お話を読むライブラリーへ戻る トップページへ戻る

言うことはない

石川 和夫牧師

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。

だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

(ローマの信徒への手紙11:33)

 この日の礼拝で、皆さんと一緒に、キリエを歌っているその時に、人間が神様に対して、いつも答える言葉は、これなのだ、

「主よ、憐れみたまえ」

という、この気持ちをいつも、いつも、失わないことが大事なのではないか、ということをつくづく思わされました。

 神様は、動物と違って、人間にだけ、善悪の知識を与えておられます、判断力を与えておられます。ものが言えるということは、神様と対話をするために与えられているものです。だけど、それが、人間の勝手な価値観で曲げられて、今、悲劇が世界中に起こっています。広がりっぱなしという感じですね。その陰には、武器で儲ける死の商人がいます。アフリカを始め、あちらこちらで内戦の悲劇が起こっています。

 日本は今まで、唯一、武器を輸出してこなかった国だったのですが、今、武器を輸出出来る国になろう、ますます世界の諸国と同じ普通の国になろうという傾向が見られます。とても心配です。

神の富と知識

今日は、使徒書のローマの信徒への手紙の言葉を中心に、み言葉を聴きたいと思います。ローマの信徒への手紙の11章33節以下のところで。

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか、

だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

と書いてあります。

 今日の主日の主題は、「神の富と知恵」です。

 パウロは、スペインまで伝道したいと願っていました。ローマの教会が、スペイン伝道の根拠地になって欲しい、自分を支えて欲しいと願っていました。だから、自己紹介を兼ねて、ローマの教会の人たちに、私はこういう信仰を持っているのだ、ということを、それまで、色々なところで述べていたものをまとめて書いたものが、ローマの信徒への手紙です。

 これまでの歴史において、このローマの信徒への手紙を読んで、多くの、しかも優れた人たちが改心しています。宗教改革者、マルチン・ルター、ジャン・カルヴァン、現代のすぐれた神学者、カール・バルトなど、枚挙に暇がありません。

 今日の11章33節は、パウロが、イエス・キリストによる自由ということを説いてきた締めくくりの部分です。ですから、おそらく説いていながら、魂が高揚してきて、なんと、神様の富と知恵と知識は深いのだろう、もう、言うことは無いのだ、ということを痛感したに違いないのです。それに引き換え、人間は、なんと罪深いのだろう、ということだと思うのです。最後が、また素晴らしいのです。

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(36節)

 私たちは、神様から出て、作られて、神様によって保たれ、神様の元に召されます。行き場所もキチンと決まっています。なんと素晴らしいことなのでしょう。だから、私は、「言うことはない」という題をつけたのです。

 神様は、ひとりひとりに、最も完全な素晴らしい道を用意しておられます。しかし、人間の判断力、特に、正義感は、とても狭い正義感になってしまっていて、ちょっとしたことで扇動されると、もう、相手を抹殺しようとしてしまい、それが、正当化されてしまうという愚かさに向ってゆきます。

健気さに気づく

 最近、うちの飼い犬のチコは、人間で言うと、60歳超えました。年のせいか、心臓に持病があるようです。時々発作を起こします。それで、動物病院へ連れて行ったときに、私は痙攣かと思い、

「時々、我々も年をとったから、そうなるのですが。足が、つるみたいなものですね。」と言いましたら、お医者さんに、怖い顔をされて、

「そんなものではありません。心臓から来ているのですから。」

と言われました。ビックリしました。しかし、そこで、チコが発作に襲われたときのことを思い出してみると、苦しくて、ギューと硬くなっていながら、必死に堪えている感じが、なんとも健気なのです。そして、(発作が)終わったら、何事もなかったかのように、そのまま、静かにしています。この、「言うことはない」という生き方を、彼女は、何時も示しています。それを見ながら、私は何時も信仰の先生だ、と思わないではおれないのです。それに反して、人間は、勝手に心配したり、腹を立てたり、いい気になったり、なんてしようがないのでしょう。

 今日の礼拝のように、

「キリエ、主よ、憐れみたまえ」

にいつも戻って、そして、「私は、愚かですね。」と気づいて、謙遜な姿勢になるときに、人々は、互いに支えあい、守ると言う関係になるのだと思います。それが、一寸、こちらが傲慢になると人を排除したくなります。

