お話を読むライブラリーへ戻る トップページへ戻る
「人間のみの不条理」

牧師 石川和夫

主は言われた。

「何ということをしたのか。」

(創世記、四・一〇)

   聖歌隊によって歌われた讃美歌二一の三八五番は、私の愛唱歌の一つでもあります。特に、四節の歌詞、「この友を包んだ主の光」という言葉は、今、天上にある人を偲ぶときの一番大きな慰めになります。

 この詩をお作りになった方は、今、北海道の札幌近郊、島松伝道所会員の上島美枝さんで、今年四〇歳という比較的お若い方です。讃美歌二一略解によると、「この世の生涯を終えた人の姿に、主を信じて生きる新しい力を与えられる」ことを表現したかったそうです。

 「この友を包んだ主の光」、これは、どのような死に方をされた人にも当てはまることです。これが、私たちの信仰です。そうでなければ、いわゆる悲惨な、あるいは非業の死を遂げた方は浮かばれません。仏教的に言えば、成仏できないのです。私たちには分からなくても、この人も主の光に包まれているのだ、という受け止め方がとても大事だと思います。

  不条理の始まり

 今朝、与えられたテキストは、創世記四章のいわゆる「人類最初の殺人」の物語です。ここに登場するのは、カインとアベルという兄弟です。カインという名前は、「造る」とか、「生み出す」という意味、アベルという名前は、「はかない」とか、「空しい」という意味だそうです。

 四章の物語の作者は、二章、三章と同じ作者とされますが、二章で「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(七節)と書いて、「はかなさ」を暗示していますが、この四章では、その「はかない」アベルがこともあろうに、理不尽に兄に殺される悲劇の主人公になります。

 兄のカインの捧げた農作物が受け入れられないで、弟のアベルの捧げた畜産物が受け入れられたのは、神が牧畜民を愛されたからだ、とか、兄の捧げた物よりもアベルの捧げた物の方が良かったからだというような解釈、これは新約聖書にも見られます(ヘブライ一一・四)が、よく見ますとこの物語には、なぜ神がそうなさったかの理由は書かれてはいません。

 この物語の作者は、神がなぜカインの捧げた物を受け入れられなかったかの勝手な理由付けをしてはならない。ということを言いたかったのではないか、と思われます。なぜなら、人生において、私たちは、しばしば理由のわからない、いわゆる不条理に直面するからです。本当の理由は神様にしか分からない。それを自分勝手に解釈すると、とんでもないことをしでかすぞ、ということを示したのが今日の物語だ、ということなのではないでしょうか?

 不条理な不幸に出会うと、私たちは、よくこう言います。

 「私は何も悪いことはしていないのに、どうして私だけが、こんな目に遭うのか。他にもっと悪いことをしている人間がいっぱいいるのに、あの人たちはしゃあしゃあと生きているではないか」

 人間は、神様と同じように判断を下すことが出来るのだが、その人間の判断には限界がある、神様にしか分からないことは、じっと我慢して、その答えを待つしか、方法は無い。その際、神様は決してその人に決定的に悪いことはなさらないと信じることが大切なのだ、ということを創世記が主張していると思います。

 創世記の創造物語は、単なる地球生成物語ではなく、根源的な人間論です。天地創造の神を抜きにして人間は、しあわせには生きられない。勝手な判断をしないで、悪をも善に変える神を信じなさい、というのが創世記のテーマだと思います。

 カインのささげた農産物が受け入れられないで、アベルのささげた畜産物が受け入れられたのは、神が牧畜民を愛されているからだとか、アベルは、「肥えた初子」だったから、カインのものより良い供え物だったのだ、というような解釈が新約聖書にすら出ている(ヘブライ一一・四)のですが、この記事をよく読むと、神がなぜカインの供え物を受け入れなかったかの理由については何も述べてはいません。

 この作者の言いたいことは、神様がなさることが分からないことがしばしばある、そのとき私たちが勝手な解釈をするととんでもないことをしでかすぞ、ということではないでしょうか?

