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2002年10月6日 石川牧師説教

世界平和の礎

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、

その杯を飲んだりする者は、

主の体と血に対して罪を犯すことになります。

(コリントの信徒への手紙1:11章-27節)

「なぜ食べるのか」という題の本がでました。

著者は、甲南女子大学の人間科学部人間環境学科教授の奥田和子先生です。「聖書と食物」という副題がついています。私はある雑誌で、この本の書評を読みました。聖書学者たちでは決して書けない、そして食物について目を開かされる、素晴らしい本だと書いてありました。そこで、改めて取って読んでみました。なかなか、本当に面白いです。

聖書に出てくるあらゆる食物がどんなものであったかを考証した上で、旧約、新約を通して、全部網羅しています。コンピューターをフルに使ったな、という感じがしますが、そのまとめを次のように書いていらっしゃいます。

 「今日、食べ物は、美容や健康といった肉体を守るための栄養源として脚光を浴びている。しかし、聖書は肉体ではなく、心を支える栄養源として食べ物を位置づけている。

 さらに、食べ物であるパンとぶどう酒は、イエスの最後の晩餐にちなんで、神聖な契約を再確認する教会での儀式の象徴として用いられる。食べ物が本来の意味を離れ、十字架につけられたイエスの肉と血を意味する、聖体(聖なる身体)としての宗教的な意味をもつことにも注目したい。」(奥田和子「なぜ食べるのか」、日本基督教団出版局、2002年5月20日、初版33頁)

「ふさわしくない」とは?

 今日は、世界聖餐日です。選ばれているテキストはコリントの信徒への手紙1の11章-27節ですが、その前に、いわゆる聖餐式の制定の言葉として読まれている箇所があります。長く教会生活をなさった方は、今日の27節以下の言葉も聖餐式の度に耳にされていたと思います。

 「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」

 これは、洗礼を受けてない人が聖餐に与かってはいけない、と解釈される根拠として使われた箇所です。しかし、よく読んでみますと、パウロはそういうことを一つも言ってはいません。「ふさわしくない」とは、どういうことなのでしょうか。今日の箇所の結びのところを見ますと、

 「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集る時には、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事をすませなさい。」(コリント一、11章33,34節)とあります。

 当時のコリントの教会では、何時間もかけて聖餐式をしたようです。聖餐を含む長い食事が行われていました。そして、コリントの教会の中の裕福な人たちの中には、インテリが多くて、そして異言を語ったり、ある意味の霊的な熱狂に陥って、感激のあまり、聖餐式も昼間から守っていたようです。ところが、貧しい人たちは、夕方まで働いて、それからやって来るわけですから、そのときには、食べたり、飲んだりするものが、もう無い、という状態でした。この状況を聞いたパウロが、豊かな人たちを叱ったのがこの箇所なのです。

 だから、皮肉に聞こえることを言っているのです。

「空腹の人は、家で食事をすませなさい。

裁かれるために集まる、というようなことにならないために。」(34節)

 そんなに食べたかったら、家で十分食べてから来なさい、そうでないと、叱られるために集まるというばかなことになりますよ、というわけです。

「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、

自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

そのため、あなた方の間に弱い者や病人がたくさんおり、

多くの者が死んだのです。」((29,30節)

 「主の体のこともわきまえずに」ということを、これまでの教会では、見当違いの理解をしていたことになります。これが、聖なるキリストの体だ、ということをわきまえずに食べたら裁きをうけるのですが、パウロが、ここで、主の体のことをわきまえるということは、主が何のために、体を裂き、十字架に死なれたのか、をわきまえないで食べる、ということを意味しているのです。

キリストが死なれた意味を

 ルドルフ・ボーレンというドイツの神学者がいますが、彼もこの箇所について、次のように言っています。

 「さて、私たちの聖餐においては、酔っ払いはひとりもいないということは確かです。私たちは、前もって家で食べて来い、というパウロの忠告を、何世紀にもわたって、いたるところで、確実に、守ってきたのです。」(R・ボーレン「キリストの臨在を告げる言葉」、日本基督教団出版局、1995年6月25日、初版、116頁)

 そういう面では、間違いはしていない、ということです。

 「私たちは、聖餐を腹一杯食べる食事とうものから解き放ちます。しかし、そうすることで、キリストの体を、その特別な意味におけるキリストの体をも分離してしまっているのではないでしょうか。私たちは主を、十字架につけられた体を与えられることによって、私たちが一つの『体』になっているのだということ、新しい種族になっているのだということ、新しい神の家族に属するものになっているのだということを承認しているでしょうか。」(前掲書116頁)

 「私たちは決して、コリントの人たちよりもよいやり方で、聖餐を行っているわけではありません。私たちは、聖餐を真剣に挙行すればするほど、誰もが実に、コリントの人たちのように、自分自身にのみ目を向けてしまうものです!誰もが、自分自身のためにのみ、それを受けるのです!」(前掲書116,117頁)

 つまり、パウロが、自分を吟味して、自分をよく確かめた上で、と言っているのは、自分に信仰があるか、どうかを確かめる、ということではなくて、イエスが十字架につけられた意味をしっかり受け止めているか、そして、聖餐に与かるといいうことは、イエスの十字架と復活そのものに、しっかり向き合うと言うことなのだ、と言うことなのです。

 ですから、同じことについて、私もよく引用させて頂いた、モルトマンという神学者は、こう言う風に言っています。

 「聖餐の食卓への招待は、わたしたちのためにご自身を犠牲にされ、死なれたキリストの招きの求めです。貧しき者、罪人たちを神の国の食卓に招くのは、十字架につけられたキリストご自身です。それゆえ、キリストの招きのみ手は、十字架において伸ばされたみ腕のように、食卓を越えて、はるかに遠く、拡げられています。主のみ名による聖餐の交わりへの招きは、世界に開かれ、誰をも締め出すことなく、全ての人を包んでいます。」(J・モルトマン「新しいライフスタイル」、新教新書248、1996年8月31日、初版、129頁)

弱い立場の人に目を向けて

 つまり、パンとぶどう酒に与かるということは、キリストの十字架そのものを目の当たりにするということです。そして、そのキリストを私がいただく。それは何のため?キリストが私たちをお招きになったのは、一方で、私たちの罪を赦すとともに、頼むぞと、キリストが視野に入れておられる全ての人に目を向け、仕えることを含んでいるのです。そして、特に阻害され、差別されている人たちのために、キリストの十字架の手が伸びている、ということを示しています。

 しかし、そのことをわきまえないで、自分の信仰を高めるためにのみ、いい気分になっている。結果的には、同じ教会でありながら、貧しい人が参加できないでいる。それで、「自分達は恵まれた、恵まれた」と言っている人々に対して、パウロは、

 「そんなに食べたければ、家で食べてから来なさい」

 と皮肉をこめて言っているのです。それは、あらゆる人と一緒に聖餐にあずかれ、ということを意味しています。だから、私たちもこの聖餐にあずかる、という時に、ただ自分の罪が、清められたということのみでなくて、何故キリストが私をお招きなっているのか。キリストがなぜ、十字架に死なれたのか、ということをしっかりわきまえる。そのことが、自分をよく確かめることになります。

 自分の隣人関係、あるいは、自分の関心事を見直すと共に、キリストの恵みを自分のうちだけに止めて、閉じ込めてしまうのではなくて、目を広げていく。そして、悔い改めながら、「本当に、不注意で、足りない私を赦してください。そのために、あなたが十字架にかかられました。」と受け止めて、もう一度、目を広く高く上げます。そういう決意が、復活の主とともに、立ち上がることなのです。

 今日は「世界平和の礎」という題をつけました。それは、端的に言えば、イエスキリストの十字架と復活が、世界平和の礎なのです、これなしに、本当の平和はありえません。残念ながら、キリスト教国といわれるアメリカが、先頭に立って、どうしても戦争をしたがっている、としか見えない、言動をとっています。このことに対して、私たちは、とても憂慮しています。しかし、同じキリスト者として、そのことを正さなければなりません。

 特に、戦争においては、お年寄りや子どもたち、病人、障害者といった弱い立場の人たちが一層苦しめられています。それは、キリストが望んでおられることでしょうか?このことを、しっかり訴えなければならないと思います。そういう意味で、今日は、世界聖餐日として、特に、自分の清めのことだけではなくて、私がキリストに招かれた意味、それは弱い人たちに仕えるために、キリストが「私の体を食べなさい、頼んだぞ、とおっしゃっている、そのみ旨を受け止めて、今週も出発したいと願っています。

 お祈りしましょう。

 聖なる御神様、主イエスキリストが、十字架に死なれたのは、全ての人を救うためでございました。そして、キリストが生前、お示してくださったように、人から無視され、また弱い立場に置かれた人々に対して、キリストが常に涙され、また、その人たちの側に立たれた、そのように、キリストの弟子たちが生きるように、とお召しくださいました。今、世界の平和が大きな危機にさらされている時に、私たちは、キリストの十字架によって罪を赦され、新しく生きることをゆるされた者として、私たちの身の回りにいる弱い立場の人々に仕ええることに勇気を持ち、積極的になっていくことができますように、お助けください。キリストの恵みを自分のうちにだけ留めてしまう愚かさに陥ることがありませんように、お助けください。主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン。(2002年10月6日、聖霊降臨節第21主日、世界聖餐日、第二礼拝説教要旨)