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の び の び 講 座 一 5 「いかに死ぬか」

石川和夫牧師   
 「当時の刑罰の方法は、ローマとユダヤ では異なっていた。ユダヤ民族内で裁く場合、極刑は、姦通の女のところで述べたように石打ちである。
 ローマ、ユダヤに共通しているのは軽犯罪に対する答刑(ちけ い)だが、ローマは同じ死罪でも、ローマの市民権を有する(パウロのごとく)罪人は斬首、ローマ市民以外の重罪人には十字架刑をもって臨んでいた。
 では、なぜイエスはユダヤ人であったのに、石打ちではなく十字架刑になったのか。
 神殿と律法に拠るユダヤ教側から見ても、 イエスが殺人、盗み、不倫といった具体的 な罪を犯したのではないことは明らかである。しかし、許せないのは神の子メシアを否定しないことにある。だが、イエスと弟子たちはユダヤ人の慣習を大枠では守って暮らしている。ならば、刑事犯ではなく帝国に危険な思想犯としてローマに裁かせるしかなかったのだ。
  のちに、弟子のステファノがユダヤ教徒に石打ちで殺されるが、その時はイエスを信じる集団の幹部として、ユダヤ教からの宗教弾圧の対象になったのである。ゴルゴ夕の時はイエス個人の思想が問題であって、イエスの弟子たちの小さな群れはユダヤ教からすれば、いまだ弾圧するほどの異端教団ではなかった、といえよう。
  ゴルゴタ(されこうベ)の刑場に着くと、 ローマ兵たちがイエスの衣を剥ぎ取る。担いできた横木を地に寝かせ、その両端にイエスの両手を釘で固定する。横木のイエスを前もって立ててある縦木に堅く縛りつ け、最後に両足を立て木の部に再び釘で打ちつける。縦木についている台がイエスの足裏を支え、体重で両の掌が釘で裂けるのを妨げる。苦痛を長引かせるための、兵士たちの手慣れた仕事ぶりである。
  かつて羊や山鳩を神殿の犠牲の祭壇に捧げるには十四の手順があった。イエスもまた、十字架の道の十四の留を経て己が生を奪われようとしている。」
(河谷龍彦「図説、イエス・キリスト」、河出書房新社、2000年6月20日,初版、106-109頁)

◆人は常に「死」を背負って生き ている
 人生=死に向かう歩み
 いかに生きるか=いかに死ぬか
 人は必ず死ぬ。死なない人は一人もいない。 しかし、人は自分が死ぬことについて考えたくはないのが普通である。自分は、いつまでも生きるつもりでいる。だが、死はいつ訪れるか全く分からない。言ってみれば、 潜在意識の中に、今日も死が来ないでくれと願いながら生きている。
 今日の健康産業 ブームは、人が死にたくないと願っている 願望の表われである。
 でも、人は必ず死ぬ。
 つまり、生きている、ということは、死に向かって生きている、ということにほかならない。生きることが充実するためには、 どうしても訪れる死に対しての備えが必要である。
生き方とは、死に方なのだ。死 に方を心得ておけば、生き方がそれで決ま る。
 人間だけが「死」を怖れて生きている⇒未来への不安⇒神との関係の断絶⇒罪
 「死」を受容し得ない人生は、空虚の生(偽っている生き方)
 聖書では、死に対する恐れは、罪、つま り、神との関係の断絶にある、と主張する。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 (コリント一 15:56)
 「罪の力は律法です」というのは、律法、すなわち約束事、あるべき姿、……べきで ある、……べきでない、というものに縛ら れている状態のことを示す。
 そういったことが、死ぬときは楽に死にたい、長患いして人に負担をかけずに死にたい、というよ うな願望を生み出す。そのような願望自体 決して悪いことではないが、それに囚われると自然に自己中心になって、大事なもの、人の心の美しさとか、自然の何気ない優し さに気づかなくなって、果ては、いらいらや不安の虜になってしまう。

◆死に対する不安
 @ 愛する者との別れ
 A 肉体的苦痛
 B 未完成の未練(やり残しの悔しさ)
 C 死そのものが分からない(当人にとって、 「その瞬間」は、どうなるのか?)
   (中村正尭博士「ガンかて笑って死ねるん や」[講談社]40年前のベストセラー)

◆イエスの十字架上の死は、死 に方(=生き方)のお手本
  イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。
  わたしを通らなければ、だれも父のみもとに行くことができない。」(ヨハ ネによる福音書14:6)
 