  善悪の知識の結果

 この記事を素直に読むと、カインはけしからん、というよりも神様は少々意地悪ではないのか、とすら思えます。神様が意地悪なさっておられるのではないか、と思えるようなことが人生においては、よくあることではないでしょうか。

 私たち人間は、他の動物と違って、善悪の知識を持ったがために悲劇を繰り返している。善悪の知識を持って一番最初に起こった事が兄弟殺しという悲劇だったのです。

 「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記二・一七)神様から警告されていた事が現実となったのです。

 罪という言葉は、もともと「的を射はずす」という意味でした。つまり、神様の前での的外れの判断を罪というのです。道徳的な善悪とは関係がありません。だから、創世記には、道徳的には赦されないような出来事が平気で掲載されているのです。

 カインは、兄である自分の供え物が受け入れられないで、弟のアベルのものが受け入れられたことでムッとします。感情的になって、神様から声をかけられてもうつむいて答えようともしません。そして、弟を殺してしまいます。これが逆であれば、事は違ったと思います。

 人間が善悪の知識を持った結果、一番困ることは、比べる、ということです。動物だったら、比べることはしません。ありのままを受け入れています。比べることは、人間だけの特性です。それが優越感、劣等感を生みます。これも善悪の知識を持った結果なのです。

 お兄さんの供え物が受け入れられなかった。これは、お兄さんのプライドを甚だ傷つけた。罪と嫉妬は背中合わせです。比べるから嫉妬が起こる。私が上なのに、どうして、ということになる。それが下の者への憎しみを生み出す。その極みは相手を抹殺したい、という欲求になる。その最も単純な結果が殺人になります。

 三章で、善悪の知識を持った結果が四章の最初の殺人となります。しかし、それにも関わらず、神はカインに呼びかけておられる。カインは、うつむいたまま返事をしようともしません。その挙句、欲求のままに弟のアベルを殺してしまいます。

 それでもなお、神はカインに語りかけられます。「とうとうやってしまったか、仕様の無い奴だ。もう知らんぞ」と見捨てられない。

 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」(九節)

 この神からの問いかけに対して、カインは、

 「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

と憎たらしい返事をします。アベルは羊の番人です。その羊の番人の番人をわたしがしなければならないのか、という訳です。全くの見当はずれの答えですね。

  何ということをしたのか

神様は、更に続けて問い掛けられます。

 「何ということをしたのか。」(一〇節)

 これは、わたしたちの日常においても絶えず問われている言葉ではないでしょうか?長く生きれば、生きるほど、この問いを沢山聞かねばなりません。意識するか否かは別として、わたしたちのしたことに対して、

 「何ということをしたのか。」

と問われていたことを重く受け止めたい、と思います。

 小塩節先生が二七年前に出された随筆集「朝の光さすとき」の中に学生時代、四国の剣山に登ったときのことが書かれています。初めての登山で、春近い季節で、雪は少なかったのですが、かなり凍っていた岩山を先輩に連れられて登山しました。登りは、まだ良かったのですが、下る時が大変だった。一歩、一歩、ピッケルを両手でにぎりしめながら、先輩の後ろをついて行くのですが、新米ですから、次第に取り残されてしまって焦ってしまいます。尖った鋲をうった靴でたしかに岩を噛んだはずなのに、滑ってしまって、あっという間にからだが宙に浮いてしまいました。その瞬間に頭に浮かんだことを書いておられます。

 「ひとは死ぬときに生涯のさまざまな情景を『走馬灯』のように想い出すと聞いたことがある。これがそのことなのだろうか。ほんとなんだな。わたしはチラとそんなことを考えた。」(「朝の光差すときに」、教団出版局、一九七九年九月一〇日、初版、五一頁)

 彼はもちろん奇跡的に助かるのですが、落ちる瞬間、ほんの僅か数秒の間に、頁にすると三頁くらいのことを頭に浮かべていたのです。最初に、佐世保に住んでいた幼いときの近所の悪友が

 「おい、節ちゃん。何ばしちょるか」

と言って姿を消す。次に、敗戦直前の東京で、食べ物がなく貧しいなかで、栄養失調のやせ衰えた妹さんが

 「お兄さま、遅いから、お菓子食べちゃったわよ」

と言って姿を消し、最後に、東大に合格して嬉しくて庭にそびえていたけやきの木に登って枝をゆすっていたそのときのけやきの暖かい枝をにぎりしめているのが、落ちる瞬間に必死に握っていたピッケルと重なって頭の中をよぎったのだそうです。その果てに思ったことが「澄まない」ということだったのです。

