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永遠の命を食べる

石川 和夫牧師

朽ちる食べ物のためではなく、

いつまでもなくならないで、

永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。

これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。

ヨハネによる福音書6章27節

 1945年(昭和20年)8月6日。今から59年前になりますが、私は灘中学校の4年生で、夜通しの空襲のために家を焼け出され、学校の本館の宿直室でうめいていました。栄養失調で、その当時脚気と言いました。ビタミンB不足の病気です。体がだるくてしょうがなかったのですが、まず、隣の家に爆弾が落ちて忽ち2階まで一気に燃え上がり、延焼を防ぐため、弟たちと母とで必死の消火活動をしていました。

 ところが、そのうちに我が家にも何発かの瞬発性直撃弾が落ちて崩れたので、門柱の下敷きになった弟を救い出して、近かった学校へ逃げ込みました。校長先生がとてもよくしてくださいました。疲れきった私に、奥さんがお粥を作ってくださったのです。当時、油粕といって、大豆を搾った後の滓、今では家畜の餌か肥料にするしかない、そういうものも食べていた時代ですから、とってもとても珍しくありがたかったのです。校長先生の名前は“ 真田 ( さなだ ) ( のり ) ( ) ”といいました。

 その頃は、学徒動員といって、中学生も含めて、学生は軍需工場に働きに出されていました。週に1回か2回勉強のために登校していました。ある登校日に、海軍の将校が来まして、全員が集められた講堂で大きなグラフを広げ、兵庫県下で軍隊の学校に進んだ生徒数の棒グラフ見せました。灘中学は棒グラフが見えないくらい低かったのです。これでお前たちは愛国心があるのかというように、ハッパをかけられましたので、当時、純粋な愛国少年でありました私は、号令をかけている立場でしたから、予科練に一番先に行きますと手を上げて志願すると、みんなが続いてどっと志願しました。私はお国のためにいいことしたと思っていました。

 次の日、働きに出されていた船舶の給水ポンプを作る工場に校長先生が私に会いに来られました。何事かなと思いました。校長先生は外へ出ようと言いました。一緒に田んぼの畦を歩きながら「石川君、お国に奉公をするということはみんなが軍人になることだけじゃないぞ、君はせっかく持っている知識、学力を生かして、高等学校、大學と行って、その知識を生かして、御国のために働きなさい」と懇々と言われました。私は、最初不満だったのですけれども、きっと先生の“愛”に圧倒されたのだと思います。「分かりました」と志願を取り消しました。そしたら、一緒に出していた連中もみんな引っ込めました。ですから、相変わらず灘中学校はとても少ない軍隊志願者数でした。

 今から考えると、校長先生はそういうことで随分とプレッシャーがあったのではないかと思います。そのせいかどうか敗戦の翌年に校長先生は亡くなられました。

私はそのときに一人の生徒を思う校長先生の”愛”に動かされたと思うのです。本当の反戦平和というのはやはり一人を思う”愛”から出発します。

 “愛”が基盤になくてどちらが‘正しい’とか‘悪い’とかいうレベルだったら、力に対して、力で対抗しようというようになります。平和を作り出すということの根底は”愛”なのだという事をもう一度確かめたいと思います。

永遠の命に至る食べ物

 今日の福音書は、イエス様がガリラヤ湖の東岸で、大勢の人に食べさせた奇跡の後のことです。ガリラヤ湖の北岸にカファルナウムいう町があります。そこへお帰りなる途中のお話が、先週のイエス様がガリラヤ湖を歩いてこられたという記事でした。群衆が、またイエス様を追いかけて、カファルナウムにやって来て、イエス様に、

「ラビ(先生という意味、宗教家に対する尊称)、いつ、ここにおいでになったのですか」

(25節)

と聞きました。イエス様は、そのことにすぐにはお答えにならないで、

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、

しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

(26節)

という言い方をなさいました。この表現は、いつも申し上げているように、ヨハネによる福音書独特の表現の仕方なのですが、ヨハネは現象を表現しながら、一方で、信仰的な意味も表現します。ヨハネは、群集やユダヤ人の見当はずれの対応を通して、イエス様が神の子なのだ、ということを指し示そうとするのです。ここで、ヨハネが一番言いたいことは27節です。

 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」

 今日は、“永遠の命を食べる”という題にしました。

 ヨハネによる福音書の主張であり、聖餐式の原型でもある、イエス様が、「私の肉を食べなさい、血を飲みなさい」と言っておられることについて、晴佐久正英神父が、高幡教会に居られた当時にされた説教の中に、このように話しておられるところがありました。

 「先週赤ちゃん帰りの話をいたしました。私たちの信仰の基本は、何も出来ない、一方的に親から愛を受けるだけの赤ちゃんに帰ること。『子どものようになりなさい』といったイエスの教えどおりに、赤ちゃんになって親の前で全面的な信頼の泣き声を上げること、これが信仰の基本だとお話しました。それで言うならば、御聖体とは(カトリックでは聖餐式のことを聖体拝領といいます。)お母さんのお乳でしょう。自分自身を与え、飲ませるのがお母さんのお乳ですからね。自分自身のすべてを子どもに与えるために、自分自身の愛を味わってもらおうとしてお乳を口に含ませる。赤ちゃんはそれをただただ頂くだけ。これが『親の愛の御聖体』ということではないでしょうか。子どもの方はただフギャーと泣いて、これを飲むだけ、頂くだけです。親は子供が頼もうと頼むまいと、子どもがいい子だろうと悪い子だろうと、ただただ自分のお乳を含ませて育てている。しかも、一日3回4回、何度でもです。それで私たちは神の命を自分の体の一部に受けて本当に生きるものとなってきたのです。これからもこのお乳をしっかりと頂きましょう。泣いて、騒いでですね。」(2002年6月2日)というように、まだ説教は続くわけですけれども。つまり、お乳を頂くこと、主の、キリストの体を頂くこと、これは命を頂くことに他ならないのです。

 私たちは食事のたびに、「頂きます」と言います。これは、たくさんの命を頂ますということです。その、たくさんの命によって、私の命が生かされます。キリストが、「私を食べなさい」と言われました。それは、キリストの命を食べなさいということにほかなりません。私たちが食べる普段の食事において、命を頂くだけではなくて、隠された、たくさんの“愛”を頂くということでもあります。ですから、食膳の感謝は、とても大事です。生かしていただいている、命をたくさん頂いた、そして、その背後にたくさんの”愛”があったということ。特に、教会の聖餐式においては、それは、私を食べなさいと言ってくださっている神の“愛”をしっかり頂くということです。

 今日は聖餐式のある日です。

 イエス様が、

「神様の“愛”を頂いている私を食べなさい」

とおっしゃってくださっています。イエス様を食べるのに条件はありません、お前がどのような子であるか、関係ないよということです。

「私の命をあげる」

とおっしゃってくださっています。その“愛”を無条件で頂きます。

 神の“愛”をしっかりいただいて

 プロテスタント教会の礼拝は、説教中心でしたから、ともすれば、言葉ばかりになってしまいます。言葉中心の礼拝になると、実感が乏しくなりますから、どうしても“こうしないといけない”、“こういうのはよくない”、“こうすべきである”、“こうすべきでない”というような説教になってしまいます。ですから、そのような礼拝に慣れてくると、自然に、“すべきか”、“すべきでないか”ということが身についてしまいますから、自分を“裁き”、そして、無意識に人を“裁く”のです。だから、他者を寄せ付けない、とても冷たい雰囲気が流れてしまいます。

 教会は、キリストを通して、神の“愛”を無条件で頂くところです。命の源である“愛”を頂くところです。“愛”ということは、結局、感性です。だから、信仰は、理屈ではなくて感性なのです。パンを頂くということを通して、その行為を通して、私たちがイエス様の“愛”を、父なる神の“愛”を感じ取ること、それが、とても大事になってきます。

 だから、伝統的な教会は聖餐式が中心になるわけです。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会では毎週、聖餐式をします。説教は礼拝の中心ではなく、御言葉を聴く補助手段です。

 私たちの教会もそれを真似て、福音書を読むときだけは、起立をいたします。それは特別だからです。教会のかしらであるキリストからの御言葉を聴くためです。礼拝で一番のクライマックスは、この御言葉を聴く時です。神が、私たちに直接語りかけてくださる時と受け止めてしっかり御言葉を聴きましょう。その後に続く説教、これは御言葉を聴く補助手段ですから、着席して聴きます。ある、カトリック教会では、人間的な部分は分からないように、しかも聖書のみ言葉が一人一人に生きるというために、そして、自分がキリストの“愛”で生かされていることを確信するために、司祭はわざと姿を隠して説教するのだそうです。

 誰それ牧師、誰それ司祭によってではなくて、キリストによって生かされて、という、その確信にいつも導かれて行くことが、礼拝の基本だろうと思うのです。

 今日、聖餐式が行われます。その時に、しっかり私のために、命を捨ててくださったキリストの“愛”を感じ取って、この一週間、復活のキリストと一緒に、歩み続けたいと思います。

 祈りましょう

 聖なる御神様。今日は平和聖日です。日本が、世界で唯一、核爆弾の爆発による徹底的な影響を受けて、敗戦しました。この国が、本当に真剣に、核兵器の廃絶をしっかり主張しなければなりません。しかし、全体的な動きはまた、昔に戻りたいような風潮を感じないではおられません。平和の基本は、あなたの“愛”です。どうぞ、まず私たちがこの“愛”に生かされることを通して、その“愛”を妨げるものに対する憤りや悲しみをいつも受け止めてゆくことが出来ますように。ともすれば、自分のことだけに精一杯になってしまいますけれども、あなたが私たちをお召しくださった御旨に従って、あなたの“愛”を御取り継ぎする使命を、少しでも果たすことが出来ますようにお助けください。

 主イエスキリストの御名によって御前にお捧げいたします。

 アーメン。