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「墓から死を見ない」

 石川 和夫牧師

 

  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

(ルカによる福音書二四・五、六)

 

  「教会の弱さ、みじめさ、無力さ、教会の復活の福音に対する不信は、彼らが死人の中に生きた方をたずねたということから生じているのです。」(H・ゴルヴィツアー「イエスの死と復活」、新教出版社、一九八六年七月二五日、初版、一四六頁)

 第二次世界大戦の最中、一九三八年から一九四〇年にかけて、ドイツのH・ゴルヴィツアー牧師が、彼自身、まだ三〇歳から三二歳であった時、ヒトラー政権下にあったベルリン、ダーレム教会において、一連のルカによる福音書講解説教を行った、その一節です。どういうことでしょうか?ゴルヴィツアー牧師に聞いてみましょう。

 「福音書のなかで、弟子たちがイエスを理解しなかったとしばしば言われているのですが、それは、弟子たちがイエスの思想の飛躍について行かなかったということを意味するのではありません。そうではなくて、彼らが理解できなかったのは、彼らがイエスを結局は、やはり死人のうちにたずねたこと、すなわち、イエスが、以前にガリラヤで彼の生涯の最初の頃に、いっさいのことが起ころうとするとき、あらゆることが死の世界のただなかにあって、神の偉大な勝利に終わろうとしているということを、あらかじめ弟子たちに語っていたにもかかわらず、イエスを死の世界に属する者とみなしていたということ、そのことによるのです。彼らの無理解は、彼らが神をなるほど理論的には、この世の主としてはいましたが、しかし実際には、次のように考えていたという点にあったのです。すなわち、神はただご自分の天国においてのみ本当の主であり、ここ地上においては、そこに出現するすべてのものは、このイエスさえも結局は死んでしまうということです。彼らが、このことを信じたからこそ、彼らは純粋に観念的な信仰にとどまったのです。……それで彼らは、この世においては神が無力であると言う信仰を持つのです。弟子たちがこの世につく信仰を持つかぎり、彼らはこの世にとって危険でもなかったし、また助けにもなりませんでした。」(前掲書、一四六、一四七頁)

 簡単に言えば、弟子たちは、「死んだら終わり」という「常識」から抜け出せていなかった、つまり「墓から死を見ていた」のです。

 人間的尺度ではなく

 イエスを慕っていた婦人たち、マグダラのマリア、ヨハナ(ヘロデの家令クザの妻、八・三)、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち(一〇節)は、週の初めの日、安息日の明けた日の明け方早く、やり残した遺体に香料を塗る作業をしに墓に行きました。しかし、肝心のイエスの遺体が見当たらないので、途方にくれてしまいます。遺体が誰かに盗まれたと思ったのです。そこで二人の天使の言葉を聞きます。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(四節)

  「これを聞いた婦人たちは、ただちに生きた方という言葉でだれが意味されているかを知りました。たったこの一言で、彼女たちのうちに、このナザレのイエスが彼女たちにとって意味していたあらゆることをもう一度思い起こすのに十分でした。……彼らはイエスを、この地上における神の生命の臨在として認めました。それゆえ、彼らは彼につき従ったのです。しかし、同時に改めてこの二,三日の苦しみがよみがえってきました。彼らが全く生きた方として認めていたそのかたが彼らの目の前で息絶え、彼らの目の前でうちひしがれた死体となって墓のなかに葬られたという恐ろしい矛盾の苦しみがよみがえってきました。」(前掲書一四八〜一五〇頁)

 「生きておられる方」が現実には、死体となっていた。どうして?「死者の中に捜す」とは?彼女たちの心の中の矛盾、迷いは、広がる一方でした。そこへ、天使の言葉が重なります。

 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。

まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。

人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、

三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(六、七節)

 ここで「…することになっている」と訳されている言葉は、神のご計画が実現される、という意味を持っています。神が初めから、そのように計画され、それがその通りに実現する、神はイエスを死に渡されるが、三日目に復活させられるのです。文字通りに言えば、死から起こされるのです。

 「いったいあなたがたは、あらゆることをただあなたがたの人間的尺度でもって、またあなたがたの人間的可能性でもって判断しなければならないのでしょうか。このかたがあなたがたの前に死んで横たわっているので、その使命は終り、神はそれで満足しておられるかのように考えるほどに、あなたがたは、神の力を信ずること少なく、死の力に対して恐ろしいくらい敬意を払うのですか。いったいなぜ、神のキリストがこのような矛盾のなかへおもむいたのでしょうか。どうして、決して死ぬことのできないかたが真に恐るべき死を死ぬというようなことが起こったのでしょうか。……それは今や生きた方が死人のなかにいるということではなくて、神の生命が死に対しても勝利を得るということが、あなたがたに告げられうるためなのです。」(前掲書、一五一頁)

 神の尺度では

 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。(八節)

 「この改めて自覚された言葉が、彼らの心に復活の信仰を与えます。イエスご自身がその言葉をもってやって来て、私たちの心に触れ、その心を永遠に揺り動かして、彼らのうちに神の生ける臨在を認めるように私たちの目を開いたに違いありません。ただそのようにしてのみ、復活の確信が私たちの心に起こるのです。」(前掲書、一五一〜一五二頁)