「あんなやつは要らない、消してもいいのだ。」

と言い出します。力の論理で押し通す国が、テロを根絶するのだといきり立ちます。力を加えれば、加える程、テロの側は反発します。手段を選ばず、同国人であろうと、子供や赤ん坊であろうと、かまわずに。一人が死ねば、何人かの人が、悲しみます。だから、悲しみを何倍にも増やしてやれと言わんばかりに、手段を選ばない報復が広がってしまいました。これは、悪循環以外の何ものでもないのです。大勢の人が、それで悲しんでしまいます。なんて、愚かなのだろうと思います。

 このような状態の中で、平和を作り出すためには、私たちは、神様に、本当に御免なさい、憐れんでください、と言う気持ちを持つようになり、その気持ちが少しでも広がるようにと祈り、努力する以外にないと思います。

「小さい者」なのだ!

「言うことはありません」

という姿勢を、私は、よく引用させていただく藤木正三先生の本から、「小さいものになる」ということなのだと学びました。

 イエス様がマタイによる福音書10章42節でおっしゃっています。

「はっきり言っておく。

わたしの弟子だと言う理由で、この小さな者の一人に、

冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)

 ここで、イエスの弟子というのは、小さな者だ、というのです。普通、弟子とは、忠実に服従する者、手伝って、よく働く者、というイメージを持つものなのですが、ここでのニュアンスは、イエスの弟子とは、冷たい水一杯を渇望している者、ジュースでもなく、お酒でもなく、たった一杯の水を渇望している者、そのような小さい者だ、というのです。 イエス様が、空の鳥を見よ、野の花を見よ、とおっしゃることに、心動かされる者のことを言っているのではないでしょうか。立派な弟子になろうとすることは、大きくなろうとすることです。立派になる必要はない。私たちは、イエスの弟子として招かれたのですから、小さいのです。小さい者にふさわしい歩み方を続けていればよいのです。その点で藤木先生はこのように言っておられます。

 主は「小さな者」、それも、水一杯を飲ませてやることが救いになるほどに「小さな者」を、弟子の名に値するものと考えておられます。弟子は忠実な者とか、謙遜な者とか、情け深い者とかというよりは、もちろん徳において高いにこしたことはないのですが、何よりもまず、「小さな者」であることが求められている者なのです。(藤木正三「この光にふれたら」日本基督教団出版局、1996年5月25日、初版、98頁)

 私たちは、「小さい者」なのです。藤木先生は、こう結んでいます。

 野の花は誰に手入れしてもらうこともなく、そして、いつ、踏み潰されるかもしれないのに、その、はかなさの中で美しく咲いています。その命の健気さに注意して生きるのが「小さな者」です。(前掲書、100頁)

 その命の健気さに注意して生きます。誰にも見られることのないような花が、いつ踏み潰されるか分からない花が、でも、精一杯生きています。それが命の健気さです。この、命の健気さに心動かされる者が小さな者なのです。これをしなければ、アレが足りないとかで悩まないでください。

 イエス様がおっしゃるように、一寸、見回せば、野の花でも、空の鳥でも、健気に生きているものが、周りにいっぱいあります。それに目を留めて、

「あーあ生かされている。」

「ああ、なんて、私は愚かなのだろう。主よ、憐れんでください」

という思いで、一日一日、与えられていることをあるがままに受け止めて、精一杯、生きてゆきます。それが、

「言うことはない」

ということを受け止めた人間の生きる道ではないでしょうか。それが、大事な絆になり、世界が一つになって生きて行く道ではないでしょうか。

 祈りましょう。

 聖なる御神様。私たちは、見当違いのことで、悩んだり、有頂天になったりしがちです。しかし、本当は、あなたが私を生かしてくださり、さらに、最も素晴らしい美しい生き方を、空の鳥や、野の花が示してくれています。私たちが、彼らから学び、励まされ、力づけられることを知らなければ、思い上がったままで、いつのまにか、誰かを排除する生き方に走ってしまいます。どうぞ、いつも、「主よ、憐れみたまえ」の心を失うことなく、小さな者として、あなたが省みてくださいますように、そして、あなたの恵みと祝福が満ち溢れていることを心から讃美する者となりますように、お助けください。

 主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。