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「信仰の完成者」

石川 和夫牧師

 こういうわけで、わたしたちもまた、

このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、

すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、

自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

(ヘブライ人への手紙12章1,2節)


 今日の主題は、「天国に市民権を持つ者」です。この、「天国に市民権を持つ者」というふうに言われると、これまでだったら、それはクリスチャンだけの特権と考えられがちだったと思うのです。そして、それは、なかなか難しいく、天国で市民権を持つことができるようになるのには、きちんと神様の御言葉を聞いて、ふさわしい行いをして…というふうな、条件があったようなイメージがあります。

 しかし、本当はそうではなくて、神様は、全ての人をお創りになって、そして全ての人に、天国の市民権を与えていてくださる。だけど、人は、生まれながらにして、そのことをしっかりと受け止めていない、知らない、ですから、生きている間が一番大切、死んだら全てが終わり、という考え方になってしまって、そこに、利己主義が入ります。つまり、これが人間の罪ということですね。人間だけに、善悪の知識がありますから、こういうのが良くて、こういうのが悪い、というふうに分けてしまいがちですが、そうではなくて、神様は全ての自然を愛し、守っておられるように、全ての人を愛しておられる。だけど、そのことを人間は、自分たちの善悪の知識で、こういう人でなきゃだめ、みたいに受け止めてしまいがちでした。

 今日の中心のテキストは、ヘブライ人への手紙の11章32節以下ですけれども、11章では、旧約聖書の、いろいろの信仰者の話がずっと述べられて、さらに、今日の32節以下では、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、これは今日の旧約の日課にありました士師記に登場してくる士師たちです。士師という言葉も漢語聖書から直輸入した聖書独特の言葉です。日本語で、普通は、通じない言葉ですね。つまり、イスラエルを治める者、ということなんのすが、親子代々の王、世襲制の王ではなくて、臨時に王の役をする人たちのことを士師と言ったのです。

 王制への熱い期待

 イスラエルで、昔は、「裁く」ということが王の大事な仕事でした。つまり、最高裁判所長官の役があったのです。町の門というところで、王が立って、いろんな訴えを聞いて、それを公平に裁かねばならなかった。だから、士師のことを裁き人とも言っています。外敵が攻めて来ると、士師が出現して、各部族に呼びかけて兵を集めて、外敵と戦い、国内的には、裁判を行いましたが、度重なる外敵の侵略に対する戦いを繰り返すうちに、やっぱり臨時の王では、どうもだめだ、という風潮ができて、決まった王がいて、常備軍が欲しいという願望が大きくなりました。

 つまり、士師は臨時の王ですから、常備軍がないです。だから、外敵の侵略があるたびに、各部族から集めた臨時の軍隊の連合軍司令官の役目もしなくてはならなかった。だけど、周辺の諸国では、もうすでに王制をひいていましたから、自分たちも世襲制の王を持とうという風潮が高まってきました。今日の士師記でも、キデオンがみんなに、是非、王になって、あなたのお子さんも王になってください、と言われたときに、それを断っているのです。イスラエルでは、昔から基本的に、本当に我々を治めるのは、神様しかいない。王が立つと大体ろくなことにならない、ということをよく知っていました。

 ですから、信仰的な建前で言えば、王を立てたくなかったのですが、周囲の情勢の変化で、結局、王制に移行します。ダビデが統一王国を築いたのが紀元前1000年ですが、それから約400年後には、完全に、王国は滅びます。

すべての人の信仰の完成者

 今日のヘブライ人への手紙では、その歴史の中で、いろんな人が、信仰を持って、いろんな経験をし、成功した人もいれば、無残な死に方をした人もいることを伝えています。その39節で、

「ところで、この人たちはすべてその信仰のゆえに神に認められながらも約束されたものを手に入れませんでした。」

と言っています。

 このヘブライ人への手紙の著者は、イエス・キリストが、全ての人、つまり、キリスト以前に亡くなった人たちにおいても救い主なのだ、だから、このイエス・キリストが人間の救いの完成者なのという考え方を持っていたのですね。イエス様は、どんな人も全て救われるんだよ、ということをしっかりお示しになった。で、その当時のユダヤ教は、神との約束を守っている人でなければ救われないっていう考え方でしたから、それで真っ向から対立したんですね。

 ヘブライ人への手紙では、そのあと40節で、

 「神はわたしたちのために、さらにまさったものを計画してくださったので、

わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」

と言っています。つまり、この旧約の人たちはイエス・キリストを知らなかった、だけど、神は、イエス・キリストにおいて全ての人を救っていてくださる。それを、旧約時代の人たちは知らなかったけれど、自分たちがそのことをしっかり受け止めて、キリストこそが全ての人の信仰を完成する方なのだ、という信仰に立ったんです。で、

 「こういうわけで、わたしたちもまた、

このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、

全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、

自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(12章1節)

 ここで、おびただしい証人の群れに、の「群れ」と訳されている言葉は「雲」ということをも意味したのです。雲のようにと、前の口語訳の聖書には、そのような表現がありましたね。雲のように、証人がいっぱいいる。そして、それらの人たちに囲まれているのだから、私たちもいろんな重荷とか絡みつく罪、いろんな誘惑とかそういうものをかなぐり捨てて、そして、定められている競走を忍耐強く走り抜こうではないか、ゴールは決まっている、だから大事なことは、走り抜くことだ、その時に、信仰の創始者また完成者である、イエスを見つめながら。私たちはわからなくなる時には、いつもこのイエス・キリストを見つめる。そしてそれを確かめるところが、教会の礼拝なのです。

