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 「今、仮の教会か?」

        石川 和夫牧師

           

 「評価と展望」

  「のびのびした教会生活」と言う主題で経て来た五年が,早くも終わった。予定では、会堂も出来ているはずであったが、今だに実現していない。これでも何度か決定に至った物件もあったが、不思議に瀬戸際でかわされてしまった。まさに、かわされてしまったとしか言いようのない経過である。

 これは、教会の主なるキリストが、「待った!」をかけておられる、と言うことではないだろうか?      という意識で、もう一度ふりかえってみると、駄目になった物件は、結果的には、買わなくてよかった、という気がする。不景気が進んで、地価が下落している現在、もし、あの時買っていたら、高い買い物をして、ローンに苦しむ結果になっていたかも知れない      そして、さらに根本的な問題は、いつのまにか自分たちの土地、建物を持つ、と言うことが目的になってしまって、会堂を持っていない現状を「仮」の状態と思い込んでいることである。少なくとも、私自身「会堂が出来てから・・・・」という思いにとらわれていたことである。したがって、何もかもが「差し当たって・・・・」と臨時にことを済ますという傾向 があったことを告白しなければならない。

  「何のために会堂を持つのか?」という問いに対して、「不便だから」とか、「安定した気持ちで、礼拝が出来るから」とか、「何よりも地域に対して、存在感を示せる」という答えだけでは、主は、お許しにならないだろうか?いずれも、もっともな理由だし、確かに宣教上ハンディ があることも事実であろう。しかしこれだけの理由では、あまりにも自己中心過ぎる。

  昨年は、生まれ故郷である、ゆりのき保育園から離れる、という歴史的な決断にせまられた。主が産まれ故郷を離れて、主が示す地に行け、と命じられたのは、根本的に重大な目的が あった。「地上の全ての氏族の『祝福の源』になれ」(創世記 十二・一〜三)ということであった。これが、宣教の目的にほかならない。

  一昨年に提示した「永山教会の教会形成の指針」に、「*差別と戦う(弱い者の立場にたつ)」という項目の中に、次の三つの目標が提示されている。

  ?  散らされた教会としての週日の生活

  ? 小さなキリストとして生きる

  ? 地域,社会,世界の問題の共有

   教会には,二つの形がある

 「集められた教会」と「散らされた教会」である。従来の教会は、「集められた教会」にばかり焦点を当てていたのではないか?先程あげた会堂建築の理由には、まさに「集められた教会」になることしかない。これでは、「神の民」の使命の半分しかない。「ノアの箱舟」の物語は、「神の民」の使命の原点がしめされているのだが、洪水ののちに、神は、「箱舟から出たすべてのもののみならず、地の全ての獣と契約をたてる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水がおこって地を滅ぼすことも決してない」 (創世記九・十〜十一)と言われた。つまり、「神の民」は、「肉なるもの=人間」と「地=地球、環境、自然」に対して責任を負え、と言われたのだ。狭い意味で、何人の信者を獲得するか、ということに止まっていない。人間と地球の両方にたいして、「祝福の源」となることが、教会の宣教の目的なのだ。

  これがはたされるためには、「散らされた教会」が、しっかり生きなければならない。散らされた神の民が、それぞれに負わされた「祝福の源」となろうとして、懸命に努力し、痛み疲れて、孤独に陥る。そして、主の日に「集められた教会」となって、罪の許しと祝福を受け止めて、また、「祝福の源」として出なおす。これが生きた教会なのだ。具体的に言えば、信徒の週日の生活をありのまま主日礼拝に捧げる、ということ     である。これまで、どこの教会でも、信徒は、自分の職業や、仕事については、教会で語らない、ということが美徳とされて来た傾向があるように思う。ある意味で、職業や仕事に関係なく、信徒は、教会では平等である、ということにもなったのかも知れないが、この決定的な問題点は、教会と世俗(社会生活)という二重生活をもたらしたことではなかったか?

  確かに礼拝において、すべての信徒は、神の前に平等、である。しかし、霊の賜物と使命は、ひとりひとり全く異なるのも事実である。パウロはコリントの教会に向かって,こう言っている。

  「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に全てのことをなさるのは同じ神です。一人一人に、霊、の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(コリント? 十二・四〜七)

  「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人は部分です」(コリント? 十二・二十七)これが実現するための、教会としてのプログラムが充実する必要がある。この年度は、会堂建築のために努力は、以前にもまして継続しなければならないが、一方で、生き生きとした教会になるために、信徒の社会生活への配慮と共に、教会としての社会活動も重視されて行く必要がある。今のわたしたちの教会は、「仮の教会」ではなく、今も「現実の教会」なのである。