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「罪人の・共同体」

石川和夫

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、

一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。

(使徒言行録四・三二〜三四)

   今日の主題は、「主にある共同体」、中心テキストが使徒言行録四章三二節から三六節です。

 この箇所には、一番最初の教会の姿が理想的に描かれています。いわゆる原始共産社会が出現していた、と言うことです。これが歴史的事実であったか、どうかは別として、著者のルカがこの個所を通して伝えたかったことを読み取りたいと思います。

 「心も思いも一つにし」(三二節)ということで何を言いたかったのでしょうか?第一に、「心も思いも一つ」という状態が本当にあり得たのでしょうか?ルカの特徴の一つは、あるべき姿を示すと言うことです。イエスの弟子たちも一切を捨ててイエスに従っているし、最初の教会も実に理想的に描いています。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(三四節)とありますが、パウロは命懸けでエルサレム教会の貧しい信徒たちのための募金をしています(ローマ一五・二六)。パウロの記事の方が六〇年頃、ルカは九〇年頃ですから、パウロの方に信憑性があります。だから、当てにはならない、と受け取るのではなく、ルカがそのような表現で何を訴えようとしたのかを聞かなければなりません。

 「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、

皆、人々から非常に好意をもたれていた。

信者の中には、一人も貧しい者がいなかった。」

(三三、三四節)

 この「大いなる力」と訳されている言葉は「奇跡」という言葉が使われています。「人々から非常に好意をもたれていた」と訳されているのは意訳で「恵み」という言葉が使われています。新共同訳では、この「恵み」を人々からの「恵み」と解釈しています。ルカの特徴は旧約聖書をとても大事にしていて旧約で言われていることが、キリストの教会において実現している、ということを強く主張していることです。

 申命記一五・四に

 「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、

必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」

とありますが、そのことがここで実現している。それほどの豊かな祝福があった、と言いたかったのではないでしょうか?とすれば、

「また、使徒たちは大いなる力で主の甦りの証しをし、

大いなる恵みが彼ら一同の上にあった。

なぜなら、彼らの中には乏しい者が一人もいなかったからである」

と訳している岩波訳の方が適切と思われます。

 「大いなる恵みの中にある共同体」が教会だとルカは主張しているのでしょう。そこで私は、今日の題を「罪人の・共同体」とつけました。

二つの意味

 この「罪人の・」ということに二つの意味があります。一つは、「罪人ということを徹底的に自覚している」ということであり、もう一つは、文字には直接現れていませんが「罪人を招かれたキリストの」ということです。

 まず、第一の「罪人ということを徹底的に自覚している」ということについてです。時々引用させていただく藤木正三先生がこんなことを言っておられます。

 「人は何によって一つになるのでしょう。一つの目標を目指すことにおいてでしょうか。思想や信仰を同じくすることにおいてでしょうか。そういうことで一体感を味わう人もあります。しかし、そこには人間への誤解があるように思います。人は共通のものに関わることによって一つになるように見えて、実は、共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはなれないものではないでしょうか。そして、おそらく罪をおいてほかに、その共通の事実に出会い得ないでありましょう。罪において一つ、一体感に内容を与えるのはこれです。」(「灰色の断想」一一一頁)

 つまり、一致の原点は、パウロの

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、

だれはわたしを救ってくれるでしょうか。

わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」

(ローマ七・二四、二五)

の告白にしっかり立つ、ということです。自分の罪の惨めさと同時に、主イエス・キリストによって赦されていることの感謝、この矛盾する両面をしっかり自覚していることなのです。

 罪の自覚こそ信仰の原点と主張している牧師がいます。石井錦一牧師です。

 聖なる神の前に、おのれの罪を告白して、イエス・キリストの十字架による罪のゆるしを信じて生きることは、まず、自分自身との徹底的なたたかいなしにわかることではない。自分が神の前に、いかに愚かなことをくりかえし、傲慢な生活の中に生きてきたかを知らされて、そこから悔い改めて生きるということは、強靭な精神がなければたちむかえるものではない。……ほんとうに罪との徹底的なたたかいを経験した者は、キリスト教が弱弱しい宗教だと思えないはずだ。人間的には、不幸であり、悲劇と思われること、あるいは災いと思われるようなものでも、愛と真実の神を信じたときに、その災いが逆転され、私たちの祝福に変えられる、おどろくべきすさまじい力をもった宗教である。だから逆説的にいえば、罪のただ中で打ちのめされて生きてきたことを、神を信じることによって、はっきりと示された者は、それが自分の人生のすべての問題に打ち勝つ原点となるのである。神の言葉をきき、教会の生活をつづける中で、自己の罪の徹底的な自覚こそ、強く信仰に生きることのできる原点である。」(「教会生活を始める」一二三頁)

 だから、礼拝の始めで罪の自覚をするということが大事になります。こうして初めて神の言葉が自分の魂にしっかり受け止められるのです。

  キリストに招かれた共同体

 その次の「キリストに招かれた罪人」ということ。教会の中にも自分にとって好きな人と嫌いな人がいます。人間ですから、仕方ないのですが、それで済ませてはいけません。どんな人もキリストに招かれた人なのです。キリストが招かれていなければ、どの人も教会にはいません。そのことを厳粛に受け止めましょう。「キリストに招かれた」ということは妥協を許されない一点です。このことが薄らぐと裁き合いが起こります。

 知的障害を持った人たちとの共同体、ラルシュ共同体の創始者、ジャン・バニエ神父は、文字通り「一つとなるために」という本の中でこう言っています。

 「完全ですぐれているからではなく

 イエスがわたしたちをひとつに召し集めてくださると信じるが故に。

 そこにこそわたしたちが連なる場があり

 招かれてそこで成長し、また奉仕します。

 このとき真に、共同体がひとつの身体であることを知るでしょう。

 つまり一人一人がその共同体の一員であり

 イエスによって与えられた

 約束のうちに結ばれていることを。

 どの一人にもその共同体の中に居場所があり、

 ある人が他の人よりすぐれているということがありません。」(前掲書二一二頁)

 すべての人に居場所がある。なぜならキリストが招いておられるから。この厳粛な事実を前にしたとき、わたしたちはある人を変えようとすることではなく、自分を変えるということに目を向けることになります。誰かが嫌いだというときそれは自分の中に共通した欠点を持っているからなのだ、と嫌いに思う自分を変えるのです。そのための自己との徹底的な戦いが必要になります。

  藤木先生は、こうもおっしゃっています。

 「もし、一致が同一を意味するのなら、完全な一致というものは、おそらく存在しないでしょう。そのような存在し得ない一致を求めるから、時には、自説の押しつけをし、時には、虚構の一致に妥協するのです。一致とは、相違しているものが同一になることではなくて、実は、それらが補完し合うことなのです。補完だけが一致なのです。人間はそれほどに深く相違しています。」(「神の風景」四四頁)

  「罪人の・共同体」、それはキリストが主体となった共同体です。そこにこそ、私たちの希望があるのです。 

 (二〇〇一年七月八日、聖霊降臨節第六主日第二礼拝の説教要旨)