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苦難の栄光

石川 和夫牧師

二人は栄光に包まれて現れ、

イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

(ルカ 9章31節)

 今回は、イエス様が山に登っておられるときに、白く姿が変わって、旧約の代表者であるモーセとエリアと語り合ったことに、弟子たちが感動して、この三人のために仮小屋を立てましょうと言いましたが、イエス様は、このことを誰にも話してはならないと言ったお話です。

 マルコによる福音書が元になり、ルカによる福音書が書かれました。この記事に関しても、ルカは大幅に筆を加えています。ルカによる福音書の特徴でもあるのですが、ルカは、イエス様は何か重大なことをなさる前には、祈られるということを書いています。祈るために、山に登られた、祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わられたと、「祈る」という言葉が二回出てきます。

二人は栄光に包まれて現れ、

イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

(ルカ 9章31節)

マルコでは、

エリアがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

(マルコ 9章4節)

と書かれているのと比較しますと、マルコは、何について話していたのか書いていませんが、ルカは、イエス様の最後について話していたと説明を加えています。

 "最後"と訳された言葉は、旧約の出エジプト記のタイトルの「出エジプト」"エクソドス(旅立ち)"と同じ言葉が使われています。ですから、ルカは明らかに、出エジプト記のモーセの出来事を思い浮かべながらこの記事を書いたのです。そして、その内容にまで立ち入ったのが、ルカの神学だと言われています。イエスが、このときを期して十字架の死と、復活の栄光に向かう旅立ちをなさる、ということに対比しているのです。具体的には、

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、

エルサレムに向かう決意を固められた。

(ルカ 9章51節)

と書かれています。そして、エルサレムが、最後の栄光を現す場所だ、と表現しているわけです。ルカは、イエス様の苦難は、神様の栄光を表すものだと言っていると思うので、今回の説教題を「苦難の栄光」としました。

苦難に耐えることが栄光に触れること

次に、

ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、

栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。

(ルカ 9章32節)

とありますが、この記事は、マルコには書かれていません。ルカの解釈なのでしょう。眠いという、悪い状況なのだけれども、それをじっとこらえていると、栄光に触れるのだと言っています。イエス様ご自身が、苦難を受け止めるという決心をなさったことが、栄光に満ちたことになるというわけですが、弟子たちも眠いという苦難をじっと耐えたとき、栄光に預かる者となったというのです。

 次に、

すると、「これはわたしの子、選ばれた者。

これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

(ルカ 9章35節)

とあります。マルコでは、

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

(マルコ 9章7節)

となっています。簡潔な表現のマルコには、"選ばれた者"と言う言葉はありません。ルカは神に選ばれた救い主、栄光に満ちた方としてのしるしとして、神の声があったのだ、と理解したようです。

 次に、

その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。

弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

(ルカ 9章36節)

 弟子たちが自発的に話さなかったことになっています。ところが、マルコでは、

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、

今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

(マルコ 9章9節)

となっていて、イエス様が命じたと書いています。以上のことから、ルカは大幅に筆を加えていることが分かります。ルカが伝えようとしている苦難の栄光ということは、わたしたちの信仰生活にとって、きわめて大事なことであると思います。

苦難の栄光に生きる人

 青森県弘前市の郊外、岩木山のふもとの、自宅に「森のイスキヤ」という名前をつけて、客におにぎりを出して、泊まりたければ、泊まりなさい、という施設を運営しておられる、81歳の佐藤初女(はつめ)さんという方がいらっしゃいます。「食は命」ということを確信しておられます。

 「自分が出来ることから」というテーマで心理学者の河合隼人さんと対談したとき、今の時代にしゃべりたい人がたくさんいるのに、聞いてくれる人がいない、と言われたことに深く共感し、自分は専門のカウンセラーではないけれども、じっと聞いてあげようと決心し、そのように運営しておられるそうです。

 最初は、四畳半の広さで始めたのですが、そのうち狭くなってきたので、二十畳に広げました。その資金は、聖地旅行をしようとして蓄えていた預金をはたいて作りました。このことが1995年、映画「ガイアシンフォニー」(副題:地球交響曲第二番)で取り上げられ、ますます、佐藤さんを訪ねる人が増えました。寄付も集まり、二階建ての家となりました。このときに「森のイスキヤ」という名前がつきました。

 「イスキヤ」という名前は佐藤さんがイタリア旅行のときに聞いて感動した民話に由来しています。

 イタリアの富豪の息子が恋愛も含め、自分の願いがすべて成就したときに、急に倦怠感におそわれ、生きる気力を失いました。その彼がふと、幼いとき、父に連れて行ってもらったイスキヤ島を思い出し、その島の自然の中で生気を取り戻し、社会のために奉仕しました。この民話の中に出てくるイスキヤ島は海の中です、ここは森の中ですから、「森のイスキヤ」としたようです。

 若々しい体でみんなを驚かせながら大きな働きをなさいました。誰も想像も出来なかったようですが、佐藤さんは10代から30代にかけて結核を17年間患っていました。戦前のことです。当時の結核は、今のガンと同じで、死の病と受け止められていました。17歳のときに発病しました。同時に、お父さんが仕事に失敗して住む家もなくなるという状況でした。長い闘病生活を続けました。

 佐藤さんは、学校の教員をしながら24歳のときに結婚しました。夫は50歳で再婚でした。既に二人の子供がいました。佐藤さんは妊娠しました。周りから、結核の体で生むことは絶対だめだといわれました。しかし、彼女は生みました。夫の連れ子の二人は彼女の子供の世話を手伝いました。子供は無事育ちました。

 佐藤さんは、闘病生活の最中に、シスターがそっと枕元に置いた「小さき花のテレジア」を読みました。テレジアは重い病にかかりながら、多くの本を書き残し、たぶん19歳でなくなりました。これらの本は、たくさんの人に読まれました。井上洋二神父、作家の遠藤周作も影響を受けたようです。

 佐藤さんは、この本を読んで、信仰を持とうと決心しましたが、洗礼式までは、なかなか時を得ませんでした。戦争が終わり、33歳のときに洗礼を受けました。夫はそのことに何も言いませんでした。夫は79歳で、病で亡くなりました。亡くなる一週間前に、夫が洗礼を受けたいと言い出しました。彼女は、夫は、意識が混濁しておかしくなり、上の空で言ったのだろうと心配しました。何とかして、確かめようとしました。そのことを、病床の夫が察知したのでしょうか、「死の間際になると、しゃべることが出来ないから、書き取ってくれ」と言いました。彼女は一言、一言、書きとめました。

 「お祈りの光集まり、わが身をつつみ、わが身をよみがえらせん」。

 彼女は、素晴らしい信仰であることに心をうたれました。

 こうして、彼女の夫は、病床洗礼を受けました。その後、意識がはっきりしたままで、最後を迎えたい、ということから、夫は、痛みを和らげ、意識を混濁させるモルヒネを拒否し、苦痛を真正面に据えて、主治医に、ありがとうと言って、息を引き取りました。

奉仕には犠牲が伴う

 彼女は、自分の17年間の苦難に重ね、夫にとっても、闘病生活は苦難であったけれども、それが栄光に満ちている、主を仰ぎ見て、わが身を蘇らせんという信仰を持った、つまり、死んでもなお自分は蘇っているということを信じて、生涯を終えられたということに感動したのです。

 彼女は、自分の人生を、何か人の役に立つことをしたいという生き方に変えました。

 あるとき、彼女は、ミサの説教で、「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲の伴わない奉仕は真の奉仕ではない」という、神父の言葉を聞いて、「自分は奉仕していた、と思っていた、だが、よく考えてみると、その奉仕は、自分が無理なく出来る範囲内のことだった。何も犠牲を払っていなかった。」と自分の行き方の根底が問われ、揺さぶられました。

 そして、行き着いたところが、"心を通わせる"ということと、"食べ物を作る業"、つまり、”食事は命の移し変え“、ということでした。

 自分の周囲で採れる野菜を料理するとき、大地にいるときは光を身に受け輝いていた野菜たちが、調理されて透き通ってくる、その瞬間が最もおいしいときだ、これは同時に、自分のために輝いていた野菜たちが他者のために生きるときでもある。さあ、この命であなたが生きなさいと野菜が言ってくれている。食事を作るものは、それを提供することなのだ。(雑誌、「あけぼの」、2003年5月号、27頁)

と彼女は言っています。カウンセラーである、河合隼雄さんは、「人の心を癒すものとして、佐藤さんのおむすびと漬物は最高だ」と、絶賛しました。(前掲書、25頁)佐藤さんは、「素朴なおむすびとお漬物、ゆったりとした部屋の提供。わたしは専門家ではありません、いくらでも聴きます、それしか出来ません。たっぷり自然の空気を吸いなさい。あなたに命をあげるよと言っている自然の食べ物、それを食べて生きなさい、そして、命を得なさい」と、言っています。佐藤さんは、人々が再生するという、このような奉仕の働きをしています。

 半年ほど前に、佐藤さんは、55歳の息子さんを失いました。悲しんで、落ち込みました。佐藤さんはこのように言いました。

 「残念だし、悲しいが、息子を生かすも、殺すも、私の生き方だと思う。そうしなければ、生きている甲斐がないと思うのです。」

と。だから、自分より早死にした息子が本当に生きるか、どうかというのは、わたしの生き方なのだ、その息子の苦難が栄光に変えられる。それは、わたしの信仰、わたしの生き方によるのだ。また、このようにも言っています。

 「亡くなった人が、生前望んでいた生き方を手繰りながら生きることが、慰めにもつながるということなのだ。」

 わたしたちにとって、イエス・キリストが十字架にかかってくださった、だから、それは、今まで、単にわたしたちの罪の身代わり、という受け止め方が、多かったのですけれども、今日は、ルカによる福音書を通して、苦難が栄光につながるという、そのような意味では、苦難を逃げてはいけないし、あるいは、犠牲を伴わない奉仕は奉仕ではないという、そのような部分も、もう一度、しっかり受け止めなおしい、と思います。

 お祈りしましょう。

 父なる御神様、この日も、あなたの導きを感謝いたします。ルカによる福音書を通して、主の十字架の苦しみが、栄光満ちたものであり、栄光に変えられるものであることを示されましたことを感謝いたします。それは、わたしたちの身近に、常に、起こりうることでありました。自分で勝手な決め付けをしないで、あなたが、常に、わたしたちとともにいて、そして、あらゆる苦しみを栄光に変えようとしていてくださる恵みを、しっかり受け止めて、歩み続けることが出来ますように、お助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

(2003年 3月30日 礼拝説教より)