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 「内にあるキリストの真実」

 石川 和夫牧師

 わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。

このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。

(コリントの信徒への手紙二、一一・一〇)

 今日の中心テキストは、コリントの信徒への手紙二、一一章七節から一五節です。ここをわたしは何度も読みました。正直言って、あんまり感動しませんでした。それどころか、感じが悪いのです。パウロが威張っているようですし、一一章一節の

 わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。

という言い方も、いかにも恩着せがましくて、いやな感じです。そして、今日の箇所、七節でも、あなたがたを高めるために、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。

 いかにも、もってまわったような言い方も率直に言って、ちょっといやな感じです。でも、待てよ、もっと感動的な言葉があるはずだ、と思いなおして、もう一度読み直したのですが、終わりまでこんな調子です。困りました。これでは、説教が出来ません。何度目か読み直しているうちに、示されたパウロの言葉があります。一〇節の

 わたしのうちにあるキリストの真実にかけて言います。

という言葉に眼が留まりました。何かパウロは自慢話を述べているようなのですが、 このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。という風に。ここで言う、「アカイア地方」というのは、コリントの町が属している州の名前です。ちなみに、九節の

 マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。

のマケドニア州は、パウロがヨーロッパに渡って最初に、劇的な出来事を通して生まれた、フィリピの教会のことを指していると思います。フィリピの教会は、フィリピの信徒への手紙で分かるように、パウロとは大変親密な関係で、ずっとパウロを物心両面から支え続けました。

 パウロは、コリントの教会には、一切迷惑を掛けていないと言っているかと思うと、フィリピの教会の人々には、あなたがたほどよく面倒を見てくれる人はいません、とほめ言葉を使っています。相手によって使い分けをしているみたいです。

 パウロの弁明

 とにかく、今日のテキストは、パウロの弁明に終始しています。ということは、パウロのことを悪く言う人たちがいた、ということです。それは当たり前だと思います。パウロは、自分は、キリストに選ばれた使徒だといいました。使徒というのは、生前のキリストに直接選ばれて任命されたキリストの弟子のこと、厳密にいいますと、十二使徒のことを言います。

 パウロは、復活のキリストに任命された、と称したのですから、疑いをかけられても仕方がなかったわけです。しかも、そのパウロが、本来の使徒を批判し、その教えが間違っているなどと主張したのですから、十二使徒から悪く思われても不思議ではありません。

 パウロは、コリント教会に宛てた手紙の中でも、一一章五節で、

 あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。

と言っています。この大使徒たちというのは、エルサレム教会の中心的な指導者、ペトロとか、イエスの弟のヤコブなどを指していると思われます。つまり、イエスの直弟子たちですから、イエス様の生前の言葉や行動の証人でもあるわけですが、その彼らと比べても引けを取らない、と言ったのですから、聞きようによっては、何を生意気な事を言うか、ということになります。

 言ってみれば、キリスト教の本家が、エルサレム教会であるのに、そちらのほうがおかしいと主張したのですから、批判や非難が集まっても不思議ではありません。しかも、自分は、復活のキリストに直接任命された使徒だと称したのですから、あれは、自分で勝手に言っているインチキ使徒だという批難があり、コリントの教会でも、それもそうだな、という雰囲気があったのでしょう。パウロは弁明せざるを得なかったのです。

 その当時は、現代のように、牧師や司祭が一つの教会に定住しているのではなく、いろいろな教師が巡回して、説教をしていたのですから、多種多様な教えを耳にすることになるわけです。時には、エルサレム教会からの「大使徒」たちも来たのでしょう。

 パウロが、こんなに激しく反発したのは、自分の事が悪く言われたからではなく、自分が見いだした無条件の福音の真理、命を賭けても守らなければならない平和と自由が、消えてしまって、ユダヤ教とあまり変わらない条件付の福音となってしまいそうだったからに他なりません。

 使徒言行録にも、パウロの書いたガラテヤの信徒への手紙にも、パウロがエルサレム教会とは縁を切って伝道したことが明らかにされています。そして、歴史が示しているように、結局、キリスト教信仰の主流は、パウロの信仰、神学となったのです。

 パウロが、誤解や非難を恐れないで、断固として主張し続けることができたのは、一〇節の、

 わたしのうちにあるキリストの真実に賭けて言います。

と表現されているように、単なる自己の主張へのこだわりではなく、内にあるキリストの真実によったのです。パウロの説得力の根源は、このキリストの真実にあったのです。だから、だれに何と言われようと断固として言うべきことは言い続けることが出来たのです。

 

 永山教会誕生の背景

 今日の礼拝は、わたしたちの教会の創立記念礼拝です。 どの教会も究極の創立者は、はじめに天地を創造された神ご自身であり、教会のかしらであるキリストにほかなりませんが、それぞれの教会の歴史において、人間の出来事が神に生かされて教会が生まれることになります。

 その意味では、私たちの教会の創立は、毎年申し上げているように、四十三歳で、この地上を去った一人の若い牧師の死が出発点になります。四十三歳で、育ち盛りの子どもを四人残して亡くなられたのですから、残された方たちにとっては、どうしていいか分からなくなる真暗な絶望的な出来事でした。

 その人、野口重光牧師が敗戦後間もなく、ご自分の故郷、北海道、北見の置戸という町で伝道を始めます。わたしも一九五四年、昭和二九年から、北海道、苫小牧市で開拓伝道を始めましたが、その数年前から野口牧師は伝道を始めておられたのです。

 あの敗戦の混乱期にクリスチャンになった人たちには、大なり小なりにあった傾向ですが、あの混乱した日本をキリスト教によって復興したい、という意気込みがあったように思います。

 わたしも一九五三年、昭和二三年の二月、高校二年の三学期にアルバイトで、衆議院議員選挙を一ヶ月間、手伝いました。高知県中を一台の車で、五人のチームで廻り、朝から晩まで各地で演説しました。わたしも候補者の前座の前座で、街頭でも集会場でも演説しました。今から考えると、説教の予行演習をしていたことになります。

 この候補が、結局は、次点で落選したのですが、クリスチャンだったのです。この人に、「きみ、これから日本を救うのはキリスト教だぞ」と言われたのがきっかけで、教会に行くようになります。

 そして、初めて教会へ行って四回目に、もう洗礼を受け、翌年の春には、同志社大学の神学部に入学します。

 洗礼を受けるとき、みんなの前で、なぜ、洗礼を受けるようになったかを発表しなければならなかったのですが、何も分からなかったのに、偉そうにクリスチャンになって、日本を救いたい、みたいな、生意気なことを言ったのを覚えています。

 野口牧師も敗戦後の混乱期に、故郷の置戸で信仰を持たれ、農村伝道新学校に入学されます。大変な苦労を重ねて勉学を続けられたのですが、事態がよくならなくて、真剣に祈られた事をご自分で語っておられます。

 しかし、敗戦後の日本は、当時の誰もが経験したとおり、貧しく厳しいものでした。食糧難による生命の不安、倫理も道徳も地に落ちて、混乱を極めた社会情勢など、神学校で学びながらも、焦燥のあまり私は祈りました。

 「神よ、この敗戦国日本に住む私たちを、お救いください。あなたはどこを向いておられるのですか。この苦しみをどう理解せよと仰せられるのですか」(野口京子編著「人生涙多けれど」椋の木社、一九八七年七月三〇日、初版、五九頁)

 こういう気持ちを当時の若いクリスチャンは、持っていたと思います。私も学生時代は、不良神学生でしたが、卒業すると、まるで天使のように生まれ変わり、若さと情熱に任せて、懸命に伝道に励みました。文字通り、禁酒禁煙のカチカチのマジメ牧師を七年ほどやりました。

 苫小牧での開拓伝道は、最初、順調でした。宣教師がすぐ隣に住んでいて、いろんな形で助けてもらい、春秋二回の特別伝道集会も成功して、約束の五年以内で自給教会になれそうでした。しかし、四年目に、王子製紙の大ストライキが起こり、教会員も二分して、たちまち衰退の道をたどり始めました。

