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の び の び 講 座 一 1 「どこへ行く?」

石川和夫牧師  

流されて生きていて、どうなる?

「俺の人生は、つまらん人生や」と考える人がおるでしょう。だけど、実は自分が、そう考えとるだけや。

立派な仕事をした人は意義のある人生で、なんにもせん人は意義がないのかな。

どこで、そんな寸法を決めるのか。酒ばかり飲んでぐうたらで死んだ人も、立派な名前や業績が残った人も一緒、というとみんな不承知だろうが、いうたら同じことやわ。

悟った者は本物で、悟らん者は偽者じゃという。みんな同じく大地の間に命を受けて、偽者と本物があってたまるか。どの人生も偽りのものはありゃせん。せっかく生まれたからには、意義ある人生を送りましょう……。何が意義ある人生じゃ。そのままで結構だ。 天地は人間の世界だけではない。その天地の中で考えてごらん。アリでもなんでもみんな同じく生きとるのだろう。人間だけが偉いような顔をしても大したことないのよ。そんなものは。人間の間だけで通用するようなそろばんで生きとったらあかん。」

(余語翠巌、「名僧いんたびゅう」、産経新聞社、1993430日、初版第1刷、221-222頁)

痛快である。「何が意義ある人生じゃ。そのままで結構だ」と喝破した余語翠巌さんは、曹洞宗大雄山最乗寺(神奈川県足柄市)の山主。当時、80歳だから、今、お元気であれば、88歳だ。いわゆる禅宗のお坊さん。禅宗では、「あるがまま」を強調している

ようである。「あるがまま」でいられたら、自由である。開き直りとも受け取られる。むつかしい言い方をすると、「自己受容」ということである。自分のあるがままを受け入れる、ということだ。これは、口で言うのは簡単だが、実際は、なかなかむつかしい。何が邪魔するのか?翠巌さんの言う「人間の間だけで通用するそろばん」があるからなのだろうか?

◆ よいこと追求だけでいいのか?

幸福追求⇒よいこと追及……大きいことはいいことだ強いことはいいことだ⇒ほんとうにいいのか?

人間だけの特徴⇒善悪の判断

 

善(幸福)明るい 強い 健康 綺麗(清潔)生

悪(不幸)暗い   弱い 病気 汚い(不潔)

人間は、良い、悪い、の判断をする能力を持っている。美しい、醜い、ということも分かっている。これがあるから、芸術が生まれる。動物たちに芸術はない。これは素晴らしいことなのだが、一方で、自分は醜いという判断も生まれる。美容整形が流行る理由である。また、「俺の人生はつまらん人生や」という判断も生まれる。このような人間の特性について約3,000年も前に書かれた旧約聖書が面白い洞察を示してくれている。創世記の2章、3章である。 

◆ 人間の決定的限界(創世記2,3章から)

聖書に書かれていることがすべて、そのまま科学的な真理だと、信じているキリスト教が多い。特に、アメリカの保守的なプロテスタント教会に多いが、それは、ガリレオ裁判の過ちを繰り返していることに気づいていない。聖書の書かれた時代の科学的な認識では、地球が平らで、太陽が地球を回っていると信じられていた。だから、ガリレオが事実は、その反対なのだ、と発表したら、聖書に反することを説くとんでもない異端者だ、ということで宗教裁判で有罪が宣告された。「それでも地球は回る」とガリレオがつぶやいた、という有名な話 が残っていることは周知の事実である。

大体、聖書は宗教の書であって、科学の書ではないのだ。科学の真理も聖書には書かれていると信じることは、「ひいきの引き倒し」で、私は、そのような信仰を「聖書偶像主義」と呼ぶ。人間が作り上げた神が偶像だが、聖書を神様にのし上げることが正当な信仰と呼べるだろうか。

エデンの園、楽園追放の物語は、歴史的事実ではなく、神話である。その下敷きとなった物語がすでにそれ以前にあったと言う。だが、神話だから荒唐無稽ということではない。どの国の神話にも大事な意味が込められている。創世記2章、3章の神話は、きわめて鋭い人間論である。

