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神の子の保証   

(石川和夫)

  そしてヨハネは証しした。

「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

わたしはこの方をしらなかった。

しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをおつかわしになった方が

『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、

その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。

わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

     (ヨハネによる福音書一章三二〜三四節)

 「洗礼は祈りであるゆえに、またその限りにおいて、同時に極めて謙遜な行為であると共に、極めて勇敢な行為である。あらゆる幻想から自由な極めて冷静な行為であると共に、天を襲うような大胆な行為である。」

 これは、二〇世紀を代表する神学者、カール・バルトの洗礼論の締めの言葉です。洗礼は、謙遜であると共に大胆な行為である、というわけです。今日は、この謙遜で大胆な洗礼をイエスが受けられたこと、「イエスの洗礼」が主題となっています。

 古来、イエス様が洗礼を受けられる、ということについて、どうして罪のない神の子が罪の赦しを与える洗礼を受けなければならなかったのか、ということで戸惑いがありました。マタイによる福音書でも、そうです。

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(マタイによる福音書三章一三節〜一五節)

 バプテスマのヨハネが授けていた洗礼は、「罪の赦し」のしるしでした。だから、イエスに対して、遠慮したのです。ヨハネがそうしたのは、当然でした。使徒パウロは、バプテスマをキリストの死と復活にあずかって、信徒が古い人として死に、新しい生命に生きることを表現するものとしました(ローマの信徒への手紙六章三〜四節)。同時に、パウロは、個人的な新生にとどまらず、キリストのからだ、すなわち教会につながる入会式の意味も強調しました(コリントの信徒への手紙一、一二章一三節)。私自身もキリストの受洗を「罪人の仲間入り」を説明してきました。

 今回、福音書をよく読みなおしてみて、新たな発見をいたしました。洗礼とは、神の子の保証なのだ、ということです。イエスは、洗礼をお受けになることによって、ご自分が神の子であることを証しなさいました。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、イエスの洗礼において、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声があったと記録しています。

 私たちも神の子!

 イエスが全人類を代表して洗礼をお受けになることによって、全人類が「神の子」なのだということを保証されたのです。もちろん、信仰を持っているか、どうか、行いがいいか悪いかは、関わりなく、です。イエスの十字架が全人類のためであったのと同じように、イエスの受洗も全人類のためだったのです。

 今日の福音書は、ヨハネによる福音書で、共観福音書とは少し後の時代に編集された、と見られています。十年くらい遅いと言われています。ここでは、イエスの受洗の様子は書かれてなくて、ヨハネは、共観福音書で言われている、「これはわたしの愛する子」という宣言を自分は見てきた、という証しをしています。

 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。

(ヨハネによる福音書一章三四節)

 これが、ヨハネによる福音書の神学です。ヨハネによる福音書では、イエスの 洗礼 ( バプテスマ ) と十字架、復活において神の栄光が現わされ、永遠の救いが完成している、イエスは、そのために神が人となられた方なのだ、ということを主張しています。

 今日の箇所では、ヨハネが二回も「わたしはこの方を知らなかった」(三一、三三節)と言っています。「知る」という言葉は、ヨハネによる福音書では、知的に知る、頭で理解する、ということではなく、体全体で知る、人格的に、体験的に知る、という意味で使っています。ヨハネは、そういう意味において、イエスのことを知らなかった、というのです。

 そしてヨハネは証しした。

「わたしは霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

わたしはこの方を知らなかった。

しかし、水で 洗礼 ( バプテスマ ) を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、

『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、

聖霊によって 洗礼 ( バプテスマ ) を授ける人である』とわたしに言われた。

わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

(ヨハネによる福音書一章三二〜三四節)

 ヨハネが、このように述べているのは、明らかに、共観福音書のイエスの洗礼伝承を知っていた、ということを示しています。つまり、共観福音書で述べている、イエスの洗礼伝承のゆえに、イエスは、神の子なのだ、と主張しているのです。

 神様と手を握る

 これまで、キリスト教会は、このテキストで、イエスの公生涯の初めで、イエスが神の子であるということを神様が保証なさった、と受け止めてきました。イエスのことだけに重点が置かれていたように思います。しかし、イエスが洗礼をお受けになったということは、イエスご自身の出発であったのと同時に、全ての人が神の子として出発する時なのだ、ということをも意味しているのです。

 晴佐久昌英神父は、毎年、一月の第二日曜日には、成人式を迎えた二十歳の青年を招待して、祝福され、メッセージを送っておられるのですが、その時の福音書が、イエスの洗礼の箇所なのです。一昨年の成人祝福ミサで、ご自分が神父になろうと決心された経過を述べられて、イエスの洗礼のことを話しておられます。

