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「無関心の罪」

石川 和夫牧師

『災いだ、シオンに安住し

サマリヤの山で安逸をむさぼる者らは。

お前たちは象牙の寝台に横たわり

長椅子に寝そべり

羊の群れから小羊を取り

牛舎から子牛を取って宴を開き

竪琴の音に合わせて歌に興じ

ダビデのように楽器を考え出す。

大杯でぶどう酒を飲み

最高の香油を身に注ぐ。

しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。』

(アモス6:1、4〜6)


 今日の旧約の日課のアモス書、アモスの預言です。これは今から約2700年前、南北に分裂している北イスラエルのヤロブアム2世という王様の時代。この時代は東側のメソポタミア地方の大国と西のエジプトのどちらもが、国内のごたごたでよその国に向かって侵略するということがなかったので、ちょうど間に挟まれた、小さい国のイスラエルとユダはしばらくの平和を楽しみ、そして、高度経済成長に酔っていました。ちょうど、バブルの時代ですね。ですから、ここに「象牙の寝台に横たわり、長椅子に寝そべり」なんていう言葉があります。この長椅子も「ダマスコの長椅子」という当時の流行のすごく高級な長いすがあったみたいですね。ですから、そういう流行のものでそしてみんなで楽しく暮らしていたんです。

 それは、ちょっと見れば、とても幸せそうに見える図なのですけれど、しかし、アモスは「災いだ」というふうに言いました。で、このままでは、自分たちの国が滅びるかもしれないのに、のんきにしている。なぜ災いかというと、貧しいものを全く無視している。無視しているどころではなくて、貧しいものが、更に、貧しくなるように、いわば、足蹴にして、彼らを踏み台にして自分たちが儲けている、というわけですね。そのことを、とても厳しく糾弾している。

 なぜならば、創り主である神様が、そういう無視されている人たちのことを、とても心配していらっしゃるからなんです。誰か、あの者たちを助ける者はいないのか、という、そのことを受け止めた預言者が、このような厳しい言い方をしたのですね。

 そして、今日の福音書は、金持ちとラザロのところで、そして、これはイエス様のたとえ話なんですが、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていたという。紫の衣というのは、当時の最高級品ですね。そして、彼の家の門前に、ラザロという、できものだらけの貧しい人が横たわっていた。この人は、せめてこの金持ちの家のそばにいると残り物でも食べていけるんじゃないか、そういう情けない思いでそこにいた。しかも、犬もやってきては、そのできものを舐めた、と書いてある、聖書では犬というのは大変軽蔑されています。で、犬に食われるというのは最低のみじめさなんですね、ですから、全身にできものができた上に、犬に舐められて、それを追い返すこともできないほどにみじめだったというわけです。

死後は、信仰と関係ない?

 ところが、話変わって、二人とも亡くなった時に、ラザロはアブラハムの懐にいて、金持ちは黄泉の熱い火の中に置かれていたというのです。つまり、これが今日の主題である、「無関心の罪」。この金持ちは特別悪いことをしたわけではないのですね。道徳的、あるいは法律的には何も悪いことをしていない。よく言いますよね、自分で儲けたものを自分が好きなように使って何が悪い、これですよね。ですから、何も悪いと思っていなかったのが、亡くなったら、熱い、熱い黄泉に放り込まれている。そして、ラザロの方は、それじゃあ、信仰があったのか、というと何もそのことについては書いていない。どころか、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだ、と思うぐらい落ちぶれ果てている、そういう状態なんだけれども、神様はそのようなラザロを天国に入れてくださって、そして、金持ちが苦しい目に遭っている。

 これも、先ほど言いましたように、神様は、この地上で不当に苦しめられ、差別されている者に、特別に目をかけておられる、その現れですね。だから、イエス様の、あの最後の審判の譬えでも、そういう状態にある人のことを、これらの最も小さい者というふうに言われました。「これらの最も小さい者の一人にしたことは私にしたのだ。しなかったのは、私にしなかった。」というふうに言われています(マタイ25:31〜46)。

 つまり、私たちは、今、こうして礼拝する時に、神様が本当に気にしていらっしゃるのは、不当にいじめられ、差別され、苦しみの中にある人を誰かが助けないか、助けてくれないかというそのことを忘れてはならないのです。

 ですから、信仰を持つということは神様のその愛に触れて、「わかりました!」と言って、神様の手助けをする、ということだと思うのです。今日の中心テキストであるヤコブの手紙もやはり、人を分け隔てしてはならないという中見出しが付けられているのですが、その中で2章の5節、

 「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、

信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、

受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。

富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、

裁判所に引っ張って行くではありませんか。」

 ここに、「だが、あなたがたは貧しい人を辱めた。」と書かれています。この前のところを見ると、立派な身なりをした人をみると、どうぞ、どうぞ、こちらへ、と上席に案内して、身なりの貧しい人にはあなたの席はこっちだよ、というふうにして差別をした。そして辱めた。そのことを、ヤコブが糾弾しているわけです。

信じているから、大丈夫、ではない

 この、ヤコブの手紙というのは、イエス様の弟にヤコブという人がいまして、ペテロと共に、エルサレム教会の中心人物の一人でした。そのヤコブの名前をとった手紙、だけど、中身はパウロのあの、「人は信仰のみによって救われる」というメッセージを曲解した人たちが、「もう神様を信じているのだから、何もしないでいいのだ」と後は好きなように暮らそう、というふうにする人たちが出てきた、それに対する警告、だから、行いがない信仰なんていうのはないんだよ、ということを言っています。

 パウロのそういった信仰がかなり浸透した時代だから、イエス様の弟のヤコブが生きている時代ではないのです。中身を見ても、どうしても1世紀の終わり頃だろう、だから、ヤコブの名前を借りた手紙だというふうに言われているわけですね。結局、ヤコブの手紙は初めから終わりまで、倫理的な薦めに終始しているのですけれども、確かに、何もしないでいるということは、ヤコブから見ても責めるに値することなのですね。つまり、無関心だということ。よく言います、愛の反対は憎しみじゃなくて無関心だと言います。気にもかけない。そして、私たちは、ともすれば道徳的、法律的に悪いことをしなければ、悪くはないのだという意識に捕らわれて、つい自分たちのことだけにかまけがちになるわけですが、神様に救いを頂いたものは、やはり、神様の心を痛いほど受け止めて、そして、少しでも、その方向に向かって動きたい、という思いで、神様救ってくださってありがとうございました、と言い表すのが、信仰なのです。

 つまり、信じているだけで、信じているから大丈夫だというのは、神様を冒涜していることになるのです。神様が一人子を下さって、私たちを愛してくださったのに、ぼんやりして、何にもできていない、これは神様の方から、ご覧になったときに、おいおいどうした、というふうに言われるわけです。

 だから、私たちは少なくとも、そういう人たちに対して、心を向けている、礼拝でいつも、そう人たちの事の為に祈る。その祈りの時に、そうだ、アフリカでも、今、苦しんでいる人がいるのだな、イラクでも大変な人たちがいるな、アフガンが、そうだ、いろいろなところで、そして、国内にだって、傷つけられ、苦しめられている人たちがいる、そして、それらの人を神様がとても心配していらっしゃるだろうな、という思いを巡らさなくてはならないと思うのです。


最大の罪

 犬養道子さんという人が「人間の大地」という本を出されました。そして、地球での貧富の差の問題を、いろんな実例をあげて、ご自分が実際そういうところに行かれて、そして、そのレポートを兼ねて、告発していらっしゃるのですが、その「人間の大地」の第二部に「渇く大地」という本を書いていらっしゃいます。中央公論社から出されていますが、出された時期が1989年といいますから、今から14年まえです。バブルがはじけそうになっている時代だろうと思います。その中で、犬養さんはこんなことを書かれています。

 「ここ数年、日本にちょっと帰るたびに、嫌でも目に着くのが、金、ダイヤ」。この金とダイヤの産地が、南アフリカなのですが、南アフリカはその当時、アパルトヘイトでした。だから、世界各国がアパルトヘイトをやめるように、というので、経済封鎖をしているのだけど、日本の商人たちはそういうのを無視して、もうけるために、どんどんそちらから買う。そして、売るために、コマーシャルを出し、ダイヤ、プラチナなどの装身具を売る。日本よりけた違いに、アクセサリーを好み、使うヨーロッパの国、富んでいる国では、大半の婦人たちが、婚約指輪にもプラチナ、金、ダイヤをボイコットしている、というのに・・。

 つまり、南アフリカに対する、経済制裁に協力する若い女性たちが増えているというのに、日本に帰って来てみると、街に溢れるようなダイヤやアクセサリー、貴金属類のコマーシャル。そして、みんなが、ブランド、ブランドと言って、寄り集まっている、それは今も変わりがないですね。だから、銀座辺りの一等地に、世界のブランドの会社がどんどんやってくる、日本ほどいいお客さんはない、と見られているそうですが、それがとても情けない、というふうに書いておられます。

 そして、彼女は、その当時のモザンピークの内戦の悲惨さをつぶさに体験されるのですが、いわゆる武装族軍が、秩序をみんな壊してしまう、その為には、人々を根絶やしにしてしまう必要があるというので、6歳以下の子供をみんな狙い打ちにしていくということも書いていらっしゃるのですが、そのモザンピークのことをこういうふうに言ってらっしゃいます。

 「アウシュビッツに次ぐ『虐殺の地』とモザンピークが呼ばれるようになってしまった現状を見よ!

 が――私は告白しなければならぬ。同じ黄色の肌の、同じアジアの、朝鮮や中国に、『日本が過去何をしたか』すら記憶の中でとっくに『風化し』(風化させられ?)、同じアジアの難民に対しても、驚愕に値する冷淡さを示し続けて、大学志向の難民青年男女に入学金100万円を要求し、スカラシップも出さぬような、『難民が大学?贅沢な』とつぶやくような日本の善良なる市民たちに、たいした期待はできないのではないかという、深い悲しみに満ちた予感が、体験にのっとって私の心中にあることを。」

というふうに言ってらっしゃいます。そうすると、私は、つくづく日本では、本当に客観的に、大事なことが報道されていない、これはやっぱり、マスコミの責任でもあるな、と思うのです。何を基準に報道するのかという、その基準が甘いという気がします。世界中の危機、あるいは人々の貧困ということについて、無関心でいてはいけない、というスタンダードに立たないといけないのだけれど、視聴率を取る為に、ということだけで、ニュースを選んでいるようにも見えます。だから、私たちがそういう中に住んでいる時に、本当に神経を研ぎ澄まして、いなければ、とんでもないと、神様にお叱りをいただくことになるのではないかと思うのです。

 お祈りしましょう。

 天のお父様、今日も礼拝にお招きくださって、ありがとうございました。

 今、世界中は本当に病んでいます。そして私たちの国は、強いアメリカにべったりで、また、そのアメリカを手伝うことに一生懸命になっています。私たちが本当に、弱い立場におかれた人々に対して、少しでも手を差し伸べていくことができるために、私たちの心をいつもあなたに向けさせてください。そして、またこの国が、さらに貧しい、弱る人々を作り出すようなことをすることを、少しでも止める働きを私たちが、続けていくことができるように、お助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

(2003年10月12日、聖霊降臨節第19主日、第二礼拝説教)