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その星を見て喜び 石川 和夫牧師 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、 東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上で止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 (マタイによる福音書2章9,10節) 新年おめでとうございます。新しい年が、まさに英語の挨拶のように、ハッピーな一年でありたいと願います。 今日のテキストには、対照的な感情の動きが書かれています。 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。 エルサレムの人々も皆、同様であった。 (マタイによる福音書 2章 3節) ヘロデ王とエルサレムの人たちは不安を抱きました。一方、 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 (マタイによる福音書 2章 10節) と書いてあります。不安になった人々と、喜びにあふれた人々とは、まったく反対の状態に置かれました。どうしてこの様になったのでしょうか。 ヘロデ王とエルサレムの人々の不安 ヘロデ王は、出身がユダの南側のエドム人です。旧約聖書には、エドムへの呪いとか、エドムへの託宣とかがたびたび書かれています。それだけ関係が深かった、ということでしょう。一般的に、ユダヤの人たちは、エドムの人たちを嫌います。近親憎悪といっていいと思います。 エドム人の祖先は、ユダヤ人と同じ、アブラハム、イサク、ヤコブ、と続く族長のヤコブの兄、エサウでした。ヤコブとエサウは、双子の兄弟でした。しかし、性格は、真反対でした。エサウは野生的、体育会的、ヤコブは、文学青年、文科系。そのエサウがヤコブにだまされて、家督相続権を奪われました。 ですから、エドムの人たちは、自分たちの先祖をだましたものとしてヤダヤの人たちを嫌い、憎みました。ユダヤがバビロンに滅ぼされ、ユダヤの人たちが痛めつけられ、人々が連行されてバビロンに引かれていくのを見て快哉を叫び、エルサレムに残された財産を奪い取るのです。だから、ユダヤとエドムは、代々、仲が悪かったのです。大事なことに無頓着なエサウは、信仰的にも劣ると考え、その子孫のエドムの人たちは、ユダヤの人たちから見れば、差別の対象だったようです。 そのエドム出身のヘロデは、ローマ皇帝にうまく取り入って、ユダヤの王になりました。ローマ皇帝にへつらうために、ローマ皇帝の名前をつけた、カイサリヤという町や建物を造りました。一方、ユダヤ人たちにも気に入られるように、ソロモンに負けない豪華なエルサレム神殿を再建しました。ユダヤの人に裏切られるかもしれないという不安があったからです。 ヘロデは、残虐な王としても有名です。自分の子どもを裏切りの疑いのゆえに、何人か殺します。妻も殺します。このように、策略を尽くして自分の王位を守っているというところに、また、新しい王が生まれるという噂を聞くだけで、大きな不安に襲われるのは無理からぬことでした。このようなわけで、伝説も混じっているかもしれませんが、イエス様が生まれたとき、男の赤ちゃんを皆殺しにしたという話が、聖書にも書かれています。 もう一方、エルサレムの人たちも不安を抱いたのです。ヘロデ王が好きなわけではないのですが、ヘロデ王が機嫌を取ってくれ、経済的な繁栄もしているわけですから、まあ、現在の状況としては、悪くはないのですが、ここで、また新しい王が出現したら、今の生活がどうなるのだろうという不安を抱いたのです。この状況は、今日のわたしたちの不安な社会状況と似ています。年金、税金、その他不安なことがたくさんありますね。 占星術の学者たちの喜び 東の方から来た占星術の学者たちは、ユダヤの人たちから見れば、差別の対象となる異邦人です。東の方とは、たぶんバビロン、あるいはペルシャだろうといわれています。バビロン、ペルシャの地方には、五百年ほど前から、ユダヤの人たちが捕囚として連れて行かれ、そこに住み着いた人たちが、かなりいました。ですから、彼らの影響を受けて、メシヤの誕生を待つ占星術の学者がいたことは、十分考えられることです。 その学者たちは星を見て、西の方角に当たるユダヤの国で、新しい王が生まれることを信じて、旅をして来ました。ところが、途中で、その星を見失ったのでしょうか。エルサレムに着くと、人々に 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、 どこにおられますか。わたしたちは東方でその星を見たので、拝みに来たのです。」 (マタイによる福音書 2章 2節) そのことを聞いたヘロデは不安に駆られて、祭司長たちや律法学者に調べさせました。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。 預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』 (マタイによる福音書 2章 5節、6節) そこで、ヘロデ王は、占星術の学者たちをひそかに呼び寄せて、星のことを確認して、自分も拝みに行くから報告するように命じて、彼らを送り出します。学者たちがベツレヘムへ向かうと、その星がまた現れ、先導しました。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 (マタイによる福音書 2章 10節) 学者たちは、喜びにあふれたと書いてあります。不安になった人たちと対照的です。不安に襲われた人たちは、自分たちの価値観、自分の力と努力に基盤を置いています。彼らも信仰は持っていたはずです。でも、その信仰は、自分中心の信仰であったかもしれません。 これに対して、喜びにあふれた学者たちは、神が人を救うために、新しい王を生まれさせると信じていました。彼らは、神が主役であることを知っていました。主役が自分である人は、何か分からないことがあると常に、不安に襲われます。主役が神であることを知っている人は、神のしるしを見たときに、喜びにあふれます。 この一年も神様が主役の年なのだということをしっかり確かめて歩み始めましょう。文字通り、主が導いておられる、主の年としましょう。 「神」が主語に 婦人の友社から「聖書、心に響く言葉」という本が出版されました。色々な人が、心に響く言葉について月刊誌の「婦人の友」で語ったものを纏めた本です。その中に、仙台で活躍しておられる蓮見和男先生が書かれた記事があります。 祈り無しには解決できない問題を持った子どもを預かり、宣教師に相談に行ったときのことです。相談している途中で、ふと、「祈りが聞かれるということは、英語でなんと言うのですか」とたずねました。宣教師は「God hears your prayer」(神はあなたの祈りを聞かれます)と、ごく普通の答えが返ってきました。そのとき、蓮見先生はハッと気づきました。ご本人の言葉を紹介しましょう。 この時の驚きを今でも忘れることができません。なぜなら、日本語では、「祈り」が主語なのに、英語では、日本語にない「神が」主語になるのですから。これは単に、日英両語の語法の相違でしょうか。信仰の質の相違でしょう。私は、この時、自分中心の信仰を変えさせられました。自分の力で変えてやろうとしているうちは、他者のためのとりなしはなり立ちません。他者と私の間に、神が入らなくては、とりなしの祈りは成就しないのです。その時、文字どおり、「神が、あなたの祈りを聞いておられる」のです。そして、それが祈りの究極的な力なのです。(「聖書、心にひびく言葉」、婦人の友社、2002年3月25日、第一刷、174頁) 単純なことですが、何かにとらわれるときには、必ず、自分が主役になっています。悔い改めるということは、神が主役なのだ、と神様の前に、無条件降伏することです。このときに、必ず喜びと平安が与えられます。自分の力だけで、何かが出来るものではありません。 二〇〇六年もその意味で、主の年でありたいと願っております。 祈りましょう。 聖なる御神様。新しい年を迎えることが出来まして、ありがとうございました。礼拝に導かれて、この年の歩みを始めることを心から感謝いたします。わたしたちは、自分が主人公になってしまいがちです。この年も、あなたが、常に、わたしたちを導いておられ、最善の道を開いてくださることを信じて、自分の傲慢さを解き放っていくことが出来るように、そして、あなたが常に共に居られる、そのしるしを見て、喜びにあふれる一年となりますように、お助けください。 主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン (2006年1月1日、降誕節第2主日 合同礼拝説教) |
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