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「聖餐の四つの行為」
石川和夫牧師 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、 主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 (コリントの信徒への手紙一、一一・二六) 今日は、世界聖餐日です。選ばれております聖書の箇所も聖餐式の制定語です。改めて、今朝は、聖餐について学びたいと思います。 今日の題となっております「聖餐の四つの行為」とは、今日のテキストで言えば、二三、二四節の 「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」に示されている三つの動詞、「取る」、感謝の祈りをささげ」、「裂き」の三つの動詞の他に隠れていますが、「配る」という動詞の都合、四つの行為のことです。 この四行為の重要性を証明したのは、礼拝学者G・ディックスです。彼によると 「あらゆる時代のあらゆる式文において、たとえ祈祷文などがどれほど異なろうとも、この四つの行為はすべて共通して守られており、これこそ初代教会にまで遡る聖餐の普遍的枠組みである」(「礼拝と音楽」、一一〇号より) ということになります。つまり、この四つの行為は、聖餐式の最も基本的な行為なのです。最初の二つの行為、「取る」、「祈る」という行為は、主人の行為、後の二つの行為、「裂く」、「配る」は、奴隷の行為を示します。 これらを最後の晩餐において、イエスは同時に行っておられます。主人の役と奴隷の役を同時になさった、ということです。 もう一つ、今日のテキストで注目しなければならない言葉があります。 「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(二四節) 「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(二五節) 「記念としてこのように行いなさい」という言葉が二度も使われています。この言葉が使われているのは、福音書では、ルカだけです。しかも、ルカでは、一度だけ使われている。マタイとマルコには、この言葉は出て来ていません。時代的に考えるとパウロの手紙の方が、福音書の書かれた時代よりも二〇年ないし三〇年古い。 そのパウロが、二三節では、 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と言っています。ここでいう「主」というのは、復活の主から直接、というよりもその当時の教会が主の言葉として代代伝えていた、という意味だと思います。コリントの信徒への手紙は、いうまでもなくパウロが書いたものですが、この聖餐式の言葉は、パウロのオリジナルではない、ということです。だから、ここには、その当時の教会が聖餐式で唱えられていた言葉をそのまま、引用しているのです。だから、この言葉が、今も聖餐式の制定文として使われているのです。 「記念」の意味 では、イエスの「わたしの記念としてこのように行いなさい」という言葉が二度も使われている、ということの意味は何でしょうか? ここで使われている「記念」という言葉は、わたしたちが普段、「記念会」とか、「記念碑」という風に使っているのとは、ちょっと意味が違います。「想起」と訳されることもあるのですが、それでも本来のギリシア語の「アナムネーシス」という言葉のニュアンスを表すのには不十分です。 この「アナムネーシス」という言葉は、単に、過去の出来事を思い起こすというだけではなくて、その事実が今、起っている、ということを知る、という意味があります。ですから、 「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(二四節)ということは、いうまでもなく、イエスの十字架を示していますが、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたことによって、イエスがわたしのために十字架で死んでくださった、ということが、今、聖餐式において起っている、そのことをしっかり確かめよ、ということになります。 同じように、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(二五節)ということも、今、聖餐式において「新しい契約」が確認される、ということです。 「新しい契約」とは、なんでしょうか?それは、神がイエス・キリストの十字架によって、わたしたちを新しく造り変え、過去を問わず、これからも常に共にいてくださる、という保証です。キリストご自身の血によって立てられた契約だから、変わることはないのです。このことを天地創造の神がわたしたちと契約してくださる。これはとてつもない大きな出来事です。 わたしたちに主イエス・キリストご自身が体ごとそっくり与えられている。パウロは、ですから、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを賜らないはずがありましょうか」(ローマ八・三二)と言っています。