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借り物ではなく

石川 和夫牧師

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。

(マタイによる福音書25章3,4節)

 今日は、教会の暦によると、聖霊降臨節と呼ばれる季節の最後の日になります。来週からは降誕前節に入ります。典礼色が聖霊をあらわす赤から緑に変わります。アドベントの季節には紫となります。

 聖霊降臨節の最後に近い日曜日は、終末に関するテキストが選ばれています。十人の乙女のお話は、終末に関するものです。紀元一世紀の最初の教会では、復活されたイエス様がまもなく、再びおいでになるという再臨説が信じられていました。福音書に、「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」とイエス様が言われたという記事があります(マタイ16:28)。

 パウロ自身も伝道の初期には、自分が生きている間に再びおいでになるイエス様に会えると信じていたようです(テサロニケの信徒への手紙一4:16,17、「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」)。

 しかし、一世紀の後半に入ってくると、なかなか再臨のときが来ないので、熱心に待っていた人々の間では、「再臨は、どうなったのだろうか、本当に、再臨はあるのか」とか、「再臨なんて起こらないのではないのか」などとか色々な憶測が飛び出しました。中には、再臨は、いつまで経っても起こらないから、本気に待つのはよそう、という動きまで出始めていました。

 マタイ福音書では、このような風潮に対して、遅れても、必ず再臨がある、だから、心して準備していなさい、という主旨で、「十人の乙女」のたとえ話を載せたようです。花婿の到着が遅れたという表現で、再臨の遅れをあらわしているようです。

目をさましていること?

 当時の結婚式は夜、おこなわれたようです。婚礼に招かれた客は、まず花嫁の家に行きます。そこで、花嫁と一緒に、花婿が迎えに来るのを待ちます。花婿が到着すると、客も花嫁と一緒に、行列を組んで、花婿の父の家に向かい、そこで、本格的な祝宴に入ります。行列が家に入ると、戸は閉められてしまいます。

 この物語のキーワードは、五人の賢いおとめと、五人の愚かなおとめが予備の油を用意していたか、いなかったかというところにあるように思われます。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、予備の油を用意していませんでした。賢いおとめたちは、予備の油を用意していました。花婿の到着が遅れたので、ともし火の油が燃え尽きそうになりました。花婿が到着すると、ともし火をいっそう明るくして、列を組んで花婿の父のところに向かわなければなりません。花婿の到着が遅くなると思ってもいなかった愚かな五人のおとめたちは、予備の油を用意していなかったので、店に買いに行っている間に、花婿の家の戸が閉められ、中に入ることが許されなかったのです。

 わたしは、このたとえ話の中で、イエス様は何を言おうとなさったのだろうと考えてみました。文字通り読めば最後の結論、

だから、目を覚ましていなさい。

あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

(マタイによる福音書 25章 13節)

 となりますが、目を覚ましていなさいというところがポイントだったら、賢いおとめたちも皆一緒に居眠りしてしまい、眼を覚ましていなかったのですから、つながりにくくなります。

 聖霊という油

 ポイントは、いつ訪れるかわからない終わりのときに向かって、心の準備(油)が必要だということを示しているのではないでしょうか。心の準備というのは、貸し借りが出来るものではありません。その時が来たときには、借り物では駄目なのです。自分自身で、自分の持っているもので、そのときを迎えることしか方法はありません。自分の中に、聖霊が、常に宿っていてくださると信じていることが、油が用意されているということです。いざというときになると、聖霊が、わたしを助けてくださるということを、しっかり信じている、ということです。

 カトリック高円寺教会、晴佐久神父の説教集(2003年12月7日付け)に、カトリック教会がスポンサーの「心のともし火」というテレビ番組初出演の話が載っています。当時、既に、晴佐久神父は、カリスマ神父として名前が通っていました。晴佐久神父は、説教は、その時、その場で与えられた言葉を語ると言っています。このときも、準備なしに出かけました。

 出掛けてみると、録画スタジオは、戸惑うほどの明るい照明で、これにたじろがされます。ディレクターから、話す時間は十二分三十秒丁度で話してくださいと言われました。軽く考えて話し始めたのですが、話を始めると、言葉に詰まったり、言い間違えたり、話にならなかったそうです。それでも何とか終わりました。スタジオの人が、後で編集しますから、神父さん、大丈夫ですよ、と言ってくれましたのですが、晴佐久神父は、これではダメだと思い、たいへん不満足でした。

