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「信じているのか」

石川 和夫牧師

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。

このことを信じるか。」

マルタは言った。

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

(ヨハネによる福音書11章25-27節)

今日の礼拝で読まれた使徒書の中に、

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

(コリントの信徒への手紙12章3節)

という言葉があります。信じるということは、わたしたちの力で、可能になるのではなく、わたしたちの内にいて働いてくださる聖霊が、信じる心を与えてくださるということです。それは、こうして礼拝に参加しているということにも、同じことが言えると思います。誰も聖霊によらなければ、礼拝に出席することは出来ない、と言い換えることもできます。信仰を持っているということは、わたしと違う方が、善意を常に持って、わたしを守り導いてくださっている、と信じているということです。

古来、キリスト教には道徳的教えが多く、クリスチャンは、常にこうすべきであるとか、あるいは、こうでなければならない、というような傾向が強かったのです。信仰の証し、といいますと、うまくいった話、信じたおかげで、駄目だったのが、このように良くなりましたという、成功物語につながらないと、信仰の証しだと思わない傾向が強かったのです。

 わたしたちが信じるイエス・キリストは、「史上最大の失敗者だ」と作家の曽野綾子さんが言ったと思うのですが、イエス・キリストは、そのような生涯を送られました。だから、わたしたちは失敗も素直に受け止めるという勇気がなければいけません。失敗ばかり繰り返しますと、わたしの信仰はどこに行ったのだろうと考えてしまいがちです。あるいは、何か悪いことがあると、わたしの信仰が駄目ですからというように、成功するか、失敗するかと区分けして考えてしまいます。確かに、神様が祝福し、聖霊が導いてくださらなければ、うまくいかないということは事実です。しかし、神様はどのようなときにも共にいてくださいます。そのことをいつでもわたしたちが受け止めていなければならないと思います。

このことを信じるか

 今日のテキストは、久しぶりのヨハネによる福音書で、ラザロの甦りの物語です。11章全体がその物語で占められています。

 ヨルダン川の向こう側に滞在しておられたイエス様のところに、とても親しくしておられたマルタ、マリヤの兄弟、ラザロが病気だという知らせが届きました。しかし、イエス様は、なお二日間同じところに滞在されました。それから弟子たちを促して、エルサレムに行こうと言われます。ラザロが死んだことをご存知でした。(ヨハネによる福音書11章1-15節)

ベタニヤはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

(ヨハネ 11章 18節)

 一スタディオンは、約185メートル、ということですから、約2.8キロメートルです。エルサレムに近い距離です。イエス様はわざと、ラザロが住んでいたベタニヤ村には遅れて行きました。ラザロの家の近くに来たときには、墓に葬られてから、四日たっていました。もう、匂いすら発しているという状況です。(ヨハネによる福音書11章39節)

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、

マリヤは家の中に座っていた。

(ヨハネ 11章 20節)

 マルタはすぐに迎えに出ましたがマリヤは家の中に座っていたと書いてあります。ここにも、この姉妹の性格の違いが表れています。

マルタはイエスに言った。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」

(ヨハネ 11章 21節)

 ラザロが死ぬ前に知らせてあったのだから、もっと早く、ここに居て下さったら、ラザロは死ななかったでしょうにと、マルタは、正直にイエス様に不平を言いました。そうすると

イエスが「あなたの兄弟は復活する」、

(ヨハネ 11章 23節)

と言われました。

 新約聖書の中に書かれている当時のユダヤ教徒の中には、ファリサイ派とサドカイ派がありました。サドカイ派は上流階級、祭司階級の人が多く、ファリサイ派は中流階級以下の人が多くいました。ファリサイという意味は、分離するという意味です。分離するということは、神様から選び分けられた、という意味です。選び分けられているという恵みを、しっかり数えるべきなのですが、そうではなくて、わたしたちは、選ばれていない人とは違います、という生き方をします。ですから、信仰を持っていない人とは、一緒に生きません、という考え方になっています。真面目な人たちです。だから、ファリサイ派の人たちは、復活を信じていました。サドカイ派の人たちは、細かいことにはおおらかで、現世のことが一番大事だと考えているので、復活を信じていませんでした。マルタはファリサイ派の影響があったのでしょう、

マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

(ヨハネ 11章 24節)

と書いてあります。ところが、

イエスは言われた。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。

このことを信じるか。」

(ヨハネ 11章 25節)

 とても威厳のある言葉です。ある種の厳しさが込められていたと思います。ですから、マルタは自然に、

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、

メシヤであるとわたしは信じております。」

(ヨハネ 11章 27節)

と、優等生の返答が出たのです。

 「このことを信じるか」というイエス様の問いかけが、マルタを根底から変えました。そのように問われるイエス様にメシアを見たのです。イエス様と一緒にいるものは、みんなから阻害されるということが、ヨハネによる福音書では、強調されています。マルタの返答は、苦難と阻害の道を選び取ったことを示しているのです。

向こうからやって来られる方

 作家の加賀乙彦さんは、ある対談の中で、信仰というのは「向こうからやってくる」と言いました(「あけぼの」、2000年1月号、34頁)。加賀さんは、57歳のときに、洗礼を受けました。上智大学で、教えたり、その前には、フランスに留学して、いろいろな神父さんと知り合って、キリスト教とは近しかったのですが、何とはなしに、その年まで、洗礼を受けるには、至っていなかったのです。

 では、どうして洗礼を受ける気になったのですか、と問われたときに、信仰というのは「向こうからやってくる」と答えました。自分で、御釈迦様とキリストのどちらが偉いかを考えて、キリストを選んだというのではなくて、

 「向こうから、わたしのほうに来た。それがキリストだったのだ。もしも、向こうから来てくれなかったら、わたしはいまだに不信の徒だったのではないか。信仰を持たない人間のままで、いたかもしれません。どうして、と言われても、うまく説明できません。何かがきっかけで、信じるというように変えられました」と言いました。

 マルタが、イエス様から、「あなたは信じるか」と厳しく言われたときに、「はい、信じます」と言いました。彼女には、それが、「向こうから来てくれた」ということでは、なかったのでしょうか。

 「それでは、信じて、何が変わったのですか」と聞かれたときに、加賀さんは、

 ぼくは自然科学を学びました。その世界はすべて疑うことから出発します。疑い、分かち、比較し、推定して、真理だと考える。しかし、それは、ほんとうは真理に近いものに過ぎません。今の科学の水準とはそんなものです。ところが、信仰というのは、疑うという心をやめてしまうのです。すると、脳の死んでいた部分が急に活性化されて、世界がパッと広がるのです。別な脳が動き出す。疑うことばかりやっていた自分が何にも疑わず、比較せず、百パーセント信じる。これが、信仰の世界です。」(前掲書、同頁)

と、言い切りました。すると、インタビュアーは、

 「はあ、すると、気持ちいいでしょうね」とたずねました。

 「気持ちいいですよ。うれしいですね。それが分かると聖書がすごく分かるようになる。イエスに『我に従え』と言われたペテロが、何もかも捨てて従ってしまう。なぜ?何が起きた?」 

 「ペテロと同じことが加賀さんにも起きたのですか。」

 「そうです。ペテロはイエスを百パーセント信じようと思ったのですね。ぼくもかつて新約の中の奇跡の話など、うそだと思っていました。」

 「ああ、加賀さんもそうなんですか。」

 「信仰の世界ですね。その人が一番困っていることが信仰によってなくなる、ということでしょう。ぼくもある日、おれはだめだ、実にひどいものだと思ったけれど、だからこそ、もう少しイエスのおっしゃることがわかりたいと思って……要するに信仰は理屈ではありません。向こうからくる。」

 それから、さらにものごとを冷静にゆっくり見ることが出来るようになって、精神科医で、作家でもある加賀さんは、とても良い働きをなさっています。

 作家の遠藤周作さんとも仲が良かったそうです。遠藤周作さんは、どちらかというと、「疑うことから、信仰は始まる」というようにおっしゃっています。加賀さんは「疑うことは、全部捨ててしまう」、そして、「この方に、百パーセント賭けてしまう」という、そのような信じ方です。ですから、これこそが信仰だ、というひとつだけのパターンはなくて、いろいろな形の信じ方があっていいと思うのです。

 加賀さんは、自然科学者であるということで、何時までも、疑うことにこだわっていたのを、あるときに、すっと乗り越えて、信じることが出来たのです。加賀さんは、大変謙虚に、

「御釈迦さんか、キリストか、と自分で選んだのではなくて、向こうからやってきた。結果的に、僕はキリストが好きになったのです。恋愛みたいなものですよ」

と言っています。恋愛と信仰をくっつけたらいけないかも知れませんが、そのような面があるのも事実です。人から、なぜ、あんな人を愛したのかと言われたって、それをうまく説明することはできません。そのとき、その気になったというだけのことです。

 神様に、「はい、信じます」と答える。それは、神様が来てくださっていることに、「はい」と答えてしまう。そういうことではないかと思います。イエス様から、我に従えと言われたペトロが、何もかも捨てて、従ってしまう。なぜ、そうなるのでしょうか、何が起きたのでしょうか、つまり、聖霊が働いて、動かしてくださったのです。もう一切、どちらでもよい、百パーセント信じよう、と変わったのです。

 今日もわたしたちはその神様のみ手の内にあって、「信じるか」と問われています。

 お祈りします。

 主、イエス・キリストの父なる神様。今日も、わたしたちをお招きくださって、ありがとうございました。自分中心の生き方を繰り返しますから、つい、あなたが、共にいてくださることを、忘れがちでございました。しかし、今、わたしたちは、ここにおります。あなたが、過ぎた先週も、共にいてくださったからでした。これからも、共にいてくださいます。どうぞ、人間的な、限界のある判断にこだわらないで、あなたを見上げて、信じ続けてゆくことが出来るように、お助けください。主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2005年4月17日 復活節第四主日 第二礼拝説教より)