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しかなくても

石川和夫牧師

しかし、イエスは言われた。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」

彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、

このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

(ルカによる福音書9章13節)

今日は奇跡を行うキリストという主題です。

 選ばれている福音書は、非常に良く知られている「五千人の人(これは女性、子供を含まない大人の男性だけの数です。)を満腹させたという記事です。この、奇跡の物語は、四つの福音書に書かれています。福音書の記者たちにとって、この、奇跡の物語は欠かすことの出来ない大事な意味を持っていたと思われます。それは、この奇跡において、「神の国が現される」と受け止めたからではなでしょうか。

 特に、今日のルカによる福音書は、そのことが明瞭に現されています。

 順番に聖書の箇所を追ってみます。

使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。

イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

(ルカ 9章10節)

 ベトサイダの町は、地図を見ると分りますが、カリラヤ湖の一番北の端、ヘルモン山から注いでくるヨルダン川の河口の東側にある小さな町です。その周辺は草原だったようです。その草原に弟子たちをつれて行かれました。

群集はそのことを知ってイエスの後を追った。

イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、

治療の必要な人々をいやしておられた。

(ルカ 9章11節)

 「神の国について語り」と書かれています。「福音を伝え」と書かれているのではありません。ルカは「神の国はイエス様とイエス様に従う弟子たちの居るところに現れる。」ということを主張したいようです。

日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。

「群衆を解散させてください。

そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう。

私たちはこんな人里離れた所にいるのです。」

(ルカ 9章12節)

 イエス様が人々に仕え、癒しをし、あるいは、話をしているうちに日が傾きかけました。そこで、十二人の弟子たちがイエス様に、もう、「時間がきています。人々に食べ物を食べさせないといけないから、そろそろ終わりにしましょう。」と言いました。

しかしイエスは言われた。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」

彼らは言った。「わたしたちにパン五つと魚二匹しかありません、

このすべてのひとびとのために、私たちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

(ルカ 9章13節)

イ エス様は、「あなた方が人々に食べ物を与えなさい」と言いわれました。弟子たちはビックリして、「私たちにはパン五つと、魚二匹しかありません。」と答えました。「かなりのお金を持って、私たちが買いにいかない限り、これらの人たちを食べさせることはとんでもないことです」というように返事をしたのです。

というのは、男が五千人ほどいたからである。

イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。

(ルカ 9章14節)

 イエス様は弟子たちに「五十人位ずつの組にして座らせなさいと」と言いわれました。この、五十人位ずつというのは、当時の習慣で、一つの宴会グループ単位らしいのです。五十人ずつ座る。そのような形で大宴会が催されたようです。

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、

天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、

裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

(ルカ 9章16節)

 「天を仰いで賛美の祈りを唱えられ」と書いてあります。これは、単なる食前の祈りではなくて、礼拝の祈りをなさったのです。「天を仰いで」という祈りのスタイルは、その当時のエッセネ派の人がする礼拝の祈りでした。

 エッセネ派の人は、神様に忠実に従うことを目標にして、修道院を作り、修養に励んでいました。イエス様もそのエッセネ派に属しておられたのではないかといわれています。

 そのような特別の祈り、言い換えれば礼拝の祈りをなさいました。

すべての人が食べて満腹した。

そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

(ルカ 9章17節)

 十二という数字は、弟子たちの数です。十二というのは、全世界を意味しています。イエス様が十二人の弟子をお集めになったのは、全世界に対して神の国を述べ伝えることを意味しています。そして、弟子たちの数ほど籠に余り、祝福されたというわけです。

 このようなことが、科学的に可能かどうかを詮索するのは意味がないと思います。四つの福音書の記者が、どうしてもこれは書かなければならない事だと受け取った理由は、信仰との関わりの中で、非常に大事な意味を持っていたからだと思うのです。

イエスに甘えないで

そのことをもう少し詳しく見てみたいと思います。

使徒たちは帰ってきて、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。

イエスは彼らを連れて、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

(ルカ 9章10節)

 まず、弟子たちがイエス様の所に帰ってきました。自分たちのしてきた宣教を報告しました。ある人はうまくいき、ある人はうまくいかなかったかもしれません。色々な事がありながら、イエス様の所に帰ってきました。

 マルコの福音書では、イエス様が弟子たちだけを連れて「自分たちだけで」行かれたという表現を使うときには、特別の奇跡が起こったことが記録されています。ところが、今回は、自分たちだけになれないで、大勢の人々がイエスについてきました。イエス様がそれらの人々を相手に話をされ、そして、癒しをしておられるうちに、日が傾いてきました。イエスご自身も空腹になっておられたはずです。周りに居る人々も空腹を覚えていたはずです。そこで、弟子たちが、気を利かせて「先生、そろそろ終わりにしましょうよ」と言ったら、あなたたちで、食べ物をあげなさいという、とんでもない命令を受けました。

それで、弟子たちは

「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、

このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」

(ルカ 9章13節)

 「これしかないのに、そのようなことが出来ますか」と反抗的な答えを返しました。

 イエス様は「それを差し出しなさい」と言って、そのパンと魚を受け取られました。そして、天を仰いで、祝福して祈ったら、全部の人が満腹したという奇跡が起こりました。

 ここで大事なことは、「パン五つと魚二匹しかない」その、「しかない」ものをイエス様にそっくりお預けしたことだと思います。イエス様ご自身だって、お腹がすいているかもしれないのです。それを、天に向かって捧げて祈り、配ったという、ここに、非常に大事な意味があるように思うのです。

 森内俊雄という作家が居られますが、信徒の友に、1998年の4月号から2001年の3月号まで連載で、「福音書を読む」ということを書かれた方です。読んでみると、カトリックの信仰を持っていらっしゃる方のようです。彼は、ここの所をこのように説明しています。

 イエスがなされたことは乏しきなかにあって、いやがうえにも乏しきものを感謝とともに神にささげられたことである。この奇跡物語で大事なことは、この一点にかかっている。

 どのような捧げ物であっても、神の目に小さすぎるというものはない。乏しくて小さすぎて、神が用いられないなどという捧げ物はないという教えがこめられている。(森内俊雄「福音書を読む」−イエスの生涯―、日本基督教団出版局、2001年5月21日、初版、78,79頁)

 そして、ご自身の経験を書いておられます。

痛みを捧げる

 あるときに、階段から転落して、左手首を複雑骨折してしまって、かなりひどい損傷で手術も大変手間取ったらしいです。回復にも時間がかかり、痛さがいつまでも残りました。退院して初めて教会へ行った時にも、まだ左手には包帯がグルグル巻きになっていました。その包帯の下の手は手首から手のひらにかけて、固定のために金属のかすがいのようなものが打ち込まれていたそうです。それが、いつもズキズキ痛んでいる状態でした。ミサに預かった後、主任司祭から「痛いですか?」と声をかけられました。それで、彼は隠すことが出来ないから、「痛いです。」と言いました。すると、神父が

 「どうか、その痛みを世のもっと痛める人々のために捧げてください」

とおっしゃったのです。この言葉に、彼は「心の隙間に楔を打ち込まれた気がした。」と言っています。そして、こう述べています。

 私の肉体の痛みはあくまでも自分ひとりのものであって、ただひたすらこれに耐えていくしかない、と思っていた。痛みを覚えるのは、治癒に向かっている証拠なのだから、耐えていればよいとだけしか考えていなかった。

 しかしながら、この世には私よりもっとつらく絶望的な痛みにわが身をさらしている人もいるのである。痛みすら覚えない、極限の痛みもあるのである。私は神父の言葉に衝撃を受けたが、だからといって、それで痛みが消えて無くなってしまったわけではない。だが、痛みの意味が変わってしまった。この自分のささやかな痛みが、誰か知らない、罪なき人の痛みの幾分かの助けになるのならば、この痛みを真摯に捧げようと決心した。(前掲書、80,81頁)

 と言っています。より少ない物でも、それを神に捧げる。そこに、計算できない素晴らしい奇跡が起こります。今日の福音書の箇所は、「聖餐式を象徴している」と、全ての学者が説明しています。「パンの奇跡」の物語は、旧約に書かれている、次のような奇跡に対応しています。

 ひとつは、エジプト脱出の時、食べ物が無くなり、神様がマナを下さったという奇跡、もう一つは、列王記下にあります。エリシャが小麦粉を使ってパンを作り、人々に分けた時、召使が「これではとても足りないです」と言ったのですけれども、それが、どんどん増えていって、全ての人が満腹したという物語です。このふたつの物語が聖餐式を象徴しているのです。

 私たちのホンの小さな、「しかないもの」をソックリお捧げする、それを主がお用い下さいます。それは良いものであっても、逆に先ほどの森内さんの話のような痛みであっても、それを捧げるということによって、他の人々が潤うという、これが神の国なのです。

イエス様に従って、捧げる者がいるところが、神の国です。だから、教会は神の国のシンボルです。

 聖餐式は神の国の祝宴の先取りです。私たちの「しか、ないもの」をそのままに主に委ねる決心をして、お任せします、という歩みのしるしとして、聖餐に預かりたいと願います。そして、私たちも同じように満腹したいと願います。

 祈りましょう。

 主イエス・キリストの父なる神様。私たちはつい、足りないということにばかりに意識が移りがちです。何かを得ると、それを喜んで、いつのまにか所有欲の虜になってしまい、捧げること、分けることを忘れてしまいがちでした。しかし、私たちの持っている乏しいものをあなたに捧げることによって、どれだけ多くの人々があなたによって癒され、満たされるかを、福音書を通してお示しいただきました。感謝いたします。どうぞ、この週も、主イエスがすべてを神様に捧げておられたように、私たちも自らを捧げて、歩んでゆくことが出来ますように。そして、あなたが共に居られということを日々に、しっかり受け止めて歩むことの出来る一週間とさせてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2003年3月2日、降誕節第10主日、第二礼拝説教)