 しかし、ある祈祷会のときに、一番最初から協力してくれていた教会員から、

 「先生、この教会は、路傍伝道で始まったのだから、また、路傍伝道から始めましょう」

と言われて、元気を取り戻し、家庭集会とキリスト教十講(今ののびのび講座の原型)で、教会も元気を取り戻し、五年目に会堂を建て、幼稚園も開設、五年で自給教会となることが出来ました。

 内にあるキリストの真実とは

 しかし、時代は変わり、敗戦後、間もなく六〇年を迎えようとするこの時代は、キリスト教も沈滞ムードに入って、何とはなしに、元気を失っています。

 でも、教会が存続し続けているのは、パウロの言う「キリストの真実」が生き続けているからです。その「キリストの真実」によって生きている信徒が全身全霊で礼拝を守っているからなのだ、ということを忘れてはなりません。

 教会の歴史においては、どの時代が全盛期、どの時代が衰退期ときっちり分けて評価してはならない、と思うのです。なぜならば、教会の主は、ご自分の民の滅亡に等しい「バビロン捕囚」をも生かして、旧約聖書を生み出し、復活の信仰を起こされる方だからです。成功、失敗という価値観で歴史を見てはなりません。

 大切なことは、そのようなときに神が何をなさったかを見いだすことです。

 野口重光牧師が亡くなられて、当時の北海教区では、既に天に帰られた中嶋正昭牧師を中心として、野口牧師遺児育英基金の募金が行われ、それが、「信徒の友」で、「町葬になった牧師」と題して紹介されて、かなりの募金が集まりました。

 それを唯、自分たちの事だけに用いてはならないとお考えになった野口牧師夫人、京子さんが、ご自分の故郷の日野にお帰りになって、当時始まった多摩ニュータウンの開発にあわせて、弟の中嶋博さんの協力を得て永山の地に、ゆりのき保育園を開かれました。一九七一年春のことです。

 その二年後に、最初の卒園児たちを中心にした日曜学校が盛んになり、その奉仕者たちが、自分たちの主日礼拝を守るようになって、永山伝道所が開かれ、それが認可されたのが、一九七四年九月一九日で、この日が、永山教会の創立記念日となりました。

 野口牧師は、先ほどの信仰の危機のときに、パウロとシラスがフィリピの牢獄に捕らえられたときの事を思い起こされます。

 パウロとシラスが小アジアでの伝道の道が閉ざされたため、こと志に反して、当時、ヨーロッパの玄関口であったトロアスから、新たな決心をして、ヨーロッパのマケドニア半島に渡ります。その最初の伝道地がフィリピだったのですが、ちょっとしたことで捕らえられ、鉄の鎖につながれて、フィリピの牢獄で夜を迎えます。

 真夜中、二人が祈り、賛美している最中に、大地震が起こり、牢獄が崩れ、囚人たちが脱走しそうになって、獄吏が自殺しかけるのですが、パウロは、それを止め、暴動も脱走も起こらず、無事に治まりました。それがきっかけで、獄吏一家が洗礼を受け、フィリピの教会が誕生しました。(使徒言行録一六章一一節〜四〇節)

 このことを思い起こして、野口牧師は、こう言っています。

 「この牢獄にも等しい私の生も、神の知り給うところ、すべてみ心のままにお導きください。素直に従わせてください」

と心静かに祈れるようになりました。そして、次第に心身の傷は癒されて、また新たな「生きぬく力」が与えられたのでした。

 信仰による「生きぬく力」、それはあくなき闘志を湧きたたせて勝利を得、自我を拡充し、世の支配者となることを指しているのではありません。まったくその反対です。自我を捨て、キリストの内在によって、パウロの言うように

 「生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストがわたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ二・二〇)

 この信仰に生きることです。(前掲書、五九,六〇頁)

 パウロの言う「わたしの内にあるキリストの真実」とは、まさに、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」ということです。

 だから、誰が褒めようが、貶そうがあまり問題にはなりません。何よりもキリストによって、一人でも多くの人が自由になって、見当違いな方向で生きて欲しくない、というのが、今日のパウロの願いです。

 わたしたちの内にあるキリストの真実、それが、この教会を支え、私たち一人一人を支えている事を常に心に留めましょう。

(二〇〇三年九月一四日、聖霊降臨節第一五主日、創立記念日、第二礼拝の説教要旨)