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見限らない

石川 和夫牧師

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、

“霊”に導かれて生きているあなたがたは、

そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。

あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

(ガラテヤの信徒への手紙6章1〜10節)

  最近、ケセン語新約聖書マタイによる福音書というのが、出版されました。これが、大変話題になって、NHKの「心の時代」にも二回取り上げられ、また、大きな新聞の書評欄にも取り上げられていました。私も興味を持っていたのですが、ちょっと高いのです。6000円で、CDも付いています。でも、見てみたいとは思ったのですが、ケセン語と言われると、自分にちょっと理解不可能かなっていうこともあって、敬遠していました。

  最近、キリスト新聞社から、そのケセン語新約聖書を出したお医者さんの山浦 玄嗣 ( はるつぐ ) 先生、の「ふるさとのイエス」という題の本が出されました。そのサブタイトルが、「ケセン語訳聖書から見えてきたもの」です。この本なら買い易いので、買って、早速読み始めてみましたら、驚きました。

 「今、私たちが読んでいる、この新共同訳聖書は、聖書の本当に言いたいとしているところを表現していないのではないか」、という疑問も持たれた、というのです。いろんな部分について、「これは、ヨーロッパ的な感覚での翻訳だな」とお感じになられた。「だから、日本人になかなかピッタリ来ないのだ」と思われたのです。

 この山浦先生が、何故ケセン語訳聖書を作ろうとされたのでしょうか?まず、ご自分がいわゆるケセンに住んでいらっしゃるから。ケセンっていうのはカタカナで、ケセンなのですが、岩手県に気仙沼という所があります。山浦先生は、東京の大森でお生まれになったのですが、すぐに東北に移られ、岩手県気仙郡 越喜来 ( おっきらい ) 村および ( さかり ) 町というところで育たれました。このケセン語というのは、が、山浦先生が命名された言葉でその地方で使われている方言です。

 普通には、東北弁あるいは、ズーズー弁と言われ、標準語から見ると、どちらかと言うとバカにされることがあります。そちらの出身の人が東京に就職した時に、とっても恥ずかしい思いをします。周りの人がバカにするからです。この山浦先生は、根っからのカトリック信者で、いつもミサにも参加しておられたのですが、ある時に、「イエスさまもズーズー弁だったのではないか」ということに気が付くのです。イエス様の育たれたガリラヤ地方は、中央のエルサレムから見ると、いわゆる「どいなか」でした。言葉もエルサレムで使われている言葉とは、まるで異なるガリラヤ語です。誰が聞いてもすぐ分かる。その証拠に、イエス様が捕らえられて裁判に掛けられる時に、ペトロが黙ってこっそりついて行ったのですが、見破られそうになる。それは、彼のガリラヤ弁が影響していました。

 「イエスはズーズー弁でお話になったに違いない。そして、ズーズー弁で話す者の味方をなさったはずだ」という見解を持つようになったのも自然の成り行きでした。彼が子どものころに、学校で作文を書かされるのですが、先生が、「自分の心に正直に、思ったままをなんでも書きなさい」と言われたものですから、このズーズー弁で文章を表現しようとしました。ところが、文字にならないことに気が付きます。先生に、「この言葉、何て書けばいいんですか?」と何度も質問したものですから、先生が怒っちゃったのです。「そんなのは、日本語にない」と。こうして彼は、いわゆるズーズー弁が文字の言語ではないという事に気が付きました。そこで、ケセン語研究を始めたのです。

ケセン語にはまって

 1989年といいますから、もう13年、14年前に、「ケセン語入門」という本を出しています。それからケセン語にずっとはまって、2000年には、「ケセン語大辞典」というケセン語と日本語の辞書までお作りになります。その準備が出来てから、「さて、それじゃあ、新約聖書をケセン語に訳そう」と思って、マタイによる福音書から始めようとしました。ところが、いきなり最初から、ひっかかります。

 皆さん方もご覧下さい。私も気にも留めてなかったのですが、一章の一節に、「アブラハムの子ダビデの子、イエスキリストの系図」と書かれています。「アブラハムの子」をケセン語に翻訳するのは簡単なのですが、「アブラハムの子ダビデの子」とかいてあります。アブラハムから700年くらい後のダビデの子でもある、「こりゃあ、どういう事だ」ということになります。彼の文章をそのまま引用しましょう。

