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石川和夫牧師   2004年2月22日姉妹教会礼拝

《 私の平和を与える 》

わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。

わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。

心を騒がせるな。おびえるな。

ヨハネ 14:27

「私の平和を与える」。これが今回の主題です。そして、今回の礼拝の式文は、シリアの教会の方々によって作られました。シリアというのは、ご存知のようにイラクのお隣です。そして、アメリカが今もっとも嫌っている国々の一つです。テロリストをかくまい、そしてテロリストを送り込む、不法の国、と言う風にアメリカに見られている国であります。

 そこにあるクリスチャンの属している教会は、恐らく私たちのここに集った教会の何処とも違う、ギリシャ正教会だと思います。このギリシャ正教会の人々が熱い祈りと期待をもって作られた式文が今、全世界に送られ、みんなが心を一つにして礼拝をし、祈っているわけです。

 私たちも今回も何度か繰り返して集まって。準備をいたしました。今回の式文は、いつもとは違うスタイルで、正直に言うと、大変丁寧で複雑なのです。お祈りもいくつも重なっていて、ちょっとくどい感じすらしたものですから、私たちは多少、プログラムに手を入れまして、これでも若干簡素化したのです。

 でも、その信仰から生み出された流れは、大事にして、このような形になりました。ギリシャ正教会の特徴は、西のカトリック教会と違って、いわゆるイコンと呼ぶ絵、キリストの絵をとっても大事にしまして、その絵を通して信仰を深めるというスタイルです。私の昔行ったことのある函館の教会では、このようなベンチや椅子がなくて、皆立ったままで、オルガンもなしに、いわゆるアカペラで賛美をする、そういう礼拝でした。

 亡くなられましたけれど、カトリックの作家の遠藤周作さんが、私たち、東洋のキリスト者は東洋のキリスト教であるギリシャ正教からもっと学ぶべきものがあるのではないか?これは同じキリスト教と言ってもギリシャ正教のもたらしてくれている信仰は、我々東洋人の肌に合うのではないか、というようなことを主張しておられたのを覚えております。ですから、今日は一層の親近感をもってこの礼拝、特にシリアのクリスチャンのことを思い起して礼拝ができますことは、本当に感謝なことです。

平和(シャローム)とは

 「私の平和を与える」と言われたこの「平和」という言葉は、ギリシャ語の「エイレイネー」という言葉の翻訳ですが、このギリシャ語の「エイレイネー」という言葉はヘブル語の「シャローム」から来ています。内容的には、大体同じ意味を持っているのですが、今もユダヤ人たちは挨拶に、この「シャローム」を使っています。会ったときに、「シャローム」、帰るときに、「シャローム」。何かがあれば、常に「シャローム」。

 この「シャローム」は言うまでもなく、平和という意味ですが、しかし私たちが考えている平和とは、ちょっと内容的に違うと思います。信仰における平和という意味があります。「新共同訳新約聖書注解書」によりますと、「あらゆる面でも完全な充足状態をあらわす」と書いてあります。「あらゆる面で全てものが満たされている」、これは言うまでもなく、「神の前で」と言うことなのです。

 「私が与える平和は、世が与えるものとは異なる」とイエスさまはおっしゃいました。神からくる平和というのは、世が与える平和とどう違うのか?

 世が与える平和は、騒ぎの原因がすっかり無くなった時に、平和がもたらされると考えます。

 キリストが与える平和は、問題が解決したから、それで、「平和だ」と言うのではなくて、問題がありつつ、神との関係において充足状態にある、ということを意味しています。

 イスラエルの首相のシャロンさんは、多分、毎日のように「シャローム」と言っているのだろうと思いますが、私は、「もう少しその本当の意味を考えてくれるといいのになあ」と思わないでは居られません。今のイラク戦争は、元を探れば、パレスチナの紛争に端を発しています。

 パレスチナのこの紛争は、どこから起こったかというと、1947年に、国連の決議によって、イスラエル共和国が建てられた時に、既に住んでいたパレスチナ人のことを何にも考えないで、ユダヤ人を世界各国からどっと送り込みました。そのことの故に、一挙にパレスチナ人が難民になりました。これで、アラブの人たちに、強烈な国連不信、国連を主導するアメリカ、イギリスに対する反感が生まれました。

 私は二十何年前に、エリコに行きましたが、エリコの郊外に無数の土で作った空き家がたくさん並んでいました。すでに、その時には難民は住んでいなかったのですが、その時期に、パレスチナ人は貧しく、物乞いをする大人や子どもによく出会いました。

 イスラエル建国以後、世界中に散らばっていたユダヤ人が続々と帰ってきて、パレスチナ人を押しのけて居住地域をどんどん広げました。アメリカは、他の国の国連決議違反はすぐに非難するのですが、イスラエルが国連決議を無視していることには、一言も言いません。

国連の取り決めでは、ヨルダン川西岸地域は、パレスチナ人の住む地域だとしているのですが、この地域にも、パレスチナ人を押しのけて、どんどんイスラエル人が入植しています。更に、ニュースでもご覧になったと思いますが、テロを防ぐためにと自分たちの居住区域に、大きなコンクリートの高い壁を張り巡らして、パレスチナ人を追いつめています。

