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「仕事に執着するな」

石川和夫

 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、

境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、

イエスに言った。

「子供たちが何と言っているか、聞えるか。」

イエスは言われた。

「聞える。あなたたちこそ、

『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』

という言葉をまだ読んだことがないのか。」

(マタイによる福音書二一章一五、一六節)

 先週、教団の出版局へ行きました。「教師の友」の編集のためです。行くと、まるで棚ざらえのように、沢山の本の整理を「信徒の友」のスタッフと一緒になってやっていました。色々な出版社から、誌上で紹介して欲しいと送ってくる単行本や絵本が何年もたつうちに山のように溜まって、十個ほどの段ボールの箱にはいりきれなくなっていたのです。足の踏み場もないほどの本の山です。

 「これをどうするの?」

と聞くと、古本屋さんにただであげるというのです。そこで、絵本を貰うことにしました。ゆりのき保育園に問い合わせると、頂くとの返事だったからです。三つの段ボールのいっぱいになりました。帰りに、おとどけしました。

 本の整理をしているスタッフの一人が、キリスト教美術の本を見ていました。グレコの絵でした。

 「あっ、その同じグレコの『宮清め』の絵を次の週報の表紙に使うんだ。あんまり綺麗だから、一三〇枚分、カラーでプリントしたよ。それ以上だとたいへんだけど、まあ、一三〇枚くらいならね。」

 内心、「すごいね」と感心されることを期待しながら言いました。すると、

 「先生も好きねえって言われるんじゃないですか」という返事が帰ってきました。期待はずれだったのですが、ほんとうにそうだと思いましたから、「そうだね」と答えてしまいました。

 自分は、教会のために一生懸命やっていると思い込むと周囲が目に入らなくなるものです。きっと、誰もが感心するだろうと自己中心的に自分は良いことをしていると、無意識のうちに傲慢になってしまうのです。

イエスさまの暴力

 今日のテキストに登場する神殿の祭司長や律法学者たちが、そうでした。境内で商売していた人たちや両替人も同じです。年に一度の過越の祭りの時期ですから、全世界から巡礼してユダヤ人や神を信じるようになった異邦人たちが大勢宮参りにやってきます。その折に犠牲に捧げる子羊や鳩を用意しなければなりません。

 犠牲に捧げる動物は傷のないものでなければなりませんから、いちいち祭司の検査を受けなければなりません。しかし、神殿で売っているものを買えば、「検査済み」のものを買えますから、旅行者にとって、とても便利でありがたかったはずです。献金もシェケルというお金しか使えませんから外国から来た人たちは、両替しなければなりません。しかし、それも神殿で済ませられます。神殿の側も一定の手数料を取るので、一挙両得だったのです。

 それをイエスは、

 「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、

あなたたちは それを強盗の巣にしている」

(マタイ二一・一三)

と言って、「売り買いをしていた人々を皆追い出し、

両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」

(マタイ二一・一二)

のです。新約聖書に表れるイエスの唯一の「暴力シーン」です。

 もうだいぶ前になりますが、教団総会の席上で「暴力問題」が議論されていた時、ある信徒議員が、

 「イエスさまも暴力をふるわれたんですが……」

と言いました。すると、すかさず、今も第一線で活躍中の有力な牧師さんが

 「イエスさまのは、暴力ではなく、愛のパフォーマンスだ」

と言い返したのです。私は、内心「エー、そんなことあり?」と思ったのですが、聖書の記事は、「良い、悪い」の規準で読むと、とんでもない解釈やこじつけが起こってしまいます。たとえ、イエスさまでも暴力は暴力です。

礼拝で大事なこと

 聖書は、「善悪の知識」(創世記二・九、一七)を越えた価値観で書かれています。なぜなら、愛は善悪の知識を越えて、善も悪もあるがままに受け入れることだからです。聖書は神が私たちを愛しておられることを伝えるために書かれたものです。

 今日のテキストの一四節には、こう書かれています。

 「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、

イエスはこれらの人々をいやされた。」

 旧約聖書のレビ記二二章に、

 「聖なるわたしの名を汚さぬよう、イスラエルの人々がわたしに奉納する聖なる献げ物に

細心の注意を払いなさい。わたしは主である。」

という言葉に始まって、汚れた人も動物も礼拝にふさわしくないと細細と書いています。趣旨は、自己点検に細心の注意を払え、ということだと思いますが、当時のユダヤ人たちは、これを文字通りに受け止めて、汚れていると見なされている障害者や割礼を受けていない外国人は、神殿の奥に入って礼拝をすることを許されていませんでした。

 イエスが、

『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』(イザヤ書五六・七)

と言われたのは、神がすべての人を受け入れてくださっているのだから、人間の方で勝手に汚れているとか、清いとか決め付けてはいけない。みんなが同じ謙虚な心で跪く祈りがなされるところが神殿ではないか、と問うておられるのです。

障害者や外国人、一人前とは見なされない子供たちを排除したままで、どんなに「敬虔」な振りをして礼拝をしても神はお喜びにならない、ということは、それまでの預言者たちもしばしば指摘してきたことでした(アモス書五章、八章、イザヤ書一章、五八章など)。イエスは、境内にいながら、礼拝には参加できないでいる障害者の人々をどんなに悔しい思いでいやされたことでしょうか。

さらに、子供たちが「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞きます。「ダビデの子」というのは、当時の人々が期待して待っていた「メシア」の別名です。「ホサナ」は、私たちを憐れんでください」という意味ですが、王やメシアを歓迎する言葉になっていました。排除されていた子供たちが、イエスを見て、「ダビデの子にホサナ」と叫んだのです。祭司長や律法学者たちは、腹を立てたと書かれています(一五節)。

これに対してイエスは、詩篇の八編三節を引用して答えます。

「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、

あなたは賛美を歌わせた』という言葉を読んだことがないのか。」(一六節)

ほんとうの賛美がお前達には聞えないのか、と憤っておられます。彼らは、自分たちこそが神の御心にかなう礼拝をしていると自負しておりましたし、事実、律法に忠実に神に従おうとしていたからこそ、律法に違反している人たちの有様が我慢ならなかったのでしょう。商人や両替人たちだって、イエスに追い出されてキョトンとしていたのではないでしょうか?自分たちのおかげではるばる巡礼してきた人たちが助かっている、人のためになる、いい仕事をしていると思い込んでいただろうと思います。神様がご覧になってどうなのかに気づくことが信仰なのです。自分で正しいことをしている、人のためになることをしている、と思い込むことではありません。

仕事に専念するな

仏教学者のひろさちや氏の著書「仏教に学ぶ八十八の知恵」(PHP文庫、一九八七年六月一五日、第一刷)に、こんなことが書かれています。

「大乗(仏教)では、(小乗で言う出家至上主義に対して)形式的な出家ではなく、精神的な出家が説かれた。心の中で、『家』を捨てればよいのだ。換言すれば、『家』に執着するこころさえなくなれば、そこに『出家』があるとされたのである。