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「ノリ・メ・タンゲレ」

石川 和夫 牧師

イエスは言われた。

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。

わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。

『わたしの父であり、あなたがたの父である方、

また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

(ヨハネによる福音書21章17節)



ティツィアーノ ≪ ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな) ≫ 1512 | 108 x 122 cm | ピッティ美術館、フィレンツェ

 ヨハネによる福音書でのイエスの復活の証人は、マグダラのマリアです。他の福音書では婦人たち、というふうになっているのですが、ヨハネによる福音書だけがマグダラのマリアというふうに扱っています。ご存知の方も多いように、彼女は七つの悪霊に侵されていたのですが、その七つの悪霊をイエスによって追い出されたといわれていますから(ルカ8:2)、イエスに出会う以前は、荒れた生活で、とても苦しい、悲しみの多い暮らしをしていたと思われるのですが、イエスによってまったく新しい生き方を与えられました。

 「ジーザス クリスト スーパースター」というロックオペラでは、女性として男性であるイエスを愛しているという見方もしていますね、そのように受け取れなくもない箇所が、今日の「ノリ・メ・タンゲレ(これはラテン語です)」です。

 週報の表紙の絵は、大変有名なティツィチアーノのノリ・メ・タンゲレという題の絵です。「ノリ・メ・タンゲレ」という題の絵は、古来いろんな画家によって描かれました。ヨハネによる福音書のこの箇所、復活の箇所は画家にとっては、想像力が刺激される、とてもインパクトのある箇所だったと思われます。

 この絵で、イエスの左手には、鍬のようなものが握られています。マグダラのマリアは復活のイエスを園丁と間違えたと書いてありますから、この絵では、イエスが、わざわざ鍬を持っていらっしゃる。そして、右足をご覧になると、釘の跡がありますね。そして全体としてとっても美しい光景です。このときは、安息日の早朝ですから、朝日がさして、木も家も朝日を受けて、全体的に希望を与える美しい絵になっています。

 この絵が指し示している「ノリ・メ・タンゲレ」(我に触れるな)と普通は言われるのですが、もっと厳密に言うと、新共同訳聖書の表現が、ニュアンスを表しているのだそうです。「私にすがりつくのはよしなさい」という表現です。「われに触れるな」というのはちょっと強い拒絶の感じですが、「私にすがりつくのはよしなさい」と言う言い方は、受け入れつつやんわり断っています。やはり、イエスとマリアが愛の関係にあるのかな、と思わせなくもない表現です。

気丈なマリア

 マグダラのマリアにとって、イエスは生き甲斐そのものでした。イエスが居るから自分の命がある、自分の命はイエスのためにささげるのだ、イエスのために生きるのだという強い思いを持って生きていたと思うのですが、そのイエスが実に無残な死を遂げた、鞭打たれ、わき腹を刺され、ひどい目にあって、挙句の果てには「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と声高く叫んで息を引き取られた、そういう姿を目の当たりにしだのです。しかし、彼女は気丈だった。イエスの遺体の後始末も一所懸命やりました。福音書によると、後始末を全部やったのが婦人たちですね、男たちはぜんぜん駄目。教会は最初から、婦人たちの力で成り立っている部分があったようです。

 このマグダラのマリアは、さらに気丈だったようです。それだけ愛が大きかったと言えるかもしれませんが。空の墓の中で、天使に声をかけられたときに、他の福音書では、婦人たちは腰を抜かすばかりにひどく恐れたと書いてあります。しかし、彼女は全然びっくりしていない。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(20:2)と、淡々と自分の目的を言います。

 彼女にとって自分の命を奉げきったイエスが亡くなられたからには、その遺体の後始末をきちんとすることが目的だったわけです。

 当時の一日の数え方は、日暮れから日暮れまでです。安息日は金曜の夜から始まって土曜日の夜に明けます。安息日に仕事は禁じられています。イエスは金曜日の午後三時に亡くなられたと言われていますので、日暮れまでの数時間で、遺体をきちんと処置するのは不可能だったのでしょう。だけど、福音書の記事で見ると、白い布でぐるぐる巻く、そこまでは出来たようです。