 「『子』というのは『第一親等の直系卑属』のことである。代が下がって、第二親等となれば『孫』、第三親等は『曾孫』、第四親等は「 夜叉孫 ( やしゃご ) (玄孫)」という。これ以後は『五世の孫』『六世の孫』というようにとなえるのが日本語である(民法)。イエスがアブラハムの子ならば、それはイサクの兄弟ということになり、ダビデの子ならばソロモンやアブサロムの兄弟ではないか。何十代もへだてた者をケセン語では決して『子』とは呼ばないのである。

 またこの書き方だと、イエスにはアブラハムという父とダビデという父がいたように聞こえ、これも奇妙なことである。『アブラハムの子孫であるダビデの、そのまた子孫であるイエス・キリストの系図』というのならつじつまが合いそうだ。

 今までどうして気がつかなかったのだろう。エリコの盲人がイエスに向かって『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫んでも(ルカ18章39節)、どうしてわたしはそれを変だと思わなかったのだろう。でも。これをケセン語になおそうとしたら、とたんにはっきりと『変だ!』と感じたのだ。これをこのままケセン語になおして、『アブラハムの子』とか『ダビデのお息子さま』などとやったら、気仙衆は何と思うだろう。『新聖書大辞典』によるとアブラハムの生きていた時代は紀元前1700年代のことだ。もしイエスがアブラハムの子なら、彼の年齢は1千7百歳近いということだ。ダビデ王の子なら、1千歳にもなる勘定である。」(山浦玄嗣「ふるさとのイエス」、キリスト新聞社、2003年6月30日、第1刷、32頁)

原典のギリシャ語から

 そこで、彼は知り合いのカトリックの新約学者の方に相談したら、日本語の聖書から翻訳しようとするから無理が出る、ということが分かりました。「やっぱり、原典のギリシャ語から翻訳しないと無理だろう」と言われて、彼はギリシャ語の勉強まで始めます。その先生から、ギリシャ語の参考書だとか、各国語の聖書など、次から次へと送られて、彼は、まるで奇跡に遭ったような思いをします。2002年に、ケセン語訳マタイによる福音書が出版されました。先に触れた「アブラハムの子」の問題は、ギリシャ語では、「息子」という意味のほかに、「子孫」の意味があることも分かって、ケセン語では、「子孫」と訳されました。

 今から25年前、大船渡のカトリック教会が献堂25周年記念式典をするというので、当時、仙台にいた彼も喜んで参列しました。司教さまたち大勢のお客様が参列した盛大なミサが行われた後、祝宴となりました。その席上、余興で、山上の説教の一節をケセン語で読みました。すると、初めのうちは、会場からクスクス笑い声が出たのですが、そのうち静まって、会場全体が感動に包まれました。会が終わったとき、一人の小山サクノさんというおばあさんが彼のところへ走り寄って来て、ケセン語で、「良かったよ。何十年も教会に通ってきたけれど、今日ぐらいイエス様の気持ちが分かったことはなかった。」と言いました。このときのことを彼は、こう書いています。

 「サクノさんの目に光る涙を見たとき、わたしはマリアさまに会ったような気がした。サクノさんは信仰の厚い、やさしいおばあさんだった。熱心に教会に通い、人々のために尽くした。でも、彼女は悩んでいたのだ。御ミサで朗読される聖書は、『立派な』標準語で書いてある。頭ではわかったつもりでも、そのことばは所詮は頭のことばであった。胸の中、腹の奥にまっすぐに響くものではなかったのだ。彼女の慕うイエスさまの気持ちがよくわからない。そのことに対する『申し訳なさ』に、彼女はどんなに悲しく思っていたことだろう。でも、自分たちのことばで語られるイエスさまのことばを聞いたとき、何の説明も解説もないのに、彼女はイエスさまの気持ちが本当によくわかったのだった。

 サクノさんの頬を伝ったあの美しい涙は、今日までずっと、わたしの魂を導き励ます明けの明星となっている。」(前掲書、28、29頁)

ケセン語になりにくい“愛”

  今日の中心の聖書が、ガラテヤの信徒への手紙の6章で、今日の主日の主題が、「キリストの心」ということですが、このパウロの倫理的な薦めが、今日の箇所です。6章の1節の

 「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」

 ということばは、少し前の5章の13節と対応しています。この13節も「兄弟たち」という呼びかけで始まっています。

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただこの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」

そして、6章の2節の

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

これが、5章の14節、

「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」

に対応しています。キリストの律法を全うするということは、

「隣人を自分のように愛しなさい」

ということです。ここで、また山浦先生の本に戻ります。彼は、「“愛”という言葉もケセン語になりにくいことばである。」と言っています。

「キリスト教は愛の宗教だといい、福音書でも愛は大活躍する。われわれも教会で愛については耳にタコができるほど聞かされている。それでも愛はケセン語にしにくいことばだ。ケセン語に『愛』はない。」(前掲書67頁)

