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究極の勝利

 石川 和夫牧師

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。

あなた方には世で苦難がある。

しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

(ヨハネによる福音書16:33)

 イエス様の決別説教というのはヨハネによる福音書14章を第一の決別説教、15章と16章が第二の決別説教、そして17章がそれらを纏めたイエス様の一致の祈りです。そして18章から受難物語が始まります。

 ヨハネ16章25節から33節は、ある意味で、ヨハネによる福音書の最も伝えようとしていることの中心です。特に、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)を覚えたいと思います。

 ヨハネによる福音書は、神が人となられておいでになってくださったことをはっきりと主張します。

 14章では、イエス様が「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない」とおっしゃいました。これは、姉妹教会一致礼拝のときのテキストでもありました。そのときにはイエス様の平和というのは世が与えるように与えるのではないと申し上げました。

 いろいろな原因があって、問題があって平和でない、その問題が全部解決されて、はじめて平和が来る。これが普通の考え方です。問題があるときに問題が解決されて得られる平和、これが、世が与える平和です。

 しかし、イエス様が与える平和というのは、その騒ぎを与える原因がそこにありつつなお平和であるという平和です。ここのところが、いわゆるご利益宗教(世が与える平和)と決定的に違うところなのです。病気で苦しみがあるときに、その苦しみが取り去られることによって平和が与えられるのではなくて、苦しみがあるが、しかし同時に平和もあるというあり方、これがキリストの与える平和なのです。ですから「あなた方がわたしによって平和を得るためである。」と言われたのは、イエス様が常に共にいてくださるということを通して、どのような状態にあっても、あなた方には世で苦難がある。嫌なこと、そして、耐えなければならないこと出来れば取り去りたいこと、そういうことがある、しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。苦難と一緒にイエス様がいる。しかも一緒にいるイエス様は世に勝っている。復活をして、そして、神の右にいてくださる。だから、このわたしがいるから苦難があるけれども、あなたは必ず勝利を得るという、その約束、それが、イエス様の決別説教の締めくくりです。

痛みを捧げる

 森内俊雄と言う作家がいます。数年前、「信徒の友」に「福音書を読む」という題で、連載のエッセイを書いておられた方です。3年前に、それが一冊の本になりました。その中で、彼がこのようなことを書いています。

 あるとき、彼が階段から転落し、左手首を複雑骨折しました。複雑骨折ですから、入院しなければなりませんでした。かなり長い期間入院しました。回復に時間がかかり、これをお書きになったときにもまだ左手が痛いというような状態です。複雑骨折ですから、手首から手のひらにかけて金属のかすがいのようなものが入っているのだそうです。包帯をぐるぐる巻いて、固定されて、そのような状態ですから、痛くないというと嘘なのです。だけど我慢できないほど痛いかというとそうでもないのです。だから、絶えず痛さがありながらそれを我慢しているという状態でした。

 彼はカトリックの信者です。退院して、初めての日曜日のミサに出ました。ミサが終わった後で、主任司祭に「痛いですか」と尋ねられたので、「痛くありません」と言うと嘘だから、「痛いです」と答えました。そうすると神父が彼にこのように言ったのです。「どうか、その痛みを世のもっと痛める人々のために捧げてください」。これを聞いたとき「わたしは心の隙間にそれこそクサビを打ち込まれた思いがした」と言うのです。

 「わたしの肉体の痛みはあくまで自分ひとりのものであって、ただひたすらこれに耐えていくしかない、と思っていた。痛みを覚えるのは、治癒に向かっている証拠なのだから、耐えていればよいとだけしか考えていなかった。しかしながら、この世にはわたしより、もっと辛く絶望的な痛みにわが身をさらしている人もいるのである。痛みすら覚えない極限の痛みもあるのである。わたしは神父の言葉に衝撃を受けたが、だからといって、それで痛みが消えて無くなってしまったわけではない。だが、痛みの意味が変わってしまった。この自分のささやかな痛みが、誰か知らない罪なき人の痛みの幾分かの助けになるのならば、この痛みを真摯に捧げようと決心した」。

(森内俊雄「福音書を読む」、日本基督教団出版局、2001年5月21日、初版、80,81頁)

 神父さんが「その痛みを世のもっと痛んでいる人たちに捧げてください」と言われたとき、彼は、今まではこの痛さは自分の個人的なことなのだから、それを出来るだけ我慢して、完治するのを待てばよいのだと受け止めていました。けれども、この、苦痛が与えられ、痛みが与えられているからこそ、知らない、いろいろな人と連帯できるのだ、私のために勝利してくださったキリストが傍にいて苦痛、痛みを負ってくださっているのだ、ということに気がついたのです。

 そこで、彼はこのように結ぶのです。「捧げるような謙虚な思いで痛みと向き合ってみればずいぶん楽にもなれる。痛みでさえ捧げられるのならばわたしたちは実に多くの奉げものを所有しているのではないだろうか。わたしは自分が非常に豊かな人のような気持ちにもなれる。」(前掲書81頁)

 本当は、捨て去りたいと思うもの、それも捧げる。どんな小さなものでも捧げるということをとおして、主はそれを何倍にも生かしてくださいます。

 少年が持っていた、いってみれば、あまりたいしたものではない五つのパンと二匹の魚をイエス様に捧げたことによって、五千人以上の人が満たされたということがあるときに、わたしたちに捧げられないものは何も無いのです。痛みさえ捧げる。あるいは悩みも捧げる。自分よりもっと重い人もいるかもしれない、そういう人々と連帯して捧げるのです。

 連帯しているということは、主イエス・キリストがそれらの人と共にいて、傷を、その痛さを負っていてくださるということです。それが、「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)ということではないのでしょうか。

 お祈りしましょう。

 聖なる御神様、わたしたちは何か問題があると自分だけにしか分からない、簡単に人に分かってもらえることではないと、それを自分の中にしまいがちでした、しかし、わたしたちには、既に世に勝っておられる主イエスキリストが共にいてくださいました。それらの痛み、問題、隠したい悲しさ、恥、それらを一切、御手にお捧げすることを通して、わたしたちは似たような境遇の人々、あるいはもっと重たい、辛い境遇の中にいる人と連帯することが出来ることを知りました。あらゆるものをあなたのみ前にお捧げすることが出来ます。わたしたちには、それだけの豊かさが与えられていることを改めて知ることが出来ました。常に共にいてくださる勝利の主を仰ぎながら、また、世のすべての人々とつながり、互いに支えあっていくことが出来るようにお助けください。イエスキリストの御名によって御前にお捧げいたします。

 アーメン

(2004年5月16日 復活節第6主日 第二礼拝説教要旨)