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逆転の告知

石川 和夫牧師

主の慈しみに生きる者の足を主は守り

主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。

人は力によって勝つのではない。

(サムエル記上2章9節)

 聖書は逆説の書です。わたしは、のびのび講座などで、たびたび申し上げますけれども、聖書は、「二つの死」によって生まれましたと理解しています。一つは、紀元前587年のイスラエルの国家としての滅亡(死)です。もう一つは、イエス・キリストの十字架の死です。イスラエル王国の滅亡により、旧約聖書の編集が始まり、ユダヤ教が起こりました。イエス・キリストの十字架の死によって、新約聖書が生まれました。

 聖書は、このように「死」を克服するかたちで生まれていますから、本来的に死からの復活が背後に活きています。死は終りではなく、始まりなのだ、という逆説を主張しています。聖書を読むときの基本的姿勢は、聖書が逆説の書なのだ、ということをしっかり頭に入れておく必要があります。聖書を順説的に、つまり法律のように読んだために旧約の民の律法主義が生まれ、神の民として託されていた「世界の祝福の基」となることを見失いました。独善的で傲慢なキリスト教もこの逆説を理解していないように思います。

ハンナの祈りとマリアの賛歌

 今回のテキストは、「ハンナの祈り」(サムエル記上 2章)です。ハンナはイスラエル王国が始まるときに預言者、祭司、裁判官として大きな働きをしたサムエルの母です。この、サムエルが誕生したときのことが書かれているのです。ハンナは不妊の女として悩んでいたことがサムエル記上 一章に書かれています。三千年前の話です。その当時、不妊の女は神様から、なにか特別の罰が加えられた者というレッテルを貼られ、社会的な差別の対象でありました。

 ハンナの夫であるエルカナには、もう一人、ペニナという妻がいました。ペニナには、子どもがいました。ですから、ハンナは、ペニナからは軽蔑され、社会からも差別されて、大変苦労したようです。

ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。

そして誓いを立てて言った。

「万軍の主よ、はしための苦しみをご覧ください。

はしために御心を留め、忘れることなく、

男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、

その子の頭には決してかみそりを当てません。」

(サムエル記上 1章 10節 〜11節)

そのハンナが、神の御心により、サムエルを宿した、というのがこの記事の一番言いたいところなのです。

 もう一つのテキスト、ルカによる福音書は、「マリアの賛歌」(マグニフィカート)です。「マリアの賛歌」は、ハンナの賛歌が、母体となっています。とても似ている、と感じられたと思います。わたしたちはマリアをはじめから完成された悩み事などない聖母としてイメージしがちです。しかし、マリアは、二千年前の社会的倫理では、許されていなかった婚前妊娠に直面した女性でした。ですから、マリアも社会的差別で苦しんだはずです。だれが神によって妊娠したということを信じたでしょうか。頭がおかしいと笑われただけでしょう。マリアの婚約者であるヨセフは、聖霊を受け入れる信仰により、彼女の妊娠を受け入れました。常に、マリアの側に立ち続けました。

人間の価値観を超えて

 ハンナとマリアに共通していることは、当時の社会的差別の対象となったということです。いつも社会の隅に追いやられ、人の目を避けて生きなければならない状況におかれていました。しかし、神様は、このようなことは駄目なのだと差別してしまう人間の価値観を超えて、差別されている人を用いて奇跡的な大きなわざをなさいます。

 聖書に一貫して流れている主張は、「人間の判断は、当てにならないぞ」ということです。創世記2章には、善悪の知識の木からは、取って食べるな、と言う戒めがあります。神様のみが究極的な善悪を知っておられるということを知らずに、人間が善悪の価値観にとらわれると、そこで差別、悲劇が起こります。神様は、人間の善悪の判断をのり越えて、大きなわざをなさいます。人間の善悪の判断にとらわれていてはいけません。

 ハンナの祈りの中にも

人は力によって勝つのではない。(サムエル記上 2章 9節)

とあります。「自分の」という言葉が省略されていますから、人は自分の力だけで勝つのではないということです。何かあると、自分の力だけで、何とかしようと考えたくなります。そのようなものではないということを経験させるために、神様は、わたしたちにとっては不幸、あるいは理不尽、不条理と考えられることを与えられていると思うのです。

あなたを理解していると言える唯一のお方

 ドイツに、ユルゲン・モルトマンという神学者がいます。モルトマン博士は、逆説をしっかりと受け止めています。日本語では、「無力の力強さ」、「終わりの中に始まりが」などの本が出版されています。「終わりの中に始まりが」という本は、終末論について書かれたものですが、その中に、彼自身の経験も書かれています。

 1943年、ハンブルグで、イギリス空軍の大空襲を受けました。四万人の死者があったそうです。このときには、学生で、信仰を持っていませんでした。高射砲中隊に配属されて、弾薬運びを手伝っていたとき、学友が爆弾で即死しました。彼は大変な衝撃を受けました。敗戦近くに、捕虜となります。1945年から1948年のあいだ、捕虜収容所にいました。この期間に、収容所付のチャプレンから聖書を貰い、それを読んで、信仰を持つようになりました。

 彼は、信仰を持つまでの長いあいだ、「なぜ、わたしが生きていて、あの、善良な友達が、先に死んだのだ。死んだ人がいて、助かった人がいて、これはどのようなことなのだ。自分は助かって、なぜ生きているのだ。」と自問自答していました。答えのない、なぞだったのです。