つまり、これに当たる言葉は、惚れる、という言葉、好きになる、という言葉でしょう。しかも、東北の人、男性たちは、ほとんど「おまえを愛しているよ」なんて言うことは、生まれていっぺんも言ったことが無いのではないか。自分の長年連れ添った奥さんにだって、「こんなこと言えるか」という感覚があるのではないだろうか。その、惚れてる、好きだよという、そういう感覚抜きに、愛という言葉は使えないはずだ。それで、山浦先生は、

「聖書で、この英語のLoveを愛と訳したのが間違いだ。」

と言っておられます。小学館から「日本国語大辞典。第二版」という、膨大な、分厚い辞典が出されています。その辞典で、愛するということについて、詳しく説明しています。外来語「愛」を翻訳した言葉というのが三番目くらいにあります。もともとは、対象となるのが、人、動植物、物事など、様々ですが、対象への自己本位的な感情や行為を表すことが多く、精神作用に留まらない点が『おもふ』と大きく異なる。また、人に対して使う場合は目上から目下へ、強者から弱者へという傾向が著しかった、と書かれています。

 文語的表現で、「織田信長は森蘭丸 という小姓を愛した」という言い方をしますが、それを森蘭丸も同じように織田信長を愛した、という風には使わないそうです。明らかに、上から下へという関係で、上位の者が下位の者を大きな好感をもってかわいがることなのです。だから、特にまじめな青年が聖書を読んでキリスト教に近づいて、ひっかかるのは多分、

 「あなたの敵を愛しなさい」

という言葉ではないだろうか、と彼は考えます。「愛する」ということは、「好きになる」ことです。しかし、「好きになれない者」が敵なのですから、それを「好きになれ」と言われても「そりゃ無理だ」ということになります。それで、「とても自分には出来ないな」と思って、自分を責める人は、それで引き下がるし、批判的な人は、「出来もしないことをこんな風に言うなんて、なんてキリスト教は偽善的な宗教だ」と騒ぐだろう。

愛するとは、大事にすること

というわけで、彼はアガペーというギリシャ語をもう一度よく調べます。

 彼は今から400年以上も前のキリシタンたちの文書を読んでいたときに、彼らが「愛」ということばを使っていないことに気づきます。彼らは「お大事に」と訳していたのです。これがピッタリだと、気がつきます。

 愛するということばは、英語から翻訳して、愛する、としたようです。だから、明治中期以後の外来語だと辞典にも載っているのです。日本人として使えない使い方を聖書で使っているというわけです。だから、「愛する」ということばを「大事にする」と訳すことにしたのです。そうすれば、「自分を大事にするように、あなたの隣人を大事にしなさい」ということになるのです。

 戦国時代に、上杉謙信が敵の織田信長が塩で困っている時に、塩を送ったという有名な話があります。敵なのだから、好きになるはずが無いと思いますが、大事にしたのだ、といえば、頷けるのではないでしょうか。そうすると、好きにならなくてもいいから、「大事にしなさい」と言われると、すとんと落ちます。

 万事がこの調子です。ですから、私もこれを一冊読んでしまったのですが、読み終わるとワクワクした感じになるのです。あのサクノおばあさんが、とっても感激した、というのが分かります。私もときどき、「なんだ、この新共同訳は?」と思ったりすることがあるのですが、我々が使う日本語で聖書の翻訳がなされてほしいと思います。

 一番大事なことは、書かれている言葉の表面的な意味にあんまり捕われないで、言わんとしている所を受け止めるということです。キリストの心は、一人一人を本当に大事にしてくださるということではないでしょうか。だから、私たちもそのように大事にする。自分を大事にし、隣人も大事にする。今日の旧約で、ダビデが自分の命をねらっているサウルを大事にしました。それは、神が負うとして大事にすると約束された方だから、ということでサウルを殺しませんでした。私たち一人一人も神様によってとても大事にされています。だから、私たちもできる限り色んな人を大事にしていきましょう。これがキリストの心なのではないでしょうか。

 祈ります。

 聖なる御神様、今日も礼拝にお招きくださってありがとうございました。私たちはともすると、自分で勝手に、これはダメだ、と諦めたり、あるいは、人に見切りをつけて見限ったり、し勝ちでございました。しかし、あなたは決してどんな人も見限ることはなさいませんし、常に大事にしていてくださいます。私たちが本当にあなたの愛をしっかりと受け止めて、この週も歩み、小さなことを大事にすることを通して、また大きな喜びが与えられる事を経験させてください。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン。