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目を上げて

石川 和夫牧師

主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。

見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。

あなたたちの子孫を大地の砂粒のようにする。

大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。

さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」

アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、

そこに主のために祭壇を築いた。(創世記13:14〜18)

 今日は永眠者記念の礼拝です。永眠者記念は、亡くなった方を偲んで、後ろ向きになって、懐かしむという感じがしなくもないのですが、それは、少なくとも公同礼拝においては、違うと思います。 

メソジスト教会の祖といわれたジョン・ウエスレーは、この永眠者記念日を教会暦の中で、最も好きな日だ、言いました。それは、亡くなった人を思い起こし、悲しみに浸るということを言ったのではありません。

 死は誕生です。新しいすばらしい命への誕生なのです。

 永眠者記念日とは、そちらへ移った方々が、天上で、

「素晴らしいぞ、こんなにいい所はない、毎日ハレルヤだ!」

 と言っていることを想像し、私たちも一緒に、ハレルヤを叫ぶ日なのです。亡くなった人はかわいそうだ、という思いではなく、

「本当にいい所へ行ったね。そして、私たちもそこに行けるのだね」

と思いながら、後ろ向きではなく、前向きに喜ぶ日なのです。

祝福されて、豊かなのに

 今日の主題は、“神の民の選び、アブラハム”となっております。

(創世記13章)

 アブラハムは、パレスチナに飢饉があって、エジプトに避難していました。妻サラが大変美人でしたから、エジプトの王様、ファラオと呼んでいますが、その王様に妻が奪われ、自分も殺されるといけないと思ったので、彼女を妹と偽って、暮らしていました。アブラハムは、エジプト王の世話になって、よい思いをするのですが、妻を妹と偽ったことが王に分かり、とても気まずいことになりました。しかし、結果的には、神様に大変祝福されて、豊かになって、帰ってきました。

 旧約聖書では、神様の祝福というのは、健康であり、豊かになり、いろいろなことに恵まれることで表しているのですが、エジプトから帰ってきてから、神様の祝福が沢山あって、大変豊かになりすぎました。しかし、土地が狭かったので、アブラハムと甥のロトの使用人同士が、羊の水飲み場のことで、しばしば、けんかするようになりました。これはまずいということで、アブラハムが言い出して、別れて住むことにしました。アブラハムは、ロトにどちらの土地を取るかの選択権を与えました。これは、当時としては、珍しいことだったようです。目上の人が、先に決めるというのが、常識だったからです。

 10節に、ロトが、“目をあげて眺めると”とあります。14節には、神がアブラハムに“目を上げて”と言われるところがあります。二つの“目を上げて”が出てきます。今回は、この“目を上げて”というところに注目したいのです。

「ロトが目をあげて眺めると、

ヨルダン川流域の低地一帯は、

主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、

主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。

ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。

こうして彼らは、左右に別れた。」(10節、11節)

 東側の方は低地で、非常に肥沃で、青々した良い土地でした。作物がたくさん取そうな素晴らしい土地です。それに反して、反対側、左側の方は、岩山が多くて、荒地です。その上、洞穴が多くあります。だから、開墾するのには、大変なところです。

 アブラハムは、過去のいろいろなことを、エジプトでの気まずいことなども思い出していたのか、おそらく、うつむいていたのでしょう。これから、どうしよう、条件が悪いぞ、開拓するのは大変だな、という思いをもっているときに、神がアブラハムに声をかけました。

目を上げてみると

   「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。

見えるかぎりの土地をすべて、

わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」(14節、15節)

 ロトの場合は、目を上げたのは、自分の意思で、よし、どこを、どっちにするかとキョロキョロしたのですが、アブラハムの場合の目を上げては、主の言葉が臨んで、目を上げました。神様のほうに目を向けたときに、その後は大変な祝福があるぞという約束を意味しています。

 実は、この聖書の言葉が、パレスチナ問題の遠い原因ではないかと思っています。神様は、ここは全部、あなたとあなたの子孫に与えると言うのです。ですから、今のイスラエルのシャロン首相は、ちゃんと神様がそういうように、聖書で約束したではないか、だから、ここは俺たちの土地だ、だから、俺たちに従わないものは、出でいけと言うことになるのです。結局は、長く住んでいたパレスチナ人を1948年に、追い出して難民にしてしまいました。これに対して、大国のアメリカが、目をつぶっています。ですから、反米意識が起こったのです。

 しかし、土地をあげる、という神様の約束の前に、もうひとつの重大な命令があるのです。それが、12章1〜3節に示されています。

主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。

あなたを祝福する人をわたしは祝福し

あなたを呪う者をわたしは呪う。

地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

 簡単に言うと、神様が選ばれた目的は、世界中の人たちへの祝福の源となる、ということです。土地の約束は、そのための手段に過ぎません。この目的と手段の混同を正されたのが、イエス・キリストでした。

 今、テロに対する戦争が正義だ、という印象が強いのですが、その背後にあるものをよく見極めて判断しないといけないと思います。テロを起こすほうだけが悪い、と表面的なことだけで、受けとめないことが、とても大事だと思います。