イエスの十字架上の七言 が、その答え
 十字架にかけられたイエスは、十字架上で6時間生きておられたことが福音書で示されている。その六時間の間に、十字架上で発せられたイエスの言葉がいろいろな形で伝えられていた。四つの福音書は、 それぞれの編集方針に従って、それらの言葉の中から幾つかを採用した。ルカとヨハネは、三つ、マルコとマタイは、一つ、を採用している。それらを総合して見ると七つになる。聖書では、七という数字は、完全数である。不思議なことだが、これらの七つの言葉は、死に方、ひいては生き方の完全なお手本になっていることに気づか される。
  @ 恨みと憎しみを持ったままでは、死んで も死にきれない その答え⇒(ルカ23:34)
   「赦しの祈り」=愛に生きる(=人生 の目標=愛の完成、日常=愛の訓練)
    「父よ」⇒究極的に赦す方、自分自身が赦されなければならない存在
    愛=赦し=プロセス(経過、歴史)の受容=弁護人の目で見直す
 A とりかえしのつかない失敗と罪も死の障害 その答え⇒(ルカ23:43)
   してしまったことについては、言い訳しな い⇒罪に素直になる
   罪に対しては、死ぬほかない身であっても、 罪に素直であれば、
   そのままで、イエス「と一緒に楽園にいる」と約束してくださって いる。
   「だれがわたしたちを罪に定めることがで きましよう。
   死んだ方であるキリスト・イエ スが、神の右に座って
   いて、わたしたちのため に執り成してくださるのです。」(口ーマ8:34)
 B神にも人にも見放された絶望的状況 その答え⇒マルコ15:34、マタイ27:46(詩 編 22:2)
   あるがままを受容しながら、神を呼び続る決して、
   「神に見捨てられた」と結論づけてはならない⇔ 言いたいこと(本音)をそのまま神にぶっつける
   (神の幼子の祈り⇒4詩編)
  C 愛する者との別れ
   その答え⇒ヨハネ19:26,27
   イエスのお手本は、愛に満ちていて、ユー モラスでさえある。
   残される者のほうが、もっと悲しく、辛く、 寂しいはず。 残される者への配慮と信頼
 D 耐えきれない肉体的苦痛に対して その答え⇒ヨハネ19::28
   イエスが騒がれたのだから、苦痛を我慢し なくてもよい。 騒ぎまくる覚悟⇒意外に楽に通り抜ける
   自己中心的美意識からの脱却
 E 未完成の未練 その答え⇒ヨハネ19:30
   究極の完成者(神)に委ねる。我々が完成 するのではない。
    我々も先輩たちから受け継いだものによ って、仕事をしてきたに過ぎない。
   受けたバトンを次の走者に渡せば よい。
    イエスは、
「史上最大の失敗者」だが、徹底して神に従順であり、
    結果を神に委ねたことによって、生前の業が、永遠に生きる ことになった。
    「やれるだけやった!」一日を悔いないで 生きる。
    起こった結果について、言い訳したり、人のせいにしない。
    倒れるときは、堂々と倒れろ! 「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。
    南風に倒されても北風に倒されても木はその倒れたところに横たわる。」(コヘレ卜の言葉11:3)
 F その瞬間(死とは?) その答え⇒(ルカ23:46)(詩編139:8)
   死に対して我々は、決定的に限界を知らさ れる。だが、イエスを真似ればよい!
    ・決定的な孤独⇒呼びかけ相手、しか も決定的に確かな相手(父なる神)がいる!
    ・決定的な受け身⇒することがないのではない。能動的にできることがある!
    
死=霊が肉体から永遠の神の手に移動するこ

◆死に対する勝利が、復活!
  イエスの死に方は、人間としての完全な死に方であった。ということは、完全な生き方であった。
  人間の「生」の価値は、「どれだけ」のことをやり遂げたか、
 「どれだ け」のものを得たか、で決まるものではな い。
 「いかに」生きたかで決まるのだ。創造者である神との関係で「いかに」生きたか、が問われる。
  量の問題ではなく、質の問題なのだ。
  神との生きた関係、「死にいたるまで従順であった」ということで、その「生」は生きる。
  我々は、どこまでも神との関係に おいて、不完全である。
  しかし、このイエスにおいて、神は私たちを完全なものと受 け止めてくださる、
   これが、キリスト教信仰なのである。

 「死は勝利にのみ込まれた。
  死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。」 (コリン!15::54b,55)
  「もし、わたしたちがキリストと一体になって、その死の姿にあやかるならば、
  その復活の姿にもあやかれるでしよう。」(口ーマ6:5)
 
 「『復活者』イエスを見える形で描いたところで意味はない。むしろ、生前のイエスの生とことばに注目し、
 そしてそのイエスが読者の心のなかに生き生きと生きは じめるそのときにこそ、
 イエスは『復活』 したのだ、とマルコは語っているのではないか。」
   (青野太潮「どう読むか、聖書」、 朝日新聞社、1994.1.15.第一刷、96頁)


                使徒信条解説一5

死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、
天にのぼられました。

死んで葬られ

イエスの十字架での死は仮死ではなく、ぼんとうに死なれた、ということです。
義経伝説のように、イエスは、本当は死んだのではない、という噂も生きていたそうです。
イエスは、ぼんとうに死なれた、人間として死なれた、というのがこの告白のポイントです。
よみにくだり
よみ、というのは当時の人々が信じていた死後の世界のことです。
天国に行くか、地獄に落ちるかが決まっていない死人たちの留置場のようなものと考えたら、よいでしょうか。そこにまでくだられた、ということは、全く普通の人 と同じであったということが主張されています。
三日目に死人のうちからよみがえり
「三日目に」ということは、旧約のヨナが大魚の中から三日目に地上にもどされた、という古事と共に、旧約での 約束(ホセア6:2)の成就ということを示します。
同時に、この歴史の時間の中で、という歴史性をも示します。
「よみがえり」という言葉は、直訳すると「神によって起こされた」になります。
「復活」は神によって起こされたことなのです。しかし、それは単なる「蘇生」を意味するのではなく人の心の中に「よみがえった」ことをも示します。
これも神によって(聖霊によって)起こる出来事です。
天にのぼられました
人となられた神が、神の座に帰られた、ということです。復活のキリストとして、永遠に神と共におられる、という信仰の告白です。