 三年間の捕虜生活には、聖書を読む時間がたっぷりありました。はじめは、詩篇の三十九編を読んでいて「あっ、似たようなことを経験した人がいるのだ」と気付きました。

わたしは口を閉ざして沈黙し

あまりに黙していたので苦しみがつのり 心は内に熱し、呻いて火と燃えた。

わたしは舌を動かして話し始めた。

「教えてください、主よ、わたしの行く末を わたしの生涯はどれ程のものか 

いかにわたしがはかないものか、悟るように。」

(詩篇 39章 3節〜5節)

主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。

わたしの涙に沈黙していないでください。

わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。

(詩篇 39章 13節)

段々と心が開かれて行きました。

 さらに「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか?」(マルコによる福音書15章34節)というイエスの死の叫びに来たとき、私は深い感銘を覚えました。これこそ、あなたを理解している、という唯一のお方だと。私は、神によって悩まされ、神にあって苦しむキリストを理解し始めました。なぜなら、私はキリストによって理解されている、と感じたからです。このことは、私に、新しい勇気を与えました。私はふたたび色を見、ふたたびメロディーを聞き、そして、再び生きる力を感じ取ったのです。(J・モルトマン「終りの中に始まりが」(新教出版社、2005年3月25日、第1刷、60頁)

と書いています。イエス様も、神様によって、不条理な苦しみを与えられました。神が自分の呼びかけに答えない中でも、イエスは、なお神を呼び続けました。モルトマン博士は、「イエス様に神からの答えがなかったのなら、自分に、答えがないのは当然なのだ」と理解しました。このイエス様なら、今のわたしを理解することが出来ると感じたのです。

「不条理」に対する答え

 また、「無力の力強さ」という本でも、次のように述べています。

 「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」、この問いかけに対する真の答えは、「これこれの理由で」で始まる理論的なものではありえません。それは、実践的なものでなければなりません。このような経験に対しては、いかなる説明もありえず、ただ別な経験があるだけであり、このような現実に対しては、新しい現実のみが答えとなるのです。「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という問いに対しては、本当にはただ一つの満足のゆく、解放する答えがあるだけです。それがまさに復活であります。「私はあなたを片時も見捨てなかった。かえって大いなる憐れみをもって、私はあなたを集めようとしている」。すべてそれ以外の答えは舌足らずで、十分ではありません。死を永遠化するか、さもなければ死を真剣にとらないかどちらかです。御子の神に見捨てられたこの死には、ただ一つこの答えがあるだけです。すなわち、「死は勝利に飲まれてしまった」(コリントの信徒への手紙一15章55節)。そうでなければ、私たちを苦しめている問いには、そもそも答えは存在しないことになります。(ユルゲン・モルトマン「無力の力強さ」(新教出版社、1998年4月25日、第1刷、192頁)

 人間が持つ価値観の中で、不幸におとしいれられ、あるいは自分が不幸だと思わされている人に、そうではないのだよという福音を知らせること、これが神様のわざです。このことを神様は歴史の中に示されています。

 わたしたち一人ひとりも同じように生かされています。逆境に置かれないと、傲慢になり、人を見下げ、自分中心の欲にとらわれ勝ちになります。このようにならないために主日の礼拝があるのです。

 神様はどのような人に目を留めようとなさっているのかを受け止めなおし、逆境に置かれている人たちと共感して行く歩みを続ける必要があると思います。

神からの強烈なプレゼント

 久世そらち牧師が、「礼拝と音楽」という雑誌で、毎日曜日の聖書のテキストに関して、メデタチオンという説教のヒントを書いています。

 今回のテキストについて、このように書いています。

「神のみ業としての『受胎告知』は、この世の圧力、社会が押し付ける価値観のゆえに涙する人々への、神からの強烈なプレゼントなのだ。」(「礼拝と音楽」、127号、85頁)

 単に、不思議なことがおこっただけではなく、その背後に秘められたものは人間の価値観をのり越えたものだということです。さらに、久世牧師は、書いています。

 子がない女と、結婚前に身ごもった女と。いずれも人に蔑まれ、貶められるべき存在だった。しかし、神は彼女たちを用いてみ業を成し遂げる。わけしり顔の、秩序を重んじる、生真面目な人間たちの思いを打ち崩し、あざ笑うかのように。

 クリスマスを迎えるということは、わたしたちの持っている価値観を根本的に問い直す機会でもあります。

 お祈りしましょう。

 聖なる神様。人間たちの持っている価値観が、しばしば人を傷つけ、殺し、裁き、悲劇を引き起こします。あなたは二千年前に、さらに前から人間の持つ愚かさを警告し、さまざまな形で語りかけていてくださいました。しかし、最後に、自らが人となって、真理を伝えようとしてくださったのですが、人間の知恵は、人となられた神の子を十字架につける愚かな振る舞いをしてしまいました。それがわたしたちの判断力の限界でした。

 神様、このクリスマスに、乙女マリヤから生まれられるキリストが、わたしたちにとって何を意味するか、受け止めなおすことが出来ますように。わたしたちが、思い上がりから開放され、御前にへりくだって、あなたの恵みを喜ぶものとさせてください。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。      

 アーメン。

(2005年12月18日、降誕前第1聖日 第二礼拝説教)