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「決断の動機」

 石川 和夫牧師

 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、

はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、

キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。

与えられる報いに目を向けていたからです。

(ヘブライ人への手紙一一・二四〜二六

 

 先週は、ノーベル賞のことで大騒ぎでした。特に、日本では、一年に二人も受賞者が出るということが初めてのことでしたから、たいへんな騒ぎでした。特に、化学賞を受賞された田中さんの姿がテレビに登場するたびに人々がほほえましく見ていたようです。昨日も京都駅で、富山でのお葬式に行っていた奥さんと受賞後初めて会ったようですが、大勢の人々に注目されながら、テレビカメラマンがツーショットを撮ろうとして、注文をつけられて、「どこに立てばいいんでしょう」とまごついている姿が、とてもほほえましく見えました。そして、久しぶりの再会の感想を聞かれて、「これで、やっと洗濯をしないですみます。」と答えて、その飾らない言葉に人々がドッときていました。

 会社側もあわてて彼を役員待遇にしようとしたり、特別の報奨金を出そうとしているようです。誰もが、ほんとうに良かったなあ、と受け止めています。それに、普通であれば、役員といえば、順番争いとか嫉妬があったりしてたいへんだろうと思うのですが、彼は、昇進を望まず、研究に没頭したいと常々言っているので、会社側も安心して、対応出来るようです。誰も反対する人がいない。これも彼のあるがままで飾らない人柄が人々を自由にさせ、優しくさせているのだと思います。

 昨日の朝日新聞のBE版に、よくご存知の日野原重明先生が「九十一才私の証し・あるがまま行く」というコラムがありました。

 「人には、評価の対象となる面が二面あります。第一には、何を持っているかということ(having)。「外なるもの」を持っている自己を、めいめいが心に描いて下さい。

 これに対して、第二は、どういう人間であるか、ということです。すなわちビーイング( being)です。これも、心に描くことができますか。

 このハビングとビーイングのいずれが真の自分でしょうか。心理学者のフロムが『生きるということ』の中で、「所有を渇望してはならない」と語っていることに一致するはずです。」

 つまり、持っているものは、死んだときに持って行けない。死んでいくときに、悔いを残さないあり方を目指してゆけ、ということです。何を持っているかでガツガツするな、あり方が大事なのだ、とおっしゃっている。これは、私たちが繰り返し学んできていることです。

  「信仰によって」とは

 今日の主題は、「信仰による生涯」で、中心聖書がヘブライ人への手紙一一章二三〜二八節です。この一一章には、「信仰によって」という言葉が、数えてみると二二回使われています。すべてのことが「信仰によって」と書かれているわけですが、先ほど朗読された出エジプト記の二章のモーセがエジプトを離れた記事とヘブライ人への手紙の表現では、かなりニュアンスが違います。

 「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、」(ヘブライ人への手紙一一章二四、二五節)

 旧約の方では、彼は、同胞のユダヤ人が不当にいじめられているのを見て、思いがけず、カッとなってエジプト人を殺してしまい、死体を砂に埋め、言ってみれば、殺人と死体遺棄で、エジプトを脱出して、ミディアンに逃げたわけです。ヘブライ人への手紙で言われているようなかっこいいものではありません。

 私は、このことが、結果として、ヘブライ人への手紙で言っているようになった、ということではないか、と思っています。ヘブライ人への手紙一一章の冒頭に、聖書の中で唯一の「信仰」についての定義が書かれています。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

 ここには、いわゆる信仰用語、キリスト教用語が使われていません。「天地創造の神を信じ、イエス・キリストによる購いによって、自由にされること」というような模範的解答ではなくて、ごく普通の言葉で、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確信すること」が信仰です、と言っている。それから、ユダヤ人であれば、誰もが知っている旧約聖書の人物のいろんな出来事を「信仰によって」、「信仰によって」と二二回も繰り返して、説明しています。

  信仰こそが一番大事

 ヘブライ人への手紙が書かれたのは、紀元八〇年から九〇年頃で、あて先が「ヘブライ人」となっているので、学者たちがいろいろな解釈をしています。ユダヤ人キリスト者であるとか、いや、キリスト者全般のことだ、迫害が近いから、ユダヤ人という言い方はしない、という風に。著者についても、はっきりしません。昔は、パウロとされていましたが、現在では、パウロの影響を強く受けた人、いや、アポロだ、パウロの秘書だ、という具合です。

 しかし、いずれにしても、ヘブライ人への手紙は、ユダヤ教の祭儀、礼拝のことが詳しく書かれていながら、迫害が近い、死の危機が迫っている。だから、信仰こそが一番だいじなんだよ、だから、礼拝をしっかりしよう、集会を大事にしよう、ということを勧めています。

 しかし、その信仰というのが、最初から自分で分かっていて、こうだから、こうするんだ、というのではなくて、モーセが、死体遺棄罪で逃げ出さざるを得なかったのだけれど、それが、ユダヤ人をエジプトから脱出させる、という超大事業をやってのけることに繋がった。

 ミディアンに逃げている間に、自分がそのような大事業をやろうなどとは全く考えていなかった。でも、結果的には、四〇年、羊飼いとして、その地で過ごすのですが、神様に召し出されて、また、エジプトに向かうことになります。いわば、ミディアン時代は、モーセの信仰復興の時代となり、ついに、断固としてファラオとの粘り強い交渉を行い、遂に、ユダヤ人をエジプトから脱出させます。

 私たちの今していることが、どんな意味があるのかは、なかなか分かりません。大事な事を直視しないで、逃げ回る、という人生かも知れないし、ただ、惰性で生きている、ということかも知れない。だけど、大事なことは、そこに神の目が注がれているということを信じる、ということなのです。

 「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」。見えないけれども、神が私を常に顧みておられる、そのことをいつも確認していくこと、だから、このことは神様が私に何をしようとしておられるのか、この事を通して、神様は、私に何を語ろうとしておられるのか、そこに帰っていくことなのです。

  神が見つめておられる

 私は、今日、「決断の動機」と題をつけました。神様に帰っていく、ということが「決断の動機」なのです。これが「信仰によって」ということなのだと思います。それは、場合によっては、無我夢中で、ちょうどモーセがミディアンに逃げたように、恐ろしくて、逃げまくって、ということもあるかもしれない。しかし、それも神の手の内にあるのです。

 今日の福音書(マルコ一四・六六〜七二)では、「主が死ぬときには、私も従って、一緒に死にます」と誓ったペトロが、イエスが逮捕されると、必死になって、あの人を知らないと逃げ続けて、イエスを裏切る場面です。そして、「いきなり泣きだした」(マルコ一四・七二)のです。前の口語訳聖書では、「激しく泣いた」となっています。情けなくて、どうしようもない自分、充分、どうすべきかは分かっていたはずです。でも、厳しい現実の前では、逃げざるを得ない自分を見ると、「なんて情けない自分だ」と、ただ「激しく泣き出す」よりほかにはないのが現実です。しかし、そこにも「振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ二二・六一)イエスの目があったのです。

 「泣いている自分」を神は赦し、目を離さないでおられた、ということをペトロは後になって気づくのです。イエス・キリストの復活という出来事を通して、神はこんな私のすべての過去を生かしてくださって、このようにお用いくださるのだと確信するようになるのです。

 いつも申し上げているのですが、キリスト者にとって呪わしい過去は無くなるのです。そのような過去があるからこそ、今日があるのです。すべてが神の手の内にあるのです。それが「信仰によって」ということなのです。わたしたちの在るがままを、神様がご存知です。なぜならば、そのように神様がお造りになったのですから。意気地が無い、とか、長続きしない、とかいうことも神様全部ご存知でありながら、よーし、ちゃんと受け止めているぞ、とおっしゃっている。そこに、いつも立ち返っていって、「ありがとうございます、また、やり直します」と希望を持ち続けて生きていくことではないでしょうか。

  宇宙から投げかけられたボール

 先ほどの日野原先生は、そのことを宇宙から投げかけられたボールを投げ返していくことが人生ではないか、とおっしゃっています。「神様」とは言っていません。神が私をお造りになった、その目的は何なのだろう、ということをいぶかしく考えながら、でも最後は、このようにおっしゃっています。

 「私たちは宇宙から投げられた「私」というボールを、人生の終わりに、どこに向けて投げ返すべきなのでしょうか。私たちの身体は多くの元素で作られた生き物です。それは年と共に朽ち、最後には欠けたり、壊れたりします。――病気や事故や老化のために。

 そして、このボールは「土の器」でもあるのです。器にどのような水を入れるのか。その土の器にひびが入ったり、欠けたりすると、中に入れられた水はこぼれて大地に吸い込まれます。しかし、この水はやがては植物の根から吸収され、植物に命を与えるでしょう。そのような水を入れる器として、私の人生を終わらせることができれば、と希(ねが)うのです。」

 神様から投げられた「私」というボールは、土の器です。だから欠けるのです。中に入れられた水が漏れる。しかし、その漏れたものもちゃんと生かしてくださる。ほかのものを生かしてくださる。だから、もらさないようにと自分のところで抑えていなくても、神様は、老化ということすら生かしておられる。だから、目を上げて信じ抜いていきましょう。これから歌う讃美歌五七五番に、

  球根の中には 花が秘められ、

  さなぎの中から いのちはためく

  寒い冬の中 春はめざめる。

  その日、その時を ただ神が知る。

と書かれています。「その日、その時を ただ神が知る」のです。そのことを信じ抜いていくこと、それが「信仰によって」ということではないでしょうか。

  (二〇〇二年一〇月一三日、聖霊降臨節第二二主日第二礼拝の説教要旨)