 創世記2章(二つ目の創造物語)

……あるべき人間の姿

 主なる神は人に対して言われた。 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記216,17

 この神話の作者は、人間の決定的な問題は、「善悪の知識」にあると読んだ。鋭い人間観である。人間にしかない「善悪の知識」が、人間に喜びを与え、悲劇ももたらす。園の中央(創世記2:9)にある「命の木と善悪の知識の木」。それには触れてはならぬと言われているのは、そこが「神の領域」だからである。それは、人間にとっての決定的な限界を示している。

神の領域⇒人間の限界科学の発達や芸術の拡大を生み出したが、同時に人類破滅の危機をもたらす深刻な戦争をも生み出した。諸刃の剣なのである。人間が生み出した文明が人間に快適な生活をもたらしたが、一方で武器を発達させて戦争の悲劇を年々拡大してきた。宇宙にまで旅行が出来るかもしれないが、同時に地球を完全に破壊できる爆弾をも生み出した。   

いまや、かつてのどの時代の人も経験したことのない地球破滅の危機を現代人は、ひしひしと感じていきている。

21世紀に入って人類の歴史にかつて無かった新しい戦争の形態が生まれた。国家と国家の戦争ではなく、「テロリズム」と国家の戦争である。貧富の極端な差が「テロリズム」を生み出している。弱者は強者に対して非合法なテリリズムでしか抵抗できない状況が生まれている。 だから、貧富の差の消滅以外に「テロリズムの撲滅」はありえないのに、力で「テロリズム」を根絶しようとする愚かしさに気づいていない。

人間は、この「善悪の知識」を完全にはコントロール出来ないでいる。まさに、「食

べると必ず死んでしまう」という状態になっているではないか!

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記225

 「善悪の知識」の木から取って食べないでいる限り、二人は自由だった。裸であったのに恥ずかしがりはしなかったのである。つまり、あるがままを受け入れていた。恥ずかしいという感覚は、比較することによって生まれる。どっちがきれいだとか汚いなんて評価しなかった。そこに自由が存在するのだ。

愛は評価しないで、共感する。

 良い、悪いに捉われているとどうしても比べるようになる。そこから優越感、劣等感が生まれる。

 

創世記3章(楽園追放物語)  

……現実の人間の姿

 主なる神はアダムを呼ばれた。

 「どこにいるのか。」(創世記39) 蛇にそそのかされて二人はついに「禁断の木の実」を食べてしまった。 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(同37) 判断力を与えられた二人は、裸はみっともないと判断して、恥ずかしくなっていちじくの葉で腰を覆ったのである。「人間の間だけで通用するそろばん」が生まれた。

こんなことは、よくあることだ。人の美意識は、時代と地域によってそれぞれ異なる。

それはそれでいいのに、かつてのキリスト教宣教師がやったように、熱帯地域の人たちが裸で暮らしているのを「野蛮だ」と判断して、洋服を着せるように指導したという愚かしさを思い起こす。

 この神話が示す現実の人間の姿は、鋭く人間の真実を表現している。。

@ 会話の不成立(創世記3910

 「どこにいるのか」と問われているのに、聞かれもしないことを返事している。

 会話が成立しないことで人間関係がぎくしゃくすることは人事ではない。相手に対して先入観を持っている、こちらが異常に緊張している、関心が他に向いている、自分の聞きたい返事だけを期待して待っている、などの状態であれば、会話は成り立たない。

 「話し上手は聞き上手」

と言われるように、聞き手は無心になって、相手の気持ちを汲み取る思いで聴くことなしに、会話の成立は起こらない。ここでも、「愛は評価しないで、共感する」こと。

A 責任転嫁(創世記311,12

 アダムは取って食べるなと命じた木から食べたのかと問われて、まるで女が彼の口

に放り込んだかのような返事をする。しかも「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」という言い方で神様にまで責任を押し付けようとしている。小さい子どもでも誰も教えていないのに責任転嫁が上手である。

