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おいでください

石川 和夫牧師

終わりの日に

主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち

どの峰よりも高くそびえる。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい

多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

主はわたしたちに道を示される。

わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから

御言葉はエルサレムから出る。

(イザヤ書2章2,3節)

 「人間は生まれた直後から、死(終わり)へと定められた命を生きている。」

これは、実存主義哲学者として有名なハイデッガーの言葉です。生まれたときから、人間は死に向かっている。死を背負って生きていると言っていいかもしれません。生きていれば、何時死ぬか分かりません。年齢の順とは限らないです。ハイデッガーは同時に、「しかし、あなたは視点を逆転して、終わり(死)から今を生きなさい」と言ってもいるのです。

 今日から、アドベントに入ります。アドベントというのは、ラテン語で、「近づいてくる」、「おいでになる」という意味です。「復活の主が、再びおいでになる」ということを意味します。私たちは、アドベントというと、直接的には、イエス様がお生まれになったことをお祝いする、クリスマスの準備の期間と考えるのですが、それは、そのとおりなのですが、それだけであれば、過去の出来事を追憶するだけになります。そうではなくて、アドベントのもうひとつ大事な意味は、「終わりから、今を見直す」つまり、「再びおいでになるイエスを待ち受ける」これを再臨の主を待つ、という言い方をします。このことをしっかり信じて、受け止める、というその準備の期間なのだとも言えます。

 パウロの有名な言葉に、

あなたがたの中で善い業を始められた方が、

キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、

わたしは確信しています。(フィリピの信徒への手紙1章6節)

というのがあります。私たちが、死ぬときまでに、成し遂げるのではなくて、キリスト・イエスがおいでになるときまでに、成し遂げてくださると言っています。

 再臨、あるいは終末を脅迫に使う宗教があります。信じていない人は地獄へ行きますよ、信じた人は極楽へ行きますよと。私はそれを脅迫宗教と呼びます。神様は既に、私たちをイエス・キリストを通して、お救い下さっておられます。にもかかわらず、私たちは、自分の知識や経験の中から、どうしても因果応報という考えにとらわれます。何か、不幸に遭ったら、どうして、私だけがこのような目にあうのかと。

 因果応報を説く宗教もあります。善因善果、悪因悪果、悪い結果があるのは悪い原因があるのだから、その悪い原因を取らない限り悪い結果はなくなりませんと、このような考え方が因果応報の考え方です。キリスト教では、因果応報の考え方をいたしません。文芸評論家で、関東学院大学教授の富岡幸一郎先生が次のように言っておられます。

 信仰は、現在から未来をみるのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということです。現在から暗中模索して将来を問い尋ねるのではなくて、将来から現在を見る。これは因果応報論の反対です。「過去にこういうことがあったから、』自分はこうなった」「こういうことをしたら、きっと将来こうなってしまう」と、どうしても人間は因果応報論に入りやすいのです。あるいは、自分はこんなによいことをしたから、将来きっと報われるだろうと日常的に考えます。キリスト教徒にもそれはあると思うのです。………これはほんとうは間違っています。パウロが言うように、将来の視点から現在を見たときには、すべての形の因果応報論から自由にされ、解き放たれるのです。やはり、「将来の栄光」という中に信仰の姿がはっきり映し出されています。(富岡幸一郎「聖書をひらく」、編(あむ)書房、2004年10月25日、初版、150頁)

 終わりから、もう一度自分を見直すということによって、今が終わりなのだ、ということを知ります。今というのは、絶えず終わりなのです。もう先ほどの自分はいません。過ぎ去ったものの中で、何が悪かったのか、良かったかではなくて、今、私たちを生かすために共にいてくださる神は、何を、私にしようとしておられるのか、何を私たちに伝えようとしておられるのかと常に自分を問う姿勢を持つことにより、今、自分は、何をしたらよいのかを知る、生き方に変えられます。

風前の灯状態にもかかわらず

 イザヤが預言したのは、紀元前700年代、今から約2700年も前です。南北分裂していたパレスチナの北側をイスラエルと呼び、南側をユダと呼びました。その北イスラエルが、アッシリアにより完全に滅ぼされ(722年)、そして、南のエルサレムは、アッシリアの軍隊に包囲されて、陥落寸前、風前の灯の状態でした。

実際に、どのようなことが起こったのか、良く分からないのですが聖書には、

主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。

朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。

アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、

ニネベに落ち着いた。彼が自分の神ニスロクの神殿で礼拝しているときに、

二人の息子アドラメレクとサルエツェルが彼を剣にかけて殺した。

彼らはアララトの地に逃亡し、センナケリブに代わってその子エサル・ハドンが王となった。

(イザヤ書37章36〜38節)

と書かれています。たぶん内部でクーデターが起り、国に帰ったセンナケリブ王が殺されたようです。そこで、エルサレムは、結果的には、九死に一生を得ました。

終わりの日に

主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち

どの峰よりも高くそびえる(イザヤ書 2章2節)。

 イザヤは、そのような風前の灯の状態のエルサレムを前にしながら、終わりから今を見て預言したのです。

多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

主はわたしたちに道を示される。私たちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから

御言葉はエルサレムから出る。(イザヤ書 2章3節)。

 聞きようによっては、「なにを寝言いっているのだ」と聞こえるかもしれません。しかし、イザヤは目の前に起こることで、一喜一憂していません。イザヤ書7章を見ると、時の王、アハズが緊迫した状況の中で、右往左往しているという姿が書かれています。

ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。

アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、

エルサレムを攻めるために上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。

しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、

ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。

(イザヤ書7章1〜2節)

 これは、北イスラエルが、アッシリアに滅ぼされる前のことです。強大なアッシリアに対抗するために、北イスラエルは北隣のアラム(シリヤ)と同盟し、さらに、南のユダも力づくで、同盟に入れよう、連合して圧力をかけてきたのです。ユダは、その同盟には加わらずに、アッシリアに貢物を捧げて、援助を依頼しました。そのおかげで、北イスラエルが滅びたときには、滅亡から免れたのですが、次のヒゼキヤ王の時代に、アッシリア軍から攻められ、このときに九死に一生を得るのです。

 このように、みんなが恐れているただ中で、「終わりから見るのだ、そうすると、ここが聖なる都なのだ。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。ここが都なのだぞ」と言うのです。

 さらに、平和の福音を伝えます。

彼らは剣を打ち直して鋤とし

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず

もはや戦うことを学ばない。

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

(イザヤ書 2章4節から5節)。

 究極の平和が、必ず来る。今、風前の灯、恐れているヤコブの家(イスラエルの民という意味です)よ、主の光の中を歩もう。光が、今、あるぞと言います。これは、今の時代にも、まさに当てはまりそうです。目に見える現象は、絶望的なことばかりです。国の内外、どうしてこのように事件が多いのか、と言わざるを得ないくらい、困った事件や戦争が果てしなく続いています。これから、どうなるのか、と思わないではいられません。

 このような現実を、ただ過去の経験から、未来を見るということになると、どうしても希望が持てなくて、投げやりにならざるを得ません。「これはだめだ、どうしてもだめだな」ということになるのです。しかし、私たちは礼拝をするときに、常に主を仰ぎ見るのです。その主は、必ず、救いを完成される方です。終わりのときに、必ず平和が作られる。国は国に向かって剣を上げない。そのときが必ず来る。神はそのように完成されるのだ、そのことを、しっかり信じ、どのようなときにも、絶望しないのです。それが、「主の光の中を歩もう」ということなのだと思います。

 そうすると、小さな自分が今、生かされている中で、何をすればいいのか。嘆いたり、投げやりになるのではなくて、二度と帰らない、この”今”、終わりである”今”をどのように生きるか、が分かります。少しでも、何かをしなければ、という思いに作り変えられていきます。自分の状況がどのようであるかにかかわらず、本当の希望を持ったときに、人は生きることが出来るのです。

人間的な希望は崩れ去るかもしれません。でも、天地創造の神は、ひとり子をくださり、「だいじょうぶだ」と言ってくださっているのです。だから、私たちは、決して絶望しないで、小さなことを一生懸命に、忠実に実行すればいいと思います。

終わりから見ると、今、が変わる

 もう既に、天に帰られたヘンリー・ナウエン神父が、「静まりから生まれるもの」という瞑想集を出しておられます。その中で、絶望的な状況に襲われた、彼の知人のことを書いています。

 血液の癌である白血病に冒されていると分かって、将来の可能性が突然断たれた一人の中年男性がいました。彼のすべての計画は崩れてしまい、すべてのことが変わらざるを得なくなりました。しかし、「わたしはなぜ、こんな目にあわなければならないのか。いったいどんな悪いことをしたので、こんな運命に会うのだろうか」と問うことが少しずつなくなり、その代わりに、「このことの中に、どんな約束が隠されているだろうか」という問いが心の中に生まれてきました。(ヘンリ・ナウエン「静まりから生まれるもの」−信仰生活についての三つの霊想−あめんどう社、2004年9月1日、初版、76頁)

 つまり、終わりから、見始めたということです。そうすると、彼が変わってくるのです。

 彼の反発する気持ちがこの問いに変わったとき、自分が他の癌患者を力づけ、希望を与えることができるようになったことを彼が感じました。また、自分の状態を直視することによって、彼自身の痛みや苦しみを、他者を癒す力の源にすることができたのです。この人は今もなお、多くの司祭や牧師ができることよりはるかに大きなことを、病に苦しむ人たちにしています。そればかりか、それまではまったく知らなかった深い意味で、自分自身の命を再発見したのです。(前掲書、76,77頁)

 終わりから今を見る。主よ、どうぞ、おいでくださいという思いで、終わりを見つめるときに、また、自分の命を再発見するはずです。命の再発見に向かって歩みたいと思います。

 祈りましょう。

 聖なる御神様、主が再び来たりたもう日を待ち望む、その信仰にいつも堅くたたせてください。これなしにはどうしても揺れ動く現実に振り回され、そして、ともすれば投げやりになりがちです。今日からアドベントですから、日々常に再び来たたもう主よ、どうぞおいでくださいということを自分に言い聞かせつつ、また自分の命を再発見していくことが出来ますように、あなたの聖霊の御助けを切にお祈りいたします。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げいたします。

 アーメン。

(2004年11月28日、降誕前第4主日、アドベント、第二礼拝説教)