 でも、三十分後には、亡くなった人のお通夜に出かけなければならないという、切羽詰った中だったのですが、彼は、もう一度やり直しさせてください、と申し出ました。録りなおしを始める前に、晴佐久神父は、まず十字を切り、スタッフたちの見守る中、「聖霊、来てください」と祈りしました。祈っていると、自分の心の中に、時間丁度で間に合わせてやるぞ、みんなに分かりやすい話をしてやるぞ、カリスマ神父といわれているのだから、失敗してはいけないぞ、という思いがあることに気づかされました。

 カメラの向こうにいる、死ぬほど苦しんでいる人に、大丈夫だよ、神様はあなたを愛しているよ、きっと救われますよ、という福音のメッセージを伝えるはずだった、自分がいい格好するために招かれたのではなかったはずだと気持ちを切り替えました。そして、はっきりと、カメラの向こう側にいる人を意識して、神様が言いたいだろうという言葉を語りました。晴佐久神父は、このように言っています。

 するとまったくつかえることなくお話しできました。十二分三十秒ぴったりでした。みんな拍手してくれましたよ。「あのー、神父さま、さっきまでのはなんだったんですか」(笑)と不思議がられましたけれども、私は不思議に思わない。だって聖霊は朝早く「心のともし火」をつけて、何とか救いのひと言を聴こうと思っている人にどうしても「大丈夫だよ」と言いたいわけでしょ。聖霊はそうしたい。親心ですから。それを働かせるために私はでこぼこのものを取り払う。あとは聖霊が働く。それは不思議なことではない。当たり前のこと。(晴佐久昌英「あなたに話したい」、教友社、2005年9月15日、初版、2003年12月7日説教「まっすぐに『大丈夫だよ』」より)

 油はいつも用意されている!

 人間ですから、格好良くしたい、素晴らしかったですよと言われたい気持ちはよく分かります。わたしも作家、三浦綾子さんと対談のために始めてテレビ出演した時は、そうでした。テレビでは目線が目立ちます。ラジオのときは、原稿を前において見ながらでもお話できました。テレビでは、それが出来ません。原稿を持ってはいるのですが、うつむくとカメラとの目線が外れますから見ることが出来ません。カメラの脇には、残り何分です、何秒ですとつぎつぎに残り時間が書かれた画用紙が出てきます。それに合わせなければなりません。これには余計にあせりました。晴佐久神父と同じように開き直りました。原稿を当てにしないで、カメラの向こうで、見ている人に向かって対談の大事な締めくくりをお話した経験があります。

 わたしたちの歩みの中で、切羽詰るときがあります。その時に、あわてて動き回るのではなくて、晴佐久神父のように、しっかりと腰を落ち着けて、「聖霊来てください」と祈ることです。これが油を用意しているということの大事な意味です。

 十人のおとめは居眠りしました。人間ですから、限界はいつもあります。限界にぶつかるのは、みなさん同じです。その時に、祈ることが出来たか、その時に聖霊が助けてくださっていると本当に信じていたかが大事です。

 聖霊は、わたしたちを苦しめようとは、絶対に思っていません。常に「大丈夫だよ」とおっしゃっています。「聖霊よ、わたしを支配してください」という祈こそ、一番ふさわしい祈りです。そうすると、言葉が与えられ、色々な思いが、ちゃんと整ってきます。そのことを、このたとえ話は示しています。

 わたしは賢いほうになるのか、愚かなほうになるのか、出来れば賢いほうになりたいとの思いを持つことがだいじなのではありません。

 わたしたちには、既に聖霊が与えられています。聖霊が働いていてくださいますから、わたしたちは、今ここに居るのです。既に、間違いのない、賢いおとめなのです。そのときがきたときに、ジタバタしないでもいいのです。聖霊が助けてくださいます。自分に行き詰まったとき、「聖霊、助けてください、聖霊、降ってください」と祈ることで、必ず道が開けます。このような道が与えられていることを心から感謝しましょう。

 お祈りします。

 聖なる御神様。あなたは、主イエスキリストを通して、わたしたちに、平安に、自由に、生きる道をお示しくださいました。人間ですから、色々の雑念にとらわれたり、思い煩いにとらわれたりします。究極的な善をあなたが必ずなさってくださると信じています。自分の思いを超え、聖霊に委ねる信仰が、いつも整えらますように祈ります。切羽詰ったときに、聖霊を求める祈りが、常に出来るようにお助けください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2005年10月16日、聖霊降臨節第23聖日 第二礼拝説教)