 今や、時代は「健康産業ブーム」です。健康にいいという情報で溢れています。これらの情報が生かされたら、人々は何百歳まで生きるのか、と思わせるほどです。お昼の健康番組の司会をしているみの・もんたさんは、友人に、さぞかしお前は何百歳までも生きるだろうな、と皮肉られているそうです。結局、みんな死を恐れている証拠です。

 しかし、どんなに努力し、気をつけていても死は必ず訪れます。せめて少しでも先に延ばしたいとあがいているに過ぎません。「死んだらおしまい」という価値観に支配されたままです。しかし、イースターのメッセージは、死は、神に破れた、死んだらおしまいではない、ということです。

 韓国の民主化闘争の指導者の一人、安炳茂(アン・ピョンム)牧師は、イエスの復活の重大な意味のもう一つの側面について、こう言っておられます。

 「イエスは、不義なる者の手にかかって死んだ。彼は、われわれを代表して死んだといわれるが、果たしてどのようなわれわれを代表してであろうか。これまでわれわれは、単純にわれらの罪の身代わりとなったという所に力点を置いてきた。それはそれでよいとしても、しかし、われわれに最も重要なもう一つの事実を忘れていたのではないだろうか。それは、イエスが不義なる者の手にかかって死ぬことによって、まさに彼らの手にかかって死んでいった多くの死の身代わりとなったのであり、また、その死と戦って勝利をおさめたということである。イエスの復活とは、不義なる者らによってもたらされた無念、敗北、辱しめ、苦しみの中で死んでいった彼らをよみがえらせた、最初の結実なのである。彼の復活は、死の権勢を打ち砕いた。これは、死を最後の武器として振りまわして来た権力者たちの脅威とその死の恐怖から、人間を解放したということである。彼の死が、不義なる者らの手による死であるように、彼の復活も、まさに不義なる者に踏みにじられて死んだ人々を解放した事件であった。」(新教新書218、安炳茂「現存する神」、八四、八五頁)

 最近、アメリカの一方的な言いがかりで始められたイラク戦争での市民の悲惨な姿が、テレビや新聞で紹介されるたびに、言いようのない怒りに襲われるのですが、キリストは、それらの犠牲者のためにも死なれ、そして復活されたのだと、信じることで、慰めをほんの少し得られる思いがします。

 「復活の希望は、ただ十字架の下においてのみ、つまり死に反対する愛の抵抗の中でのみ明るくされる希望にほかなりません。」(ユルゲン・モルトマン説教集「無力の力強さ」、新教出版社、一九九八年四月二五日、初版、二〇一頁)とモルトマン教授も言っています。

 安牧師も、こう結んでいます。

 「今日の世界のキリスト者たちは、貧しい者と抑圧された者の側に立って、彼らがその無念さ、疎外、不自由から解放されるために、否、神が授けた正当な権利を享受できるように、彼らのために力を傾けているのである。われわれは、そのような努力の中で、今日の復活のキリストに出会うのである。

 それは、今日のキリスト者が強いからではなく、不法者の手にかかって死んだキリストを、神がよみがえらせたことを信じるからであり、その復活のキリストこそが、不義と戦った彼らの中に現存するということを信じるからである。」(前掲書、八六頁)

 永遠のいのちの確信

 「復活祭は、解放する祝いにほかなりません」とモルトマン教授も言っておられますが(前掲書、二〇三頁)、キリストの復活を信じる者は、死から完全に自由にさせられます。

 金纓(キム・ヨン)牧師は、七,八年前に、子どもたちが親の手を離れたのを機会に、八ヶ月の南米放浪の旅をされました。出かけて間もない頃、右の胸にしこりを感じます。でも。そのままにして旅を続けるうちに、そのしこりがあまりにも大きくなりすぎてリュックを背負うのがたいへんになったので、日本に一時帰国して調べてもらったところ、かなり進行している乳がんであることが分かりました。けれども、旅の途中だったので、手術だけして、旅を続けられました。そのような纓さんに、「どうして何もせずに平気ですか」

と聞く人が多いそうです。纓さん自身は、こう言っています。

 「私だって、まったく不安がないわけではなかったが、いつ死んでも悔いがないくらい、やるべきこと、やりたいことをその都度やってきた満足感があったからかもしれない。

 それよりも、いのちは神さまのみ手にあるから、いちばんいいときに、いちばんいい方法で、私の地上でのいのちを終わらせてくださるとの確信があった。それまでは自分で納得する生き方をしたいと心を決めたのである。……

 死を恐れるのは、死ぬとおしまいだと考えるからだろうか。たしかに、この地上では家族や友人たちに会えないし、やりたいこともすべて諦めなければならない。しかし、キリスト教の信仰をもって生きるということは、死が最後の答えでなく、復活したイエス・キリストによって、新しいいのち、永遠のいのちが与えられているという約束を信じることではないだろうか。

 永遠のいのちとは、私の短い、小さいいのちでは測ることのできない、永劫のいのち、宇宙のいのち、神さまのいのちのことである。イエスの生と死、復活を通して、そのいのちへ至る道を私たちに示されたのである。」(「信徒の友」、四月号、一七、一八頁)

    (二〇〇三年四月二〇日、復活節第一主日、イースター第二礼拝の説教要旨)