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「教会としての家族」

 石川 和夫牧師

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

(エフェソの信徒への手紙五・二一)

 エッセイストの神津十月(こうづかんな)さんが、多分、東洋英和女学院在学中の経験をある雑誌に書いておられます。

 中学生のころ、YWCAの活動で、老人ホームなどを度々訪ねたときのことである。歌を歌ったり、話し相手になったりする私たちに、お年寄りたちのほとんどは喜び、中には涙を流してくれる方もいた。ところがあるとき、私たちの合唱を聞くために集会室に集まるお年寄りの一人が、車椅子を押している職員にこう言っているのが聞こえた。

 「歌をありがたく聞いてやるのも疲れるね。あの子たちはそれで満足なんだろうけどね。こっちはつまらない話まで付き合わなければならないから、参っちゃうよ」

 私は大きなショックを受けた。キリスト教教育の学校の中で、ボランティヤや奉仕活動は、自然と身について、決して「善意の押しつけ」にはなっていない自信があった。だから、そのお年寄りのひとことは衝撃だった。

 学校に戻ってミーティングをしたとき、私はそのことを思い切って言ってみた。

 仲間はみんな言葉を失い、明らかにわたしと同じように動揺しているようだった。でも、やがてだれからともなく、いろいろなことばが漏れてきた。

 「人はそれぞれだよ。歌とか、こどもとか嫌いな人だっているだろうしさ」

 「そういう人はほっとけばいいんじゃない?」

 そのとき顧問の先生がこんなふうに言った。

 「確かに人はそれぞれだと思う。でもね、もしかしたら私たちのなかに、押しつけや自己満足があったのかもしれない。それがお年寄りに感じられたのでしょう。いいチャンス。もう一度、自分たちの気持ちを点検して、どこかに奢り(おごり)がないか調べましょう」

 私たちは、もう少しで投げやりになりそうだった気持ちを、ともすると逆恨みしそうだった気持ちを、反省の方向にもってゆくことができた。(「あけぼの」、二〇〇二年四月号、二頁)

 思い上がらないで

 今日は、平和聖日。どうしても人間というのは、一方的になりがちです。「自分は、いいことをしている」、「自分は愛している」と思い込んで、いつの間にか、結果を相手のせいにしてしまう。こういう傾向があります。家族の間だけではなく、国と国との関係においても起こりがちです。特に、今のアメリカのブッシュ大統領に、その傾向が見られます。これは、平和を妨げる大きな力になります。国と国民の間でも同じです。住民基本台帳ネットワークも国民のためと言いますが、どう見ても国民のためというよりも国のためとしか思えません。

 自分に対する謙遜さ、自分のしていることは、自己本位ではないだろうか、自分は、本当に愛しているのだろうか、自分の愛し方は、これでいいのだろうかという問いかけが平和を作り出すために必要だと思います。

 今日の主日の主題は、「家族」、選ばれているテキストは、エフェソの信徒への手紙五章二一節から六章四節までです。この箇所は、かつては結婚式に必ず読まれていた箇所です。この聖書の言葉を聞いて結婚式を挙げられた方も多いと思います。私もそうでした。

 ところが、最近では、この箇所がたいへん問題となっています。私も十五年位前だと思いますが、何気なしにこの箇所を読んで結婚式の司式をしたのですが、そのときの披露宴で、ある看護婦さんが、スピーチの中で、

 「先ほど、神父さんは、キリストに従うように夫に従え、と言われましたが、それは一方的だと思います」

と言われて私もカチンと来ました。先ほどの十月さんと同じような心境になりました。でも言われてみるとその通りだなあ、という思いもありました。

 教えではなく信仰を読み取る

 聖書は、「神のことば」と言われますが、それは、教えの書とか、お手本という意味ではありません。聖書は、「人の書いた神のことば」です。聖書を読み取るときに、私たちは、それを書いた人の信仰を読み取らなければなりません。それが聖書を「神のことば」として読むことです。信仰を受け止めなければ聖書は聖書でなくなります。

 ですから、今日の箇所もパウロと唱える人の意見ですが、客観的にこれを読むと当時の家庭もしくは家族というのは、奴隷制度のうえに成り立ち、家長がその管理の絶対の責任者でした。

 その夫に対して、

 「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、

妻を愛しなさい」(二五節)

と勧めていることは、やっぱりすごいことかなあ、とも思います。この箇所の私たちに対する大事な意義は、家族あるいは家庭というのは、教会なのだということです。家族もひとつの小さな教会だと勧められているのです。教会はキリストのからだです。キリストがそのかしらです。だから、一番最初に、

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(二一節)

と勧めているのです。「畏れ」というのは、「私はこれだけやっています」と言い切っていることではなくて、私よりもはるかにすべてのことを知っておられる方の前で、私はこれでいいのでしょうか?という心の中の問いかけを持って互いに愛し合いなさいということです。これは、その当時においては画期的な主張だと思います。家族もしくは家庭は、キリストのからだですと教えたのです。その信仰を私たちはしっかり受け継がなければなりません。

 互いに、キリストに対する畏れをもって愛し合う、妻に対しても夫に対しても、子どもに対してもその畏れを失ってはなりません。つまり、いつもこれでいいのでしょうか、という心の中の問いかけを持ち続けることです。

 キリストのように

 「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、

妻を愛しなさい」(二五節)

という言葉の前では、私たちは自分はキリストではないから、そんなこと無理、と開き直るのではなくて、これでいいのか、と問いかける謙遜が求められている、と考える必要があると思います。この「キリストのように」ということについて、上智大学神学部教授のホアン・マシアさんが、こうおっしゃっています。

 「イエスがおっしゃった『私が愛したように愛せ』という言葉を、よく誤解しますね。この『ように』は決して自分のとおりに、ということではないのです。『私は神の息吹の力でもってあなた方を愛した、そのようにあなた方の中にも私の息吹を置きます。もしあなた方が本当に人を愛せるようになったとしたら、それはその息吹のおかげなのです』ということで、これは励ましの言葉なんですよ」(「あけぼの」、二〇〇二年四月号、三三頁)

 キリストが愛されたように愛するなんて、とても無理、とそっぽを向きがちなのですが、そうじゃないよ、お前たちのところに私の愛を残している、その愛はお前たちのところにとどまっている、それがキリストの体としての家族ということなのだとかしらであるイエス様がおっしゃっている。

 キリストの体なのですから、キリストはいつも生きておられる。だから、キリストは家族のひとりひとりを愛し、いつも目を留めておられるのです。 そのことを忘れて、何かが起こると直接対応しようとして事を複雑にしてしまうのです。

 キリストが私たちのところにおられるのです。キリストが私を愛しておられるように、家族のひとりひとりを同じように愛しておられます。その息吹があるのだと信じることこそ信仰者の特権です。信仰を持っていない人はそのことを信じられません。

 共に悩む姿勢を持ち続ける

 マシア神父は、さらにご自分の経験を語っておられます。

 「外国ですが、こんな例もありました。信徒の家庭で十六歳の女の子が一歳年下の弟と関係して妊娠し、堕ろすか堕ろさないか迷いに迷い、母親もどうしたらいいかわからず相談にみえます。こんなとき、ほんとに共に悩むしかできません。苦しいです。」

 このような場合、親は狼狽して、ついつい当人を責めることしか言わない。叱りつけることばかり繰り返して、いつの間にか傍観者になっていることに気づかない。それが余計に悩みを大きくしてしまうのに。

 インタビューアーが

 「そういう場合にも、具体的結論はお示しになりませんか。」

と尋ねると彼は、こう答えています。

 「言えるのは、神様は今、あなたがどれほど悩んでいるかご存じです、そして神様はあなたを信頼しておられる、と。結論を出すにあたっては、言われたからではなく、(受け売りで、誰かに言われたとおりのことを伝えるのではなく)心の底から神の救いを求めるしかありません。最高のものさしは、キリストのようにその人に接すること。これしかない。大変ですよ。解決が見つかるような問題はたぶん、大した問題ではないんです。ほとんどの問題には解決はないのかもしれません。共に悩み、苦しむしかないようなケースは限られた経験としてしか知りませんが、そのときの私の役割は、共に歩み、仮に解決したように見えても苦しみが残る。その人のその歩みをその後もともに歩み続けるしかないですね。」(前掲書、三五頁)

 これが「キリストのように」ということです。「心の底から神の救いを求めるしかありません」と言っておられますが、やっぱり自分たちに起こっていることは自分たちにしか解決は出来ない。だが、そこにキリストが共におられて、信じていない人とも共に苦しんでいてくださる、ということをしっかり信じて、共に悩む。

 立ち上がってくれるのを待つしかない、なんて投げやりになるのではなく、キリストが悩んでおられる、だから、私も一緒に悩み続けよう、そして祈り続ける、そうしているうちに道が開けてくる、そうすると確かに主がこの家を顧みて下さっている、共にいてくださるのだと言うことに確信を持てるようになります。

 単なる方法で解決しようと思わないことです。信仰を持って接してゆく、それが信仰者にとっての唯一の救いの道です。解決できた、ということを喜ぼうとするのではなくて、神様がお前はまだまだ悩み方が足りない、私がこんなに悩んでいることが分かっているかとおっしゃっているかも知れない。それも一人で自意識過剰に、「困った、困った」と狼狽しないで、同じように悩んでいこうという姿勢を持つ、それが、「教会としての家族」ということではないでしょうか。

   (二〇〇二年八月四日、聖霊降臨節第一二主日第二礼拝の説教要旨)