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2004年9月12日 石川牧師説教

自由のとりで

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

(ヨハネによる福音書8章31,32節)

今日は、この教会の30回目の創立記念日です。

 今日は、教会の歴史を紐解くのではなくて、なぜ、「自由のとりで」として、この教会が作られ、今も礼拝が守り続けられているのか、について学びたいと思います。

真理とは?

 今日のテキストは、ヨハネによる福音書の8章31節以下です。

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(32節)

という言葉があります。この言葉に注目してください。ヨハネによる福音書は、他の福音書と比べると、この“真理”という言葉を実によく使います。「真理」という言葉は、ギリシャ語で、アレティ−ア(aletheia)という言葉が使われています。このアレティーヤという言葉は、隠蔽されたもの、レーテ(lethe)という言葉に、「否定、剥奪」を意味する接頭辞“ア”(-a)が付いたものです。だから、“レーテ”が“ア”されたものつまり、隠されたものが顕わになるという意味になります。

 ヨハネによる福音書は、「真理」(隠されたものが顕わになっている)は、イエス・キリストなのだということを証ししています。そういう福音書なのです。ヨハネによる福音書の大変有名な言葉、

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、

この方が神を示されたのである。」(1章18節)

 これがヨハネによる福音書のテーマです。この誰も見たことが無く覆われていたものを顕わにした人、それがイエス・キリストなのだということがテーマとなっています。

 32節の「自由にする」という言葉は、奴隷から解放するというときに使う言葉です。だから、これを聞いたユダヤ人たちは

「わたしたちはアブラハムの子孫です。

今までだれかの奴隷になったことはありません。」(33節)

と答えています。自分たちは奴隷ではないのに、なんでいまさら自由にされないといけないのかと、いう思いがあるわけです。だから、頓珍漢なこの受け答えが続くのです。

 この、ユダヤ人たちというのは、ユダヤ人一般ではなく、ヨハネの教会の地域に住むユダヤ教徒、あるいはユダヤ人たちです。いつも申し上げているように、その当時(紀元80年以後)、ユダヤ教では、イエスをキリストと信じるものは、異端者だから、日に3度の定刻の祈りの時に、この異端者への呪いをすること、ということを決めました。そのため、このヨハネの教会の中では、浮き足立った人、あるいは、ユダヤ人を恐れて、実際に教会を去った人もいました。そのことを示唆した言葉が、聖書にあります。(「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」ヨハネ6:66)

 このような状況の中で、ヨハネは、イエス・キリストこそが真理なのだ、この方を除いて真の神はないということを主張しています。イエス・キリストが真理であるということは単に哲学的真理というのではなく、普段は見えない神が見える形になられた方だということです。このキリストこそが、私たちに永遠の命を与えてくださる方なのだとヨハネは主張しています。

奴隷のように見えても、それが自由!

 イギリスのエジンバラ大学ニューカレッジで、新約学の教授をしているJ.Sスチュアートという方がいます。新約学の教授であることもさることながら、説教者としても大変有名な方で、何冊もの説教集が出版されています。その中で、こういうことを言っておられる箇所があります。

 「事実はこうなります。――キリストの外側に自由があるかのように見えますが、実はその自由らしきものは束縛なのです。」(J・S・ステューワート説教集「永遠の王者」、日本基督教団出版局、1981年2月18日、初版、113頁)

 キリストから離れているほうが,自由であるように見えるのですが、離れているから自由だと思っているのは、逆に、よく見るとほかの何かに束縛されているのだ、ということです。

 「他方、キリストと共にいるのは束縛のように見えますがそれこそが実は自由なのです。」(前掲書113頁)

 キリストの奴隷になりきることが、逆説的にすべてのものから自由になる、すべてのものから解放される、そういう自由を得ることが出来る、というのです。

 自分は何かから離れた、だから、囚われていないから、自由だと思いながらも、実は別の何かに囚われている人がいます。何も囚われるものは無い、と言ってもそうはいきません。人間の限界なのです。「死ぬのは怖くないよ」と言いながら一生懸命、健康に気をつけて薬飲んだり、運動したりしているようなものです。

 本当の自由というのは、キリストの奴隷になりきるということにあります。スチュアート教授は、「あらゆる種類の気まぐれな欲望を一つのはっきりした目標に集約し、調和のとれた人格となる自由、神や人々に隠さなければならないものは何一つなく、光の中を歩む自由、奉仕を喜ぶこととあなたの人生が神と人々の役に立っていることを知る自由なのです。」(前掲書、113-114頁)と言って、このような話を続けています。

 海上の小さな孤島で生涯を送った燈台守の人がいます。その人がまだ、灯台守をしていたときに、ある人がそこを訪ね、燈台守の人に聞きます。

 「ここに住んでいると囚人のような気になりませんか。」

 つまり、島流しですね。孤島ですから。だから、そういう気持ちになりませんかと聞きますと、即座に返事が返ってきました。

 「私が最初に人を助けたその時以来そのようなことは一度もありません。」

 自分の働いている灯台が、人助けになったのです。灯台の故に、実際に、人が助けられたという経験をしてからは、人から見られたら島流しに見え、奴隷のように見えるかもしれない、けれども囚人ではなくて、自由なのだということです。

 「束縛されている奴隷と栄光ある自由、これがキリスト教の根本的な逆説なのです。」とも言っています。(前掲書、114頁)

 どのみち、私たちは、何かに束縛されて生きざるを得ないのだとすると、徹底してキリストの奴隷になりきりましょう。

 「私の主は、あなたです。私がどうなるかはあなた次第です。あなたが、すべてを整えて最善をなしてくださいます。一切をあなたにゆだねてお従いします。」と奴隷になりきったときに、不安とか不満とかが自然に消え去り、一日一日を大事にして生きていけるようになるのではないでしょうか。だから、私たちはキリストの奴隷であるということを確認したいのです。一切の事に囚われない、本当の自由が、キリストがかしらである、この教会にあります。それは、逆説的な自由です。

 もう心配が無くなった、「ハレルヤ!、目出度い!、目出度い!」と有頂天になっているのではなくて、心配がありつつ、なお「ハレルヤ!」と言える、その自由が、教会なのです。その故に、教会がこの地上に立てられています。その使命に、いつも忠実でありたいと願っています。

 祈りましょう。

 主イエス・キリストの神様。あなたは、過ぐる30年前に、この永山の地に、キリストの教会を始めてくださいました。そして、無数の人々の助けによって、この30年を経過して今、このところで、このように、礼拝を守ることが出来ますことを覚えて、心から感謝いたします。御名をたたえます。私たちが、この伝統を受け継ぎながら、「自由のとりで」として、礼拝を守り続け、人々に証しし続けてゆくことが出来ますように、これからも変わらずに顧み、支え、導いてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン