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神の子の即位式

石川 和夫牧師

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う神の声が、

天から聞こえた。(マタイ 3章17節)

 今日の主題は、イエスの洗礼です。引用した絵は、「イエスの顕現」という題になっています。日本で唯一のイコン画家である山下りんという人が画きました。

 イコンとは、正教の教会にある聖画をいいます。イコンを通して神様に結びつくことを目的とします。画く人も、特別な人が画くようです。原則として、神様に捧げるものとして扱われるので署名は入りません。山下りんという方は外国に絵を習いに行った、本格的な画家です。同時に、正教会の信者でもあります。たくさんのイコンを残しています。ホームページサイトで見ておりましたら、イエス様の洗礼のイコンがありましたので、それを引用させていただきました。

 正教会がイエス様の洗礼といわないで、イエス様の顕現というように表現しているのは、深い意味があるように思います。洗礼とは、これまでは、罪を清めていただいて、新しく生まれ変わる式と受け止められてきました。だから、イエス様は神様が人となられた方だから、清めていただく罪はないのに、なぜ洗礼を受けるのかと、古来続いた議論です。正教会では、早くからイエス様の洗礼は、私たちが受ける普通の洗礼とは違うと受け取っています。

 マタイによる福音書は、まさに正教会の方たちが主張していることがそのまま文章になっています。

 洗礼を受けられたすぐ後に、

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う神の声が、

天から聞こえた。(マタイ 3章17節)

 神様がイエス様となって、ここに現れたぞということを示しているわけですが、わたしは、同時に、わたしたちにとっての洗礼ということも、イエス様が受けられた洗礼と共通する部分があることを申し上げたいのです。

ケセン語では

 洗礼と訳されている言葉を気仙語で、どのように表現するのかなと思い、山浦先生の気仙語聖書を開いてみました。そうすると、「お水くぐり」と訳されていました。

 山浦先生は、私のような普通の牧師よりもずっとよく勉強されています。全部ギリシャ語の原典でお読みになったうえに、いろいろな注解書も読んで、日本語に直す上で、どのように訳したら気仙の人にわかるかと苦労されました。

 「お水くぐり」と訳したのは、どうしてかということを、山浦先生が、「ふるさとのイエス」という本の中で、説明しています。

 「お水くぐり」と訳す前には、「禊(みそぎ)」にしようと思ったようです。禊というのは、洗い清めるという意味なのです。洗礼の本来の意味は、新しく生まれ変わるという意味があります。生き方が変わるということがなければ駄目なのです。だけど、「禊」では、そうはいきません、それで、バプテスマ、バプティゾー(沈む、沈められる)の意味を調べて、「お水くぐり」にしました。

 ただ水に潜っただけでは駄目、それを潜り抜けるという、そこに、大事な意味があるというわけです。ご本人の説明は、こうです。

 水をくぐるのである。沈むのでもない。もぐるのでもない。くぐるのである。「沈む」は水の中に入って水面から見えなくなってしまうことである。「もぐる」は自分の体を頭ごと水中に沈めることである。「くぐる」は身をかがめて、物の下や、狭いところを通り抜けることである。この場合は水面下を通り抜けることである。「沈む」と、「もぐる」には「通り抜ける」意味はない。「くぐる」の持っている、この、「通り抜ける」という意味が、バプテスマの持っている心を表すのにまことにふさわしい。(山浦玄嗣「ふるさとのイエス」、キリスト新聞社、2003年6月30日、第1刷、57頁)

神さまの心にかなうこと

 さらに、もともとの「洗礼」について、こう言っています。

 洗礼者ヨハネがヨルダン川に現れて、「悔い改めの洗礼」を授けたという。すでに述べたように、この「悔い改め」は「メタノエオー=心を切り替える」のことである。その「心の切り替えをするための洗礼」のことだが、実際はどうしたのであろうか。

 ヨハネは洗礼を受けたいと希望する人を川の深みに導いた。そこでその人は身をかがめ、ズブリと全身を水に沈める。するとどうなる。当然、呼吸が出来なくなる。普通の人は二分と我慢できない。一分でも相当に苦しい。窒息死か溺死がその先に待っている。水の中にもぐりながら、その人は考える。今、自分はこれまでの自分と別れるのだ。今までの生と別れて、今ここで死ぬのだ。うーっ、苦しい。鼻や口からブクブクと空気が漏れる。もうだめだ。ザバッと彼は水面に顔を出す。苦しげに顔をブルブルッと振って大きな口を開け、ブァーッと息を吸い込む。新鮮な空気が窒息寸前だった彼の肺の中に奔流のように吸い込まれる。新たな命が彼の全身に流れ込む。喘ぎながら彼は思う。俺は今新たな命に生き返ったのだ。これからは新たな自分になるのだ。(前掲書、55頁)

 これが洗礼の大事な意味です。イエス様が洗礼をお受けになったのは、単に罪を清めるということではなくて、まさに、神の子であることを公にして、神の子の即位式をなさいました。詩篇にも、

聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。(詩篇 2章6節)

と書いてあります。この王は、メシアを表しています。マタイによる福音書は、ユダヤ人向けに書かれています。ユダヤ人の聖書は、私たちの旧約聖書です。ですから、旧約聖書で表現されている王の即位の姿を、マタイは福音書で表現しています。

 バプテスマのヨハネが

「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、

あなたが、わたしのところに来られたのですか。」(マタイ 3章14節)

と問いただしたときに、

しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。

正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ 3章15節)

 ここで、わざわざ、”我々に”という表現を使っています。これは、尊厳の複数形、あるいは、イエスと父なる神を意味していると思います。正しいことをすべて行う、ということが分かりにくいので、気仙語聖書で見てみました。

 「いまはこうさせてくれ、これは神様の心にかなうことだから」

とありました。正しいこととは、神様の心にかなうこと、つまり、イエス様が洗礼をお受けになるということは、まさに神様の心にかなうということを、これから表すということ、それを公にしたのが、イエスの洗礼ということなのです。

 水をくぐって、そして、出たときに新しい命に生まれ変わるというのは、聖書では、神の霊が、鳩のようにご自分の上に下ってくるのをごらんになったという表現で書かれています。霊はギリシャ語で、「プニューマ」というのですけれども、山浦先生は「神の息」、あるいは「息吹」と訳しています。それは神さまの「胸の内」であり、「神さまの命」であり、「神さまの熱き想い」なのです。その想いが熱く芳しい息吹となって、わたしたちの全身に吹きつけられるのです。(前掲書53頁)

 これからは、いつも、神の息吹の中で生き続けるということなのだというわけです。だから、われわれも洗礼を受けたということは、つねに古いわたしに死んで、新しいわたしが、神の息をいつも受けて、神の息吹の中で、生き生きと生きるということなのです。

陶器のかけらがダイアモンドに

 古来、伝統的に、罪の許しを受けるために、洗礼を受けました。洗礼を受けた人は、神様から許されている人、洗礼を受けていない人は、神様から許されていない人、という上下関係になり、洗礼を受けていない人に対して無意識に優越感を持つようになります。家族の中に、洗礼を受けていない人がいると、何とかして洗礼を受けさせなければ、というように思ってしまいます。これが、悪循環を生みます。洗礼を受けていない人は、意地でも受けるものか、というようになります。

 しかし、洗礼を受けるということは、神様の息吹の中で生きるということの表明です。自分が主になっているときには、自分の考えの中で、グルグル回りばかりをしています。しかし、神様の息吹の中で生きると言うことは、これから神様がなさるということをわたしもお手伝いします、そして、自分のためだけではなくて、神様がお考えになっていらっしゃることに、自分を生かしていきます、ということの表明なのです。そのことを、忘れてはいけないと思います。

 洗礼を受けて、神の息吹の中に生きるようになるとどのようになるのか、そのことについて十九世紀のイギリスの詩人でG・Sホプキンスという方の詩の中に、復活信仰のことを表現している、このような言葉があります。

この凡夫、凡句

とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、

すべては不滅のダイアモンド

そう、消えることのないダイアモンドなのだ。

(「私にとって『復活』とは」、日本基督教団出版局、2004年2月25日、初版、18頁)

 彼は、人間は、つまらない人間、つまらない言葉しか出せない人間、取るに足らない、すぐに崩れてしまう陶器のかけら、燃やされてしまう木屑かも知れないが、それが復活の主の命に預かるときに、バプテスマによって、神の息吹に生きるようになるときに、すべては不滅のダイヤモンド、消えることのないダイヤモンドとなる。ダイヤモンドの命をわたしたちは、生かされているのだと言います。そして、イエス様が、これから苦難を負って十字架で死んでくださったということも、そのことを通してすべての人に、人間中心に考えていくと、また、戦争ばかりになってしまうから、この愛に生きろと言っておられるのです。ご自分の十字架の死を通して、愛に生きることを示されました。こうして、すべての人が、ダイヤモンド、どのような平凡な人も、みなダイヤモンドなのです。ダイヤモンドの命を生きなさい、とイエス様が、私たちに示してくださっています。そのことのために、洗礼を、お受けになったのだというのが、マタイによる福音書のメッセージではないかと思います。

 祈りましょう。

 主なる神様、今日もお招きくださってありがとうございました。わたしたちのためにイエス様が洗礼をお受けくださって、それが何であるかをもう一度はっきりお示しくださいました。たっぷりと神様の息吹の中に生まれ変わり、どんなにつまらないものでも、神様の目から見たらかけがえのないダイヤモンドなのだという命に生かされる出発でした。わたしたちも、どうか洗礼を受けていることをただの資格と考えるのではなくて、あなたからの愛を無制限にいただける、新しい命の保証と信じて、歩むことが出来ますように。さらにまた、このバプテスマを、喜んで受ける人々が相次いで与えられますようにお助けください。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2005年1月9日 降誕節第3主日 礼拝説教より)