神は、キリストにおいてわたしたちにすべてのものを与えてくださるのです。そのことが、今、起っている、ということが、「記念としてこれを行いなさい」の意味です。 十字架と再臨の間 さらに、パウロは、締め括りの言葉として、 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、 主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」 (二六節) と言っています。 「主が来られるとき」というのは、いわゆるアドベント、主の来臨のことです。主が再びおいでになる、再臨のときです。「主の死」は、過去の出来事でした。主の十字架の死と復活の時から主が再びおいでになる再臨の時の間にわたしたちは生きています。 その間は、聖餐においてキリストが共におられ、わたしたちの内に留まり、わたしたちを導いてくださることを確認するのです。だから、聖餐において、わたしたちは再びおいでになるイエスにお目にかかるのだ、その日を待ち望むということも確かめなければなりません。 スイス生まれのドイツの神学者、R・ボーレンが、このことについて述べています。 「今日、一人ひとりのキリスト者の、個人的な事柄が大切なのではなくて、聖餐において、神がこの世界の権力を握られるという、もっとも高い意味における、ひそかな国家的事件が語られているのだということです。受難の時と再臨の時が混合してしまうことによって、私たちは自分たちの過去をたずさえたまま、神の到来の出来事の中に引き込まれるのです。」(R・ボーレン「キリストの臨在を告げる言葉」、教団出版局、一九九五年、七四、七五頁) 礼拝は、「みことばを聞く」ということではなくて、礼拝の一部として「み言葉を聞く」のです。さらに大事なことは、礼拝において、神との契約を再確認することです。それを身体で再確認するのが聖餐式なのです。説教に左右される礼拝ではなく(説教は、どうでもいいと言うことではありませんが)、イエス・キリストに出会う礼拝でなければ、礼拝とは言えなくなります。神との契約を再確認して、神に派遣されて出かけてゆく、というのが礼拝です。 世界聖餐日の意義 今日は、「世界聖餐日」です。世界のすべての教会が神との新しい契約に入れられていることを再確認する、という意味で、とても意義のある日です。 私は、先週、あのニューヨークの大事件の直後にアメリカに行って来た宣教師と話す機会がありました。アメリカがいい意味で変わりつつある、ということを聞いて、とても嬉しくなりました。自分たちがすべてにおいて世界一なのだ、という巨大神話が、あっという間に崩された。 この出来事によって、「アメリカ人は目が覚めましたよ」と言うのです。まだ一部の知識層だけかも知れませんが、少なくとも冷静になろう、なぜこんなに一生懸命にやっても反米意識が根強いのか、を考え始めているのだそうです。 ニューヨークとワシントンで流したよりはるかに多くの血を世界で流させ、人々を悲しませて来たことが反米感情を募らせている、ということに気づき始めています。それがブッシュ大統領の言動にも少し表われて、少しでも血を流すことの無いように、という配慮で非常に慎重になって来ている、というのです。 アメリカの多くの教会が報復に報復を重ねるようなことはしないように、祈り始めているそうです。ですから、私たちも軍事的な応援で懸命になろうとしないで、もっと別な大事な貢献の道を探すように日本も変えられてゆくように共に祈りたいと思います。 これから、聖餐に与るわけですが、その前に、ボーレン教授の示された祈りを共に祈って、聖餐に与りましょう。 「キリストがキリスト者において明らかにされるので、キリスト者は新しい魂と体を受けとるのです。あなたもそうなりたいでしょう。完成された人間、新しい人間、キリストがはっきり見える人間になりたいでしょう。必ず、神がそうしてくださるでしょう。だからこそ、食卓への招きが成されるのです。正しい聖餐の準備は、私たちが主の再臨の準備をするということにあります。そのように、聖餐そのものがすでに主の到来に属しているのです。私たちが食し、飲み、そしてまた、主を受け入れることによって、神の国は来たりつつあります。神はひそかに、すべてのものにおけるすべてのものになるようにと、はじめておられます。だから、聖餐は世界政治的な出来事にほかならないのであり、神の権力掌握の一部にほかならないのです。 あなたには赦しがあります。 私たちを罪の劣等感の中に、生かさないで下さい。 あなたには平和があります。 私たちと諸民族を、憎しみと戦いによって、滅ぼさないでください。 あなたには喜びがあります。 私たちを不安と思いわずらいの中に死なせないでください。 あなたには光があります。 あらゆるみだらなもの、暗やみを私たちから取り去ってください。 あなたが与えてくださる罪の赦しをもって、 あなたの平和を、 あなたの喜びを、 あなたの光を、 あなたご自身を与えてくださいます。」(前掲書七九、八〇頁) (二〇〇一年一〇月七日、聖霊降臨節第一九主日第二礼拝の説教要旨) |
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