 ですから、パレスチナ人たちと信仰を共にする他の国のイスラム教徒の人たちが、どうしても反米的にならざるを得なくなります。このように、一方的にパレスチナ人が苦難を背負わされていています。テロに訴えない限り抗議する方法が無いという状態に追い込まれています。このことを理解しない限り、本当の平和は起こりえないと思います。

聖書の読み方の違いが戦争を正当化する

 テロは許されないことです。確かに悪い。だから、この悪いテロを撲滅する意外に平和はありえない、という理由で戦っても、テロが起こる原因を残したままでは、決して平和は訪れません。

 特に、このテロに対する戦争をユダヤ教とキリスト教の信仰がバックアップしていることを私はとても心配します。

 ユダヤ教は、言うまでもなく「この土地は我々の先祖に神が与えると約束してくださった土地。だから我々のものだ。パレスチナ人は出て行け、」という論理です。

 そして、テロに対する戦争を支持するキリスト教は、恐らく、イエスさまがお住みになって、活躍されたこの地をテロで汚されてたまるか、だからこのテロを早く排除しなければいけない。そのためにはテロと戦うイスラエルを応援しなければ、と言うことだろうと思います。

 つまり、そのどちらにも共通する問題点は、聖書の読み方です。聖書を言葉だけで読み取り、今のイスラエル政府を一方的に応援しようとするキリスト教は、聖書の創世記に書かれている事柄も全部、歴史的事実で、地球ができた過程が示される真理だ。書かれている通りに信じない者は信仰者でない、という立場です。

 これは恥ずかしい話ですが、日本基督教団でも、聖書は、信仰と生活の誤り無き規範なりと教団の信仰告白で、告白していますから、聖書が一つの規範、あるいは規則だと受取られています。そうなるとその規則に合わないものは、排除されます。こういう信仰には、どうしても排除という姿勢が出てきます。口で、どんなに愛しましょうと言っても、道徳的にダメな人はダメ、テロも悪いことだから、テロリストも悪い人、だから、彼らが幾ら殺されても仕方ない、というふうになってしまうと思います。

 アメリカは、正義の味方のように振舞っていますが、私たちの国だって、かつては、アメリカのテロ行為に遭っているのです。広島、長崎の原子爆弾で、何十万という市民(非戦闘員)が死にましたし、日本中の都市に対する無差別爆撃で、どれだけの市民が殺されたか。

 私も少年時代、神戸で、自分の家に焼夷弾が落ちて焼けてしまったのですが、焼け跡に、機銃掃射の薬莢が散らばっているのを見つけました。低空飛行で飛んで、消火作業でうろうろしている人を殺すのを目的で、機銃まで撃っているのです。そういった事が悪い事だったという意識を今も全く持たないで、その攻撃の結果で、アメリカ軍の被害が減り、早く戦争を終わることが出来た。つまり、我々は正義だったのだから、やられた側は仕方無い。このような考え方がアメリカのキリスト教で正当化されています。

 私はこれは、イエスが示された平和とは、全く違うと思わないでは居られないのです。テロに対する戦争を正当化する宗教が背後にある限り、平和の達成には、大変道が遠い、パレスチナ人に対する根本的な解決なしには、平和は来ない、と思います。

 そのためには、やっぱり当事者がしっかり悔い改めて根本的に客観的な立場に立たなければなりません、だから、気が遠くなるほど、難しい問題なのですけれども、しかし、私たちは、神さまがこの戦いを望んでおられるはずがないと思います。特に神様の名前を使って戦うことが、いかに愚かであるかを神様は、ご存知だと思います。

 絶望してはなりません。このために、私たちが祈りつづける、そして望みを失わないで少しでも、できることを、どんなに小さなことでも、なし続けて行くということが、とっても大事なのではないでしょうか?

サッカーボールによる平和

 日本バプテスト連盟に、木村公一さんという牧師さんが居られます。もう大変有名ですから、ご存知の方も多いと思うのでが。昨年の早くに「どうも、イラクに戦争が起こりそうだ」という気配を察知して、いち早く人間の盾となって、バグダッドに行かれました。そして、空爆が始まったときにもバグダッドに居られたのです。そして、途中で一時帰国されました。

 バグダッドで、米軍の大変な空襲が進んでいるさなかに、子どもたちが平気でサッカーをやっているのに出会いました。彼は、そのことを次のような詩で表現しています。

サッカーを楽しむ子どもたちの彼方にバグダッドの街が見える。

いくつものオレンジ色の火の玉が上空に膨らむバグダッドの街が。

爆撃機の轟音とミサイルの爆音が大気を揺らす。

それでも子どもたちはサッカーに夢中だ。

ボクは子どもたちに尋ねた。

「アメリカ軍が空爆で君たちの街を破壊しているのに」

すると、ひとりの子どもが応えて言った。

“We love soccer, but hate war. ”

(ぼくたちはサッカーが大好きだけど戦争は嫌いだ。)

ボクはかつて

これほど過激な反戦・平和行動を見たことがなかった。

(小暮修也「望みの朝を待つときに」いのちのことば社、2004年2月1日発行、11頁)

 木村牧師は、自分の住んでいた変電所と同じ敷地内にある、電気公社の社宅に住む5人の子どもたちと遊ぶようになり、友達になりました。その中のフセン君(当時中学2年生、14歳)が木村牧師に質問を投げかけました。

「おじちゃん、おじちゃんはお金持ち?」

「君は、おじちゃんがお金持ちに見えるかい?」

「ううん、お金持ちには見えないよ。」

「じゃあ、おじちゃんがお金持ちだったらどうするの?」

「おじちゃん、ぼくたちのチームにはゴムのボールしかないんだ。ぼくたちの夢は本物のサッカーボールを蹴ることなんだ。おじちゃんがお金持ちで今度また来ることがあったら、サッカーボールを持ってきてほしいんだけど。」

「わかった。FIFAの本物のサッカーボールが届くように、努力をしてみるよ。」

 この話しを、木村牧師は,恵泉バプテスト教会での帰国報告会で紹介しました。このことを明治学院のクリスチャンの高校の先生がお聞きになって、生徒たちにそのことを話し合いました。生徒たちは早速、サッカーボールを贈る運動を始めました。自分たちで、まず、サッカーボールを30個、立て替えて買いました。そして、街頭募金も行いました。こうして買ったサッカーボールと共に、イラクの子どもたちへの手紙を木村牧師に託しました。その中には、こういう手紙もありました。

Hello! We are high school students of Japan . We hope you enjoy playing soccer, and remember us. Never give up! Go your dreams. Peace will come soon. Do your best! P.S. LOVE and PEACE.

 (こんにちは!私たちは日本の高校生です。私たちは皆さんがサッカーを楽しむことを願っていますし、そのように願う私たちがいることを覚えてきてください。決してあきらめないでください!夢を追いかけてください。平和はすぐにやってくるでしょう。最善を尽くしてください!それではまた!愛と平和がありますように)(前掲書16頁)

 サッカーボールを持って再びイラクを訪問した木村牧師は、サッカーボールを頼んだフセン君と再会します。

 「おじちゃんが『サッカーボールを届ける』と約束してくれたのは冗談だと思ってた。でも本当のことを言うと、僕は自分に『あれは冗談なんだ』って言い聞かせたんだ。でも、おじちゃんは“あの約束”を冗談にはしなかった。

 ぼくらのアラブ語に、『シュクラン』(ありがとう)という言葉があるけれど、この言葉はぼくの思いをこれっぽちも伝えてくれない。でも、言わせてもらう。おじちゃん、シュクラン!」(前掲書、17,18頁)

 このようなイラクの子どもたちとの交わりの中に確かな平和を感じ取ったと木村牧師は言っておられます。そして、イラクの子どもたちが日本の子どもたちへ渡すようにと「寄せ書き」を託しました。そこには「We want the peace in the world」。(私たちは世界が平和であることを望でます)という英語と共に、15歳のモハメット君という中学生がアラビア語で「サッカーボールをありがとう。でも兵隊さんは要りません。」とも、書いてありました。(前掲書19頁)

 簡単に、「テロをしているからいけない」と見るのではなくて、どうして、このような憎しみが生まれてしまったのか、という問題の根源をしっかり見定めながら、本当に、苦しんで困っている人たちと連帯して行く。それが私たちにとっての大事な姿勢じゃないでしょうか。

 われ等の主イエスは、約束してくださっています。聖霊が私たちに全ての事を思い起こさせて(ヨハネによる福音書14章26節)そして、世が与えるものとは違う平和を与えるよと。今、私たちはこの礼拝を通して、平和を与えられています。神様から、善しとされています。

お前たち、すべての人に、永遠の命を約束したぞ。

 こうして、主イエスさまから平和を戴いています。だから、イエスさまは、「さぁ立て、ここら出かけよう」(14章31節)とおっしゃっておられるのです。

 私たちも小さな者ですけれども、立って、出かけて、何か一つ始めたい。まず、祈る事から。そして連帯していくことをはじめる事ができたら、と願っています。

 祈ります。

 聖なる御神さま、今日もこうして、背景と立場の全く異なる三つの教会が一緒に礼拝を捧げ、そして一緒に今のイラクの戦争の問題を考え合いました。そしてイラクの人々、あるいは、その隣のシリアのクリスチャンの人々の悲しさや辛さに思いを馳せました。私たちの主キリストは平和の主です。そして敵意という中垣を取り除いてくださる方です。どうぞ、少しでも小さなところから、連帯し、支えあい、「ありがとう」と言い合う交わりが広げられて、そして確実にこの戦いを終わらせることができますように。この日にも、今もまた続いている血を流す、あるいは命を失って悲しむ人たちが増えていると思いますけれども、これ以上増えて行く事がないように導き、支えてください。特に平和のために祈り、また行動しようとしている人々の働きを祝し、一歩でも本当の平和が実現されて行くように御導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。