葉っぱのフレディ

 しばらく前ですけれども、「葉っぱのフレディ」という絵本が出ました。もう、ベストセラーですね、随分たくさん発行されたわけですが、私が持っているのは1999年6月の物なのですが、すでに第16刷ですね。で、この「葉っぱのフレディ」っていうのは、一つの葉っぱを主人公にして、その葉っぱが秋になって美しく紅葉し、冬になって、枯れて落ちる、これを人生にたとえたんですね。

 葉っぱのフレディは、ダニエルという物知りの葉っぱにいろんなことを教えてもらう。私は、読んでるときに、このダニエルさんがイエス・キリストだったな、と思えたんですね。そして、フレディが、だんだん秋になって、紅葉になって、その紅葉もみんなどの葉っぱも全部違う。色も違えば、形もみんな違う。その前に、緑の時の葉っぱが、みんな違うなぁ。だけど、秋になって、強い風が吹いてきて、葉っぱが落ちようになると、寂しくなってきて、これから新しいところに引っ越すんだよ、とダニエルに教えられる。

 「ということは、死ぬこと?」「そうだよ。」すると、「それは怖いなぁ・・」とフレディが言う。

 「そう、経験したことがないからね、だからとても怖いかもしれないけれど、死ぬことっていうのは、変わることの一つなんだよ。」

と教えるんです。つまり、「春から夏に変わった、その時君は怖かったかい?夏から秋に変わった、それも怖かったかい?」

 死ぬことが変わることの一つなんだと教えるんですね。そして、最後に、ダニエルとフレディの二枚だけが残って、ダニエルが、先に落ちていくわけです。ダニエルが落ちる前に、自分は生まれてきて良かったのだろうかと迷っているフレディに、

 「思い出してごらん、夏には、日陰を作って、秋にも、きれいに紅葉したこの木を見て、みんなが喜んだんだよ。そして、この命は永遠なんだ」と教えます。

 「いつかは死ぬさ、でも命は永遠に生きているんだよ。」

 それは一つ一つの命が連鎖して互いに繋がっている。ひとつの死が他の命を生かす。それが、自然の命の連鎖です。

 フレディも冬、雪が積もったとき、最後の一枚になってふんわりその雪の上に落ちるんですね。そして、ダニエルの言葉を思い出しながら、静かに眠った。最後のところに、こういうふうに書いてあるんです。

「フレディは知らなかったのですが、冬が終わると春が来て、雪は溶け、水になり、枯葉のフレディはその水に混じり土に溶け込んで、木を育てる力になるのです。命は土や木や根の中の目には見えないところで新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は寸分の狂いもなく命を変化させ続けているのです。」

天国の証人として

 だから私たちはすでに、その永遠の命に与っているものそれが天国という意味ですね。そして、一人一人、役目が違うけれども、神様が意味があってお創りくださった以上、私たちの命が無駄になるということは決してない、そして、後に生かされていく。自然の物は、自然に還っていく。人間はそうではないけれども、生きた存在において、またいろんな人に、命が受け継がれていく。だから、そういうことをあまり、意味があったとか、なかったとか考えないで、神様が全てを生かして下さっているということを受け止めること。この人類の歴史の中で意味があるかないかという点では、最も無意味に死なれたのが、イエス・キリストです。弟子たちに裏切られ、そして、最後に神様に呼びかけても応えもいただけないままで、死んだ。だから、意味があるかないか、ということは、創造者である神の目から見る以外に、誰もほんとうの意味はわからないだろう。そして、その神に死ぬまで従順であられたイエス・キリストは、復活して、全ての人の救い主として、全ての人の命を輝かせるようになったのですね。

 高幡教会におられた晴佐久神父が、高円寺教会に移られる前に、最後の挨拶の文章を残しておられるのですが、そこに、「天国の証人として」と書いています。

 教会は秘蹟です。神様が特別にご自分の愛と栄光を現されているところです。すなわち、信じるものにとってそこは天国なのです。そして、自ら今ここの天国を生きることで、天国の証人となることこそが司祭の存在意義だと信じているからです。

 教会に生活していても、いいこともあり、悪いこともあるかもしれない、でも、ここが天国なのだから、いつも礼拝を通して、礼拝そのものが天国の一端だと受け止めて、私たちも同じように、天国の証人である。それは、彼の言い方「今、ここの天国」とありますが、今、ここ、・・過去じゃない。未来でもなくて、今ここにいる、それが天国なんだという思いを常に持ち続けていくときに、それが自ずとまた人々に天国を証することに繋がるだろう、だから、私たちも、そういう意味で、天国の証人としてキリストに召されている。他の人より特別優れているのじゃなくて、フレディが一番最後に残ったけれど、それはそれで、先に落ちた葉っぱが無意味だったというのではなくて。だから、雲のような証人に囲まれているけれども、私たちはそれぞれ与えられた命を、今ここを一番大事にして、喜んで、感謝して生き抜いていきたい、と願うのです。

 祈りましょう。

 天のお父様、今日もお招きいただきありがとうございました。いろんな嫌なニュースばかりに囲まれてしまいますから、つい希望を失いがちになったり、あるいは、絶望的になりがちでした。でも、ありがとうございます、あなたは、永遠の命に私たちが、今生きていることをはっきりお示しくださいました。どうぞ、限りあるというふうに受け止められがちですけれども、そうではなくて、常に永遠の命を生かされている、そのうれしさを、喜びを、人々に、自然に伝えていくことができるほどに、いつも希望と喜びの中においてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン