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「そこにいること」

 石川 和夫牧師

 「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、

神の国はあなたがたのところに来ているのだ。」

(ルカによる福音書一一・二〇)

 

  「現代人の悲劇は神を否定するか、あるいは神なしで、すませようとすることである。」(ミシェル・クオスト「イエスが新聞を読まれたら」、教団出版局、一九七四年七月五日、初版、一五三頁)

 これは、フランスのミッシェル・クオスト神父の言葉です。そして、こう続けています。

 「そして人は神から遠ざかれば遠ざかるほど、鎮静剤の世話になり、自分を損なうようになる。救い主キリストを見いだすことのできない人間の罰は、こうして内面から自分自身を破滅に導いていく。だが、キリストは、わたしたちの内面を統一させ、平和に保つことができる方なのである。」

 きょうの礼拝は、「悪と戦うキリスト」という主題、ルカによる福音書一一章一四節から二六節をテキストとして、御言葉を聞きます。

 イエスが悪霊を追い出しておられたが、それは口をきけなくする悪霊であった。

(ルカ一一・一四)

 その結果、病気の人がよくなって、人々が驚嘆しました。世の中には、いろんな人がいるもので、人々と一緒になって、喜ぶのではなくて、難癖をつける人もいました。特に、評論家的な人が、

 「あれは、悪魔のかしら、ベルゼブルの力で追い出しているんだ」と言う人がいました。ベルゼブルというのは、「バアル・ゼブブ」と言う言葉の複数形です。「バアル」というのは、「主人」とか「かしら」という意味ですが、結局、悪霊の親玉を使ってやっているんで、いんちきだ、と言っているわけです。あるいは、

 イエスを試そうとして、天からのしるしを求めている者がいた。(ルカ一一・一六)

 これも、うそか本当か試したら分かるよ、という評論家的な人たちの意見です。だけど、イエスは、もし、悪霊のかしらを使ったのだったら、悪霊同士の内輪もめをさせていることになるではないか、そんなバカなことがあるか。あるいは、同じユダヤ教のラビ(教師)の中に、イエスと同じように癒しをする人がいたのですが、そういう癒しをする人は何でやっているのか、と反論されました。

 実は、ここが一番大切なところですが、今日の中心聖句、

 「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、

神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ一一・二〇)

 これは、ある意味で、ルカによる福音書の中心メッセージでもあります。イエスのなさっていることを通して、神の国がわたしたちの只中にあるということをお示しになった、ということです。それまでは、神の国が来ると言うことについては、条件付でした。こういう努力をし、このような条件を満たさなければ、神の国は、来ない、というのが、当時の常識だったのです。だから、多くの人が、自分は、神の国に遠いのだと思っていたときに、

 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 「神の国は、あなたたちのところにある」

と言われたのです。

 神が来てくださる

 これは、当時の宗教の常識をひっくり返すものでした。これが「福音」ということです。わたしたちが、必死に努力して、資格を得ようとする必要が無い、ということなのです。

 神がわたしたちのところに来てくださっている、ひとりひとりのところに、確実に来てくださっている。これが、今日のメッセージです。だから、ああだ、こうだ、というややこしいことは、もう必要ない、ということです。

 わたしたちが神の国の中にいると言うことは、イエスの約束なのだから、確かなのですが、現実となるとなかなかそうは行かない。どうしても自分中心に判断して、ああやったらよかった、とか、これが、やっぱり問題だとか、ひどいときには、自己嫌悪に陥ったり、逆に、調子がいいときには、自分もまんざらではないな、と舞い上がってみたりします。こうして、いつの間にか、神さまに対して、あるいは、イエスさまに対して、評論家的になって、第三者的に見ると言うことがありがちです。

 だから、そのために、主日礼拝が必要になるのだし、祈りが必要になるのです。先ほどのクオスト神父が、こういう話をしておられます。夕方、食事の支度で忙しくしているときに、ご主人が、「ちょっとここへ来て、座って」

と言われたら、ちょっとためらうのではないでしょうか。

 「何よ!、自分は、でーんと座って、のんきに新聞やテレビを見て!私は忙しいのよ」

と思うかもしれません。でも、我慢して、一緒に座ったとします。クオスト神父の表現を使いましょう。

 彼のそばにいても、しばらくすると彼は再び新聞をペラペラめくったり、テレビを見たりして、あなたがたの存在には全く無関心のように見えることを経験からご存知でありましょう。みなさんは待ち切れなくて、「こんなに仕事があるのに、時間をつぶすためにここにいるなんて!」というのです。ところがみなさんは、時間を失っていないのです。(ミシェル・クオスト「愛が地に根づくとき」、教団出版局、一九七七年七月二〇日、初版、六七頁)

 せっかく、大事なことが出来るのに、私は、ここで、時間を無駄遣いしている、だから、いい加減にして!と言いたくなるけれども、クオスト神父は、実は、その時間、無駄遣いではないよ、とおっしゃるのです。

 なぜでしょうか。子どもたち、ご主人、その他の人びとのために働くこと、《活動する》ことも、愛の証明であるでしょう。しかし、もう一つの愛し方もあるのです。相手のために何かを《する》のではなく、その人のために無償でそこに《いる》ということです。(前掲書六七頁)

 無償でそこに《いる》と言うこともたいへん大きな愛だというのです。実は、そこに《いる》ということで、深いつながりが出来るのです。クオスト神父は、祈りと言うのは、実は、神のためにそこにいることだ、というのです。(前掲書六八頁)

 無駄な時間は無い

 「神のためにそこにいる」という時を持つことによって、わたしたちは、いろいろな思いから解き放たれます。もちろん、いろんな心配や懸念が消えて無くなるわけではありません。でも、そういう事を抱えながら、だいじょうぶなんだな、という思いに至るのです。それが、「神のためにそこにいる」という祈りのときなのです。そして、週に一度、公同礼拝に集うと言うのも、「神のためにそこにいる」時なのです。

 礼拝の始めから終わりに至るまで、私たちがひしひしと神の愛を受け止めて、そうだ、小さなことで思い煩っていたな、とか、ちょっと思いあがっていたな、とすっかり新たにされて、「今週も頼んだよ」と言う神の声に促されて、その週の歩みを始める。それが「神のためにそこにいる」礼拝となるのです。

 レントに入った一番最初の礼拝で、イエスが四〇日四〇夜、悪魔の試みに遭われたことを学びました。四〇日四〇夜、というのは、象徴的な数字で、「長い、長期」と言うことを意味しています。その「長い」試練のときは、客観的に見たら、イエスにとって無駄なときのように見えますが、決して無駄ではなかったのです。イエスにとって、とても大事なときでした。これが無ければならなかったのです。

 だから、わたしたちにとっても無駄な時間は、ありえません。「神のためにそこにいる」と自覚したときには、「ありがとうございました」と言える時に変えられるのではないでしょうか。問題は、本気で、そうだ、「神のためにそこにいる」ということが、とってもだいじなんだな、自分で、ああしなければ、とか、これは、どうしよう、とあくせくして、最後に、神さま、お任せします、なんていう言い方をしているけれども、その前に、大事なことは、私のそばにいてくださる方の前で、しっかり心を落ち着けて、「ありがとうございます」と言うことではないでしょうか。

 祈るときは

 私たちの姉妹教会、高幡教会の晴佐久神父の詩集に、「だいじょうぶだよ」という本があります。その中に、「祈るときは」という詩があります。三節まであるのですが、全部を読んでみると、それぞれに韻を踏んでいます。だから、すばらしい歌になります。しかも、キリスト教用語をいっさい使っていないので、作曲の才能のある人が、曲をつけてくれると、たちまち流行るのではないかと思います。柔らかい、心が澄みそうな曲がついたらなあ、と期待しています。その一節だけを紹介します。祈りの極致というのは、こういうことではないか、と思います。

  祈るときは

 祈るときは 春のうららのひなたぼっこ

 ゆっくりとまぶたを閉じて

 なんにも考えないで

 お日さまの親ごころを受けて

 あふれくる光にこころをさらして

 雑念を雑菌もろとも日に干して

 あくびなんかして

 祈るくつろぎは ひなたぼっこ

 ふわあ

(晴佐久昌英「だいじょうぶだよ」、女子パウロ会、二〇〇一年四月二五日、初版、二三頁)

 こんなに、じっくり神様の前で、日向ぼっこしたんだろうか、と考えさせられます。私たちにとって、とっても大事なことは、神の国が、もう私のところにある。それを実感として受け止めている時が、礼拝と祈りのときです。

   (二〇〇三年三月一六日、復活前第五主日、第二礼拝の説教要旨)