 ここで、アブラハムの物語に戻りましょう。彼は、神様のお約束によって、大きな慰めを得ました。目を上げて、そうか、この先に祝福があるぞ、ゴールがあるぞ、よし、ということで、アブラハムは、勇気をいただいたことに感謝して、主のために祭壇を築き、礼拝しました。ここが、私たちの帰結するところです。

証人に雲のように囲まれて

 2001年の9月11日は、どなたもご存知だと思います。ニーヨークのツインタワーが崩壊し、数千の人が亡くなった日です。今、その場所は、すっかり地ならしされて、グランドゼロと呼ばれています。そこから数ブロックはなれたところに、アメリカで一番古いオールド・ジョン・ストリート合同メソジスト教会があります。その教会のジェームス・R・マグロー牧師が、「グランドゼロからの祈り」という本を出しておられます。

 その本には、2001年のその事件の時から、毎日の祈りが書かれています。その中で、彼は客観的に物事を見つめ、主を見上げています。みんなが、アメリカ国旗を張り巡らせ、そして、復讐してやるぞ、といきりたっている時に、彼は冷静に祈っていました。例えば、10月31日の宗教改革記念日の祈りを見てみましょう。

 「神さま、私たちは国家としてまた個人として、あまりに頻繁に、他者を犠牲にすることで自分たちの楽しみにふけってきました。もっと分かち合えたはずの資源を見境もなく消費し、他者の生活、希望、夢にどんな結果をもたらすかを考えもせずに、ただ自己の利益を追求していました。他の人、他の民族、ほかの国家を受け入れ、思いやり、迎え入れようとはしないまま、個人や国家の利益を優先させることに自ら『免罪符』を与えてきました。」(ジェームズ・R・マグロー「グラウンド・ゼロからの祈り」、日本基督教団出版局、2004年8月20日、初版、42頁)

 宗教改革のきっかけは、この免罪符です。これは、この切符を買って、金貨をこの箱に入れると、誰もがすぐに、「カーン」という金貨の音で、天国に移れるというものです。そういう、安易な切り札です。この問題に疑問を抱いた修道僧のマルチン・ルターが神学的な討論会を開こう、と提案を張り出したのが、宗教改革の出発点となりました。

 マグロー牧師は、個人や国家の利益だけを優先させることが、いつの間にか『免罪符』になってしまっている現状が、手前勝手で、ほんとに恥ずかしいことだと言っています。免罪符ではなく、ただ信仰によってのみ、私たちは義とされ、救われるのだということに、気づかせてください、という祈りをしています。そして、11月の聖徒の日を前にした日の祈りがこれです。

 「死の苦しみがいまだ重苦しくのしかかり、すぐそこのグラウンド・ゼロでの遺体の数が、今も膨大に増え続けているこの年においては、この日を、私たちが特別に覚える日とさせてください」

 つまり、聖徒の日です。

 「今なお、五感を打ちのめすあの黒く、厚く、息苦しい煙の元に、悪が広くはびこっていることを、9月11日の出来事によって私たちは知りました。

 けれども今週は、どうか同じこの煙を、先達である神の証人たち、すなわち、信仰のうちに人生を全うし、今はあなたの元で永遠の命に生きる人々の群れが厚い雲となって私たちを今も覆っていることを再確認する手がかりとしてください。そして、その手がかりを、命が燃え尽き、なすべき仕事が終わったとき、私たちもまたその群れに加わるのだという、最終的な目的と約束の場所としてください。」(前掲書、44,45頁)

 グランドゼロからいつまでも上がってくる煙を、マグロー牧師は、聖徒たち、証し人の雲と受け取っています。これは聖書にちなんでいます。ヘブライ人への手紙の12章1節。新共同訳聖書では、雲という言葉が消えています。それで、私は念のために、英語の聖書幾とおりかを比べて読んでみましたが、やっぱり雲という言葉があるのとないのがあります。どちらかというと分かりやすい聖書、口語訳系の聖書には、クラウド、雲という語が出できます。日本語でも、口語訳のほうで、

 「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、一切の重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走り抜こうではないか」

 これがヘブライ人への12章1節です。だから、マグロー牧師はグランドゼロの雲を証人の雲と見ているのです。

 今日はその、その雲に囲まれている日。その証人の雲が、

 「ハレルヤ」と叫んで、

 「素晴らしいぞ、だから、こちらは心配するな。お前たち、今、地上で、しっかり歩め」

と言ってくれていることを思い起こして、彼らと一緒に神を賛美しましょう。それが、永眠者記念のとても大事な意味だと思います。

 祈りましょう。

 聖なる御神様、聖徒の日、永眠者記念の礼拝に導き出されましたことを心から感謝いたします。私たちは、すぐる日に、それぞれ愛する者を天に送りました。そして、深い悲しみと寂しさにおそわれ、また、自分の過ちや足りなさを責めて、暗い日々を過ごしがちでした。しかし、あなたは、わたしたちの命が、この地上だけで終わるのではなく、究極の神の国への命に生まれ変わらせてくださることを知りました。先に召された信仰の先達である聖徒たちが、今、雲のように私たちの周りに立って、私たちを励まし、支えていることをしっかりと受け止め、また、残されている私たちが、希望と勇気を持って歩み続けていけるようにお助けください。主イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン