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聖霊を冒涜するな

 石川和夫牧師

はっきり言っておく。

人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。

しかし、聖霊を冒?する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。

(マルコによる福音書3:28、29)

 カトリックに移った方が、プロテスタント教会は窮屈で、カトリック教会は自由だとよく言われます。私もプロテスタント教会は説教中心で、説教のほとんどが道徳的な説教に終わっている気がします。なになにすべき、あるいはすべきでないという種類の説教です。プロテスタント教会で育った方々は、長年にわたって、信者はこうすべきである、こうすべきではないという、そのようなものにいつも追われています。

 そのような道徳的信仰にどっぷりとつかり、「私はそのとおりにできています」と言える人は、大変傲慢になります。逆に、そう言えない人は、いつもコンプレックスをもったままとなり、「自分の信仰は、たいしたことない、恥ずかしいものだ」というようになります。だから、本当に生き生きした歩みにはなりません。

 教会に行くと、建前に従ってものを言う人が多いので、新しい人が入ってきても、ここに自分も来たいという思いが起こらないのではないかと思うのです。プロテスタント信仰の発生の時には、信仰と道徳が乖離していたので、やむをえなかったことですが、信仰が道徳に留まっていることから脱却出来ていないのです。

 信仰は一言で言うと、感性です。信仰は、見えない方を信じるということですから、感性が問われるのです。道徳的生き方だったら、それは目に見えます。目に見える部分の‘良い’とか‘悪い’にこだわるのです。しかし、信仰の世界は、見えない世界が大事なのです。だから、簡単に、‘善い’、‘悪い’を決め付けることはできないはずです。見えない部分をしっかり受け止めることが出来るようになっていくことが大事なのです。

取り押さえられそうになったイエス

 今日の福音書の箇所は‘ベルゼブル論争’という小見出しで、‘悪と戦うキリスト’と主日の主題がついています。

 このテキストを見ますと、「あっそうか、このキリストに、疑問を持ったり、立ち向かったりしているこの連中が悪なので、イエスはそれと戦っているのか」と読めそうですがもう少し掘り下げてよく読んでみます。

 21節に「身内の人たち」が出てきます。この身内の人たちというのは31節を読みますと「イエスの母と兄弟たちが来て」と書いてありますから、どうもイエスの母と兄弟たちのようです。その身内の人たちが、イエスのしていることを聞いて、彼を取り押さえにきました。「あの男(イエス)は気が変になっている」(21節)と言われていたからです。

 私たちの生活感覚で考えると、あまりよくない評判を立てられている身内に対して、取り押さえに来た行動も別に悪いことではなく、ごく普通のことです。ましてや、当時の指導者が、あの者(イエス)は問題だと言えば、取り押さえに行こうとするのは、家族の情として自然のことです。さらに、「エレサレムから下ってきた律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取り付かれていると言い』」(22節)ます。‘ベルゼブル’というのは、悪魔の名前です。端的に言えば、「気が変だ」というのと同じことです。

 イエスの言動は、当時の常識でいえば、「気が変な人の言う事」としか、うつらなかったのでしょう。私たちは、その状況をしっかり受け止めておかなければなりません。そうしないと、「イエス様は正しくて、敵対している人は間違っている」という単純な図式、つまり、イエス様の側に視点を置いて読んでしまいます。そうすると、大事な、大事な意味が見えなくなってしまいます。

律法学者たちは悪か?

 律法学者たちは、福音書では、すっかり悪役ですが、現実には、センスがあり、常識があり、立派な模範的な人たちなのです。聖書もしっかり勉強しています。ですから、彼らがこうだ、と言うと、世間の人たちは、「あっ、そうだろうな」と思います。そのような風潮の中で、身内の人たちが、イエスを取り押さえに行くということがあったとしても、少しも不思議ではありません。

 律法学者たちも、自分が‘悪’だとは思っていません。わざわざ、エレサレムから下ってきて、ガリラヤの田舎までやってきたのは、「これは非常に問題だ。世のためには良くない」という常識的な判断があったからなのです。彼らにとって、イエスが色々行っていることは、‘悪だ’としか見えないのです。それで問い詰めに来たのです。それに対して、イエスが譬えを用いて、反論されたというのが、今日のテキストなのです。

この話の結論は、

「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。

しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

(28,29節)

 ということです。聖霊とは、神が働いておられるということです。聖霊を冒涜することは神の働きを否定するとことになります。人間が持っている善悪の基準で、聖霊の働きを判断してしまうと、神の働きを否定してしまうことになります。そうすると、神がなさっていることが見抜けなくなります。だから、イエス様はまさに彼らの感性を問うておられるのです。

 そして、彼らの感性にチャレンジすれば、自分が十字架にかかって死ぬということをご存知でありました。それでも、あえてチャレンジされたのです。私たちだったら感性の無い人に、「あの人は駄目、ほっときましょう。鈍い人だから」と決め付けます。そして、諦めます。感性の無い人に、物言ったって駄目だと思ってしまいます。しかし、イエス様は感性のない人たちに対し、いつも、あなたたち、おかしい、おかしいということを繰り返し言われました。

 特に、社会的な秩序のリーダーに対して、おかしいおかしいと言いますので、これが社会的な問題になります。だから、底辺の人たちはそうだよ、そうだよと共感するのです。共感が段々広がるということは、このリーダーたちは罪びとたち、つまり、秩序を少しも大事にしていないアブレ者たちを増徴させる、非常によくないことだと思うようになります。

聖霊を冒涜するとは

 「聖霊を冒涜するな」を簡単に言い変えますと、「自分の善悪の知識で決め付けるな」ということになります。自分の常識の範囲では、とても許容されないことであっても、そこに神が働いておられることもあるかもしれないことを受け止めろということです。自分自身がもっている‘善’‘悪’で受け止めるのではありません。

 そうなるためには、自分の中に、‘善’、‘悪’の両方があるということを受け止めることが必要です。‘善’、‘悪’だけではなく、自分の弱さも受け止め、自分の間違いも受け止めます。同時に自分の良さや、長所も受け止めます。あるがままを受け止めるということです。この点、日本人は、苦手ですね。よさを受け止める場合「私はこれが得意で」と言うと「なんて、あれ、傲慢な人、大した事無いのにいい気になっている」となりますし、弱さを認めるのは卑怯で、逃げるのではないかとなり勝ちです。

 この私の長所も欠点も全部ご存知で、「お前を作ったのは私だ、私はお前と共にいる」とおっしゃる方に向かって、どう生きるかが大事です。ですから、この方に向かって、単純に自分を否定することは、‘聖霊を冒涜する’ということになるのです。神が「よし」とおっしゃっているのに、「こんな私は駄目です」と言い切ることが‘聖霊を冒涜する’ということなのです。

 「こんな私は、駄目です」ということは、見せ掛けだけの謙遜ですね。だから、しっかり自分自身のあるがままを受け止めることを始めないと、絶えず聖霊を冒涜していることになる可能性があります。

 聖霊を信じ、神を信じている者が、自分自身をしっかり受け止めないで、自分の善悪を基準にするということが、‘聖霊を冒涜する’ということです。私たちもしばしばそれをしているのではないかということをキッチリ受け止めなければいけないのです。

自分を責めることをやめる

 もう、引退された、大変ユニークな主張をなさっている藤木正三牧師がご自分の本の中でどうして、このように変わったかをおっしゃっている箇所があります。

 30年前近くになりますが、万博問題をきっかけに日本基督教団が荒れていたとき(今も続いているのですが)、その動きの中で藤木先生には「どこか違う、違う」という囁きが自分の中にありました。しかし、それが言えないで、黙っていました。そのような叫びは、その頃ではなくて、もっと前からありました。神学生時代からありました。関西学院大学の神学学部に入って間もない頃に、同級生に自分の罪のことで苦しんでいることを話したとき、

 「君の立場は律法主義的で、罪の赦しの福音への信仰が無い」と指摘されたのです。藤木先生は「そういうものか」と自分で思いました。卒業論文に対して、教授に「教会論が無い」と指摘されて、「ああ、そういうものか」とも思いました。

 「それらの指摘はいずれも正しく、キリスト教の教理として、なにか権威ある客観的な基準のように自分に迫ってきた。だから、罪を深刻に考えすぎるのは、自意識過剰で不信仰であると思い、また教会をキリストの体と、とにかく信じようと努めてきた。しかし、そのように思い、そのように努めれば努めるほど、一般的に正しいと認められている教理に、自分を偽って合わせているような無理が、深く心の底に残ったのである。『違う、違う』という叫びは、何に向かって、どういうふうに叫ぶべきものか判らぬままに、間違いなくその頃からずっとあった。」(藤木正三、工藤信夫「福音はとどいていますか」、ヨルダン社、1992年6月30日、初版、138,139頁)

 「やがて、こういう回復不可能なまでに病的に歪んだ者を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになった。『私は私のままでよい』と私自身を受け取る、それが、神を信じるということなのだと思った時、心の中にあった無理がなくなった。客観的正しさなどおそれる必要はなくなった。というよりは、神の前には客観的正しさなるものは、実は初めから存在しなかったのである。全き肯定をされる神のみが、普遍で唯一の客観的実在であり、人間の世界の内にあるものは、正統的な信仰といえども、相対的で主観的なものにすぎない。信仰は、そのような神を信じる者である故に、人は自分の信仰に、普遍性とか客観性とか正しさとかを求める必要はない。ただ、その主観性と相対性をわきまえておればよいのである。その限度を自覚している限り、どういう信仰を持とうと自由である。神を信じるということは、人間の世界に『これでなくてはならぬ』というものがなく、『あれでもない、これでもない』のであり、その、『あれでもない、これでもない』ものが、『あれでもよい、これでもよい』と受け入れられている、そういう世界、こだわりのない、とらわれのない広い世界を生きるということなのだ。そう思えるようになった時、久しく心の中で叫んでいた『違う、違う』が、押しつぶされるべきものではなくて、そっと取り出して、かたちを与えることが許されているものと、考えられるようになった。簡単にいえば、無理をしないで本音を吐いてよろしい、ということである。」(前掲書、139,140頁)

 藤木先生に言わせると、教会が生きているということは、雑然としていることなのです。色々な人が色々集まっていて、そして、自分の主体性を発揮しているところなのです。

 気味悪い教会は、なんでも統一されている教会です。皆同じようにものを言い、同じように考え、同じように微笑んでという教会は気味悪いと藤木先生はおっしゃっています。その点で、永山教会は、藤木先生のおっしゃる教会に近いような気がします。アバウトだというか、雑然としているというか、だから、困ったなと思ったことがあったのですが、今はそうではなく、この教会の取り柄だと思えるようになりました。だから、これからもっと雑然としてよいのです。

 しかし、礼拝においては、ひれ伏して、「ありがとうございます」と感謝し、同時に、「ああいう人いるから困るな」ではなく、「色々な人がいていいのだよね」と受け止めることの出来る広さ、自由さも必要です。それが、きっと、新しい人への一つの魅力に繋がるだろうと思います。私たちは無理して一所懸命する必要もなければ、がんばる必要もないのです。だから、それぞれに与えられたところで、自分でしたいと思うことをそのまま実行すればよいのではないでしょうか。

 聖霊を冒涜するという皮肉なことにならないためには、主の前に謙虚でなくてはいけないと思います。

 お祈りしましょう。

 私たちの父なる神様。

 限界のある者がしばしば傲慢になります。人や物事を自分の価値観で決め付けて、そして、こうすればいいのに、こうなればいいのにと勝手な期待を抱いては、あなたの聖霊の働きを冒涜しておりました。どうぞ、まずこの傲慢な自分の姿をしっかり受け止めながら、あなたは、全ての人を受け入れようとしておられる愛の方なのだということを体で受け止めることが出来ますように。いつも、へりくだることの出来るものとさせてください。

 主イエスキリストの御名よって祈ります。

 アーメン。