 しかし、それに香料を塗って腐敗を防ぐ、あるいはいやな匂いが出ないようにする作業が残ってしまいました。特に、マグダラのマリアにとっては、愛するイエスの遺体からいやな匂いが出るということは、とても我慢ができなかったのではないのでしょうか。だから、遣り残したことが、気にかかって、気にかかって。日曜日の朝が明けるのをじっと待っていた、おそらく暗いうちから待っていて、白みかけてくるとすぐにも墓に出かけて行っただろうと思われるのです。

後ろに立つイエス

 彼女には、イエスの遺体の始末をするということが、最大の関心事で、それ以外のことは何も考えていなかった。だけど、肝心の遺体が見つからない、となるとその遺体を捜すのに必死になるのは当然です。そして、園丁と錯覚をした復活のイエスに、「わたしが、あの方を引き取ります。」(21:15)とまで言っているのです。そこまで自分が全部やるぞという覚悟をしていたのです。ところが、今日のマグダラのマリアとイエスとの出会いは、とても興味深い、というのは、イエスが彼女の後ろに居たということです。

 「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(14節)

と書いてあります。彼女はイエスの遺体の処理ということだけに夢中ですから、そのことで胸がいっぱいになって、じぶんのしたいことだけを考えています。だから、自分の後ろには関心がありません。後ろから声がするから振り向いて返事を言ったのですが、それがイエスだとは気がつかなかったのです。

 二度目にイエスが、マリアと呼ばれた。これが生前のイエスとマグダラのマリアとの関係におけるあのイエスの呼び方そのものだったので、マリアは仰天します。

 死んで、居ないと思っていた方が今、目の前で生きて居て、いつものように、「マリア」と呼びかけられた。マリアは、思わずいつものように「ラボニ」と答えます(20:16)。岩波訳では、当時の発音のとおり、アラム語の表現で「ラッブーニ」となっています。「ラッブーニ」とは「ラビ」とも言います。ラビとは先生、英語で言うとサーという敬語なのです。目上の人、しかも教えてくれる人に対して使います。それが「ラッブーニ」です。彼女はそれをいつも使っていました。

 だから、出会ったときに、おそらくいつもそうしていたのでしょうが、イエスにすがりつこうとしました。これに対してイエスは、「ノリ・メ・タンゲレ(わたしに触るのはよしなさい)」と言われました。これは単に、「もう私は復活して、霊の体になったのだから、触ってはいけない」というのだったら、イエスの復活を信じないトマスに「私の脇を触ってごらん」と触らせておられるのです。だから単に「体に触っちゃいけない」という意味ではないようです。

 ヨハネによる福音書の特徴は、表現にいつも二重の意味を持たせていることです。そのときの出来事の説明ともう一つは信仰的な内容です。イエスが「わたしに触るのはよしなさい」と言われたことが、聖書学者たちにとって難解で、統一した解釈は見られません。なぜイエスがこういわれたのかはよく分からないとされているのですが、私は、「考え方を切り替えなさい」と言っておられるのではないかと受け止めます。今までと同じではないよ。ある面で同じなのだけれども違うぞ。

 彼女は、自分の考えでいっぱいで、とにかく死体を一所懸命捜しました。しかし、ヨハネが言いたかったのは、イエスは生ける神の子だから、死ぬはずがない。それなのに、なぜ死体を捜すのか、ということです。自分の考えの枠の中の延長線で考えるな、神は、私たちの考え方の延長線におられる方ではなくて、全く別のところから、ご覧になっておられる。それがヨハネによる福音書では、「後ろに」という表現になっているのです。

ダイアモンドのいのち

 だから、見えていても見えていないということがよくあります。これが、私たちの人生の姿です。実際には、神様を見ている、イエス様を見ているのに、自分の思いに、あるいは自分の判断に囚われていて、こうでなければいけないとか、あるいはこうであるに違いないとかの思いに囚われているときに、見えなくなります。それが「私に触ることをよしなさい」という表現がしめそうとしていることではないでしょうか。

