1〜11)。
  聖霊 は、教会を支え、教会を導き、教会を強め、教会を一つにしてくださる神様ご自身なのです。