お役人の責任転嫁は周知の事実。

B 出産と性差別の苦しみ(創世記316

 「お前は男を求め、彼はお前を支配する」

性差別に敏感になってきたのは、ここ10年くらいだ。それほど長い間、女が男に従

うのが当たり前、という状態が続いた。今もなお残っているところが多い。

C 男の労働の空しさ(創世記317,18

  労働が正当に報われない不満はいつの世にも存在する。不当に儲けたいという欲望が利用できる人間はとことん利用する、というエゴのおかげで随分多くの人が今も苦しんでいる。「お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に」(318) これが現実の人間の姿である。

 

人間にとっての決定的な二つの限界

●人は必ず死ぬ

不老不死はありえない命は創造者である神のもの(授かりもの)死はいつ来るか分からない。人は生かされているのだ!

だから、いつ訪れるか分からない死を異常に恐れたり、逆に、無視するのではなく、死は必ず来る、と受け止めておくことが大切だ。この問題は、この講座の中で別の機会に考えよう。

●人は必ず間違う

究極的な善は、神にしか分からない。

判定者は神のみ!

「正義」は当てにならない。

「正義」でない戦争が、あったか?

だが、人間は、自分のしていることは、正しい、あるいは、少なくとも正しくあろうと努力している、と思い込んでいる。

人間は必ず間違う、ということを受け入れていれば、自分にも他人にも寛容になれるだろう。

 

◆ 人間存在には、常に両面がある

 この世にあるすべてのものには二つの面

がある

 光のあるところ、必ず影あり 生があるものは、すべて死す 富に対して 貧しさがあり

 ことの善悪も然り つねに一方にこだわらず、片寄らず  すべてあるがままに認める境地に到るためにこそ修業がある    (道元「正法眼蔵」より)

  そうなのだ。どっちか一方に捉われるから、不自由になる。自分の中にも両面がある、としっかり自分に言い聞かせよう。

 「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Uコリント12.10

 「苦あれば、楽あり」、「何が幸いするか分からない」

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8.28

 

◆ のびのび生きる、自由に生きるとは?

 人間の価値観(善悪)に固執しない ⇒あるがまま(表も裏も)の受容

道徳(人の行動基準)で、人は救われ ない

道徳は、目安(マニュアル)

 マニュアルは必要だが、マニュアルにこだわると「人間」(自分自身)を見失う!

 わたしはわたしと開き直る。だって、神は、目的を持って、そのようにお造りになったのだ。わたしには、わたしだけの生き方がある。人真似をする必要はさらさら無いではないか!

 こうなると、今まで見えてこなかったものが見えてきたり、感じていなかったすばらしいことが感じられるようになる。あなたには、誰がなんと言っても、断固として味方になってくださる方がいるのだから。

 

「私の『いつか……』は、少年の頃夢みたような出世や、地位との出会いではありませんでした。自分の力だけで生きていると錯覚していた、小さな私と、大きな愛との出会いだったのです。そしてそれは、何ものにも代えられないすばらしい出会いだったと思っています。」 (星野富弘「風の旅」、 、1993415日、第28刷)

 

使徒信条解説

わたしは 信じます   アーメン

最古の信条といわれる使徒信条が成立したのは、2世紀後半から3世紀にかけてであろうといわれています。このような信条が発生した理由は、受洗者に対する準備教育、異端との戦いなどだったようですが、この信条は、使徒たちによって作成されたと信じられていたので使徒信条と呼ばれました。キリスト教会のほとんどが、この使徒信条を告白しています。

「わたしは……信じます」。信じるのは、この「わたし」です。そして、それは神に向かってなされます。キリストによってわたしを愛してくださっている神様に向かって応答する第一歩です。これによって神様との関係が確かめられることになります。

結婚のプロポーズも相手に対する新しい関係を生み出します。

そして、その応答の締めくくりが「アーメン」です。ヘブル語の「真実」という意味ですが、古来、神に対する応答の言葉として用いられてきました。「今申し上げたことは、その通りです」ということです。だから、とっても大事な言葉です。あなた以外に信じるものは何もありません、ありがとうございます、という思いを持って、「アーメン」をしっ

かり唱えましょう。 金言集