 「マリア、分かったかい」、イエスのこの言い方は、きっと優しい言い方だったと思います。「われに触れるな」と、ばしっと断るのではなくて、「よしなさい」という言い方の中で、「これから違うのだぞ、だけど、わたしの生きているように、あなたも生きるようになるよ」と。そのイエスの愛が次のすばらしい言葉となります。これはヨハネだけにあります。

「わたしの父であり、あなた方の父である方、

また、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたしは上る」。

(17節)

 イエス様と同じところに、わたしたちは帰る。「上る」という言い方は、上げられるという意味ですが、それは、死から上げられることを意味します。それを日本語では、復活すると訳しているのですが、その意味では、本来のところに帰るということです。前にも申し上げましたが、晴佐久神父の死ぬということについての考え方は、今のこの命が仮の命、胎内の命で、永遠の命が本当の命、だから、「死ぬというのは、永遠の命への誕生だ」と言っておられました。

 それと同じことです。自分の持っている「どちらが上」「どちらが下」とか「善」「悪」の価値観を超えて、神がすべて受け止めていてくださっている。そこから、もういっぺん見直して御覧なさいというのが、「わたしに触るのはよしなさい」という言葉です。拒絶されているようで、しっかり受容されている。だから、基本的には、いつも同じ関係を続けることができます。なぜならば、死んで、居なくなったのではなく、生きていらっしゃるからです。私たちにとっては、どんな命も神の前における尊い大事な、大事な命なのです。

八木重吉の詩に、

きりすと

われによみがえれば

よみがえりにあたいするもの

全ていのちをふきかえしゆくなり

うらぶれはてしわれなりしかど

あたいなき

すぎこしかたにはあらじとおもう

 キリストがわたしによみがえって下さったならば、全てのいのちが生き返ってきます。

 八木重吉の生涯は、ほんとに辛く悲しいものだったと思うのですが、しかし、「あたいなきすぎこしかたにはあらじとおもう」、無意味な過去ではなかったんだと八木重吉は言い切るのです。

 それと似たような言い方をイギリスの詩人、ホプキンスという人が次のように、言っています。

この凡夫、凡句、(平凡な人間、平凡な言葉)

 とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、

 すべては不滅のダイヤモンド

 そう、消えることのないダイヤモンドなのだ

 復活の命を見た人にとっては、すべてのものが不滅のダイヤモンドになります。

 八木重吉にとっては「あたいなき過去ではない過ぎこし方」、すべてがダイヤモンドになります。どんな人のどの命もすべてダイヤモンド。人間の価値観で言えば、八木重吉の生涯は辛くてかわいそうなもの、二十九歳で死んだということは、ほんとになんだったんだという人生かもしれない。しかし、天から見たときには、その命も限りないダイヤモンドの輝きなんだということです。そのように見る目が、私たちには与えられています。それが復活の命なのだと思うのです。

イエスが「わたしに触ることはよしなさい」とやんわり言われたことは、「考え方を切り替えなさい、私は姿を隠すけれども、あなたの命はダイヤモンドなのだよ」ということを言おうとしておられると思います。

 祈りましょう。

 聖なる御神様、今日も、わたしたちをお招きくださってありがとうございました。わたしたちは、どうしても肉体の死を恐れます。そして、死ぬことがすべての終わりだと思いがちです。けれども、主イエスキリストは、三十歳そこそこで、十字架上でもっとも悲惨な死を遂げられながら、栄光に輝く永遠の命に生きられました。私たちも同じ命の中に生かされています。どうぞ、人間の持つ限りのある見当はずれの思いから自由になって、あなたが、わたしたちに備えていてくださる、すばらしい栄光の輝きに触れていくことができるように、どうぞ、常に私たちと共にいて、聖霊によって私たちを支え、励ましてください。

 主、イエス キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(復活節第一主日、2004年イースター特別第二礼拝説教)