 『澄まない』

 このことばが、当用漢字でなくそれ以前の古い漢字で一字一字はっきり文字になって眼前に浮かんだ。自分の手で書いたように文字が鮮明だった。こんなに愛されて一生を送ってきて、わたしはだれひとりをも本気で愛しつくさずにきた。ほんとうには愛し返さずにきてしまった。それがなんとも澄まないことだ。お前は自分以外には誰一人も真実には愛してこなかった。そしてこの短い一生を、ついに永遠につながる道のほうには歩まずに、自分勝手にだけ生きてきてしまった。それも思えば澄まないことだ。いや、なにもかも澄まぬことばかりだった。そして今、ひとり先立っていくのか。」(前掲書五二頁)

 私は、今日、記念する先に天に召された方たちも同じような思いを持たれたのではないか、と想像します。それと同じように、「ありがとう」という思いも持たれたと思います。残された私たちも天上にいる方々に「澄まない」という思いを誰しも抱いておられると思いますが、天上におられる方たちも同じように思っておられるのではないでしょうか。

 カインは、かっとなって弟を殺してしまった。ほんとうは、「澄まない」ことをしたのに、感情的になってしまったときには、そういうことに気づかない。だから、神様に、

 「何ということをしたのか。」

と言われることをしでかす。私たちも神様に、

 「何ということをしたのか」

と言われたことを繰り返してきた。だけど、このようなカインを神様は最後まで顧みていてくださる。カインは結局、楽園から追放されるのですが、神様は、殺されないように、しるしをつけられた、と書いてあります。

 この物語においても神様は、どこまでも味方してくださる、ということを示しています。人間だけが不条理ということを思うのですが、これも人間だけが持つ善悪の知識、つまり浅はかな判断をしてしまう。神様にとって不条理は無いのです。不条理と思えるときには、しっかり神様に問い続けることだ、ということをこの物語は教えているのではないでしょうか。

  カミサマ ゴメンネ

  神様からご覧になると「何ということをしたのか」ということを繰り返しているのだ、ということをしっかり受け止めて謙虚になる、それが信仰なのです。

 小塩先生は、同じ随筆集の中で、信州の戸隠村に行ったときのことを書いておられます。あるお地蔵様を見たときに、毎日新聞に掲載されていた投書を想い出すのです。

 「四歳になる姪が尋ねてきた。一輪の花が咲いたように、明るい一日だった。近くに公園があるので、手をひいて遊びに行った。ひとしきりたのしく遊んで帰ろうとすると、公園のすみにお地蔵さまがまつってある。めいはその前に立ちどまって、おがんでいくという。しゃがんで、両手を合わせ、一生けんめいおがんでいた。

 何といってお祈りしたの。そうきくと、色白の、つぶらな目をしためいは、

 「カミサマ ナニモモッテコナクテ ゴメンネ」

と言ったという。わたしは一瞬心を打たれた。わたしが神仏に祈るときはいつも「ああしてください、こうしてください」と願うばかりである。そして、願いがかなえられなければうらむ。しかし、この子はおみかんのひとつも持ってこなくて、カミサマ ゴメンネと祈ったという。

 かみさまわたしをいい子にしてください、と頼みなさいなどとこの子に言わなくて良かった。そんなさかしらなことを祈らせたら、この四歳のめいの心のすなおさにふれることはできなかっただろう。ぎゅっとこの子の手をにぎりしめて家へ帰った。」(前掲書七三、七四頁)

 クリスマスを間近にして、私たちは神様から「何ということをしたのか」と言われることを繰り返している愚かな者だという認識をしっかり持ちながら、「神様、ごめんなさい」という気持ちでクリスマスを迎えるなら、きっと素晴らしいクリスマスとなることと信じています。

  (二〇〇一年一一月四日、降誕前第八主日、永眠者記念日第二礼拝の説教要旨)