 彼が二十歳になったとき、武蔵野美術短期大学に通っていたのですが、卒業したら、どうするのかを決めなければならなくなっていました。四年制の大学に進学するか、卒業して就職するか、就職するなら、どんな仕事をするのか、迷っていました。折悪しく、インフルエンザのような風邪にかかって、グッタリして寝ていたのです。

 「僕はこれでいいんだろうか。これから何をしていったらいいんだろうか。デザイナーも難しそうだし、教師への情熱も冷めてきちゃったし、どうしたらいいんだろう」。しまいに「僕は何をしたって無意味なんじゃないだろうか」「しょせんは何もかも無駄なんじゃないか」……そんな状況の中で僕は無意識のうちに神に向かって必死に手を伸ばしていたんだとおもうんですよね。心の手を。それで、言うなれば、握っちゃったんですよ。神様のほうから伸ばしてきている手を。それはもう、実際には生まれた時から伸ばしてくれていて、生まれた時から支えていて、生まれた時から導いてくださっていた手なんでしょうけれども、こっちからは本気で手を伸ばしたことはなかったんでしょうね。ぎゅっとその時は神様の手を握ったっていうような、つながった感じがあったのです。その時に僕は突然決心しました。「そうだ、信仰をやればいいんだ」と。強烈なインスピレーションでした。……実際、自分が「じゃあこれからどうやって生きていこうか、教師になるのか、デザイナーになるのか」なんていう時に、その選択の条件に信仰のことは別に入ってこなかったわけですから。そんな時に、「そうだ、結局自分には信仰しかない。キリスト教を本気でやろう。それが自分の一番やりたかったこと、自分が一番喜べることだ」。あの時いきなりそう気づいた。それと同時にですね、「そうだ、それなら神父になろう」と思った。不思議なことですね。だって僕はそれまでただの一度も神父になろうなんて考えたこともなかったんですよ。自分の可能性としてホントにかけらも想像したことがなかった。……

 それから先は、それまでのような傍若無人な、自分だけで好き勝手やって生きているような自己満足の世界から荒れ野に出ていったのです。僕にとって荒れ野とは神学校に入ること。まさにその荒れ野で寒い思い,痛い思いをいっぱいしながらも、でも「僕には神様とつないだ手がある」っていう、その確信で荒れ野をさまよってきたのです。神父になって十五年たってもやっぱり荒れ野のけもの道をかき分けているようなのですけれども、一人前の信仰者として揺るがずに、神様の手をしっかり握っていたい。今思えば、二十歳のあの日、あれが僕にとっての洗礼式だったのだと思います。

 いかがですか?洗礼とは、神様と手を握ることだというわけです。そしてイエス様の洗礼について、こう述べておられます。

 イエスだって、そうなんです。歩き出したら大変だっていうこと、よく分かっていますから。二十代ずっとイエスは「どうしようか。自分は神の子としてどのように生きていけばいいのだろうか。天の父は何を望んでおられるのだろうか」、ずっと、そんなふうに考えていたはずです。けれども三十歳になった頃、イエスは洗礼を受けて出発いたしました。荒れ野に向けて出発したんです。イエスもそうだった。しっかり手を伸ばして神様からの手を握りしめた瞬間があったのです。聖書によれば、その時「天が開けて、『これは私の愛する子。私の心にかなうもの』という声がした」。イエスにとってこれは生涯忘れられない出発の日。神様としっかり手を握って荒れ野に出発していく。これがイエスの洗礼の瞬間ですね。皆さんもその洗礼を受けなければなりません。

 洗礼を受けるということは、一つの資格を獲得することではありません。もうすでに伸ばして待っていてくださる神様の手を握ることなのです。それは、あなたは神の子なのだよ、という証明書に神様が判をついたことなのです。そうだと、何があっても私の子なのだよ、と神様がいつも言ってくださっているのです。そこを私たちの出発点にしましょう。洗礼は出発なのです。私たちも、イエス様と共に、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と保証されていることを大事にして、日々の荒れ野に進んで行こうではありませんか。

祈りましょう。

 聖なる御神様、イエス様が洗礼をお受けになって伝道の生涯の出発をなさったことは、イエス様にとって特別なことであっただけではなくて、イエス様がすべての人を代表して、全ての罪を負われたように、私たちにとっても大事な神の子としての出発点であったことを示してくださって、誠に、ありがとうございました。洗礼によって、あなたから誰にも代えることのできない神の子であるという保証をいただきました。まことにふさわしくない者であるにもかかわらず、いつも「私の心に適う者」と受け止め、常に共にいて、支えていてくださることを心から深く感謝申し上げます。この豊かな祝福がおのずと溢れ出て他の人にも伝えられますように、常に豊かな祝福のうちにおいてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

(二〇〇四年一月一一日、降誕節第三主日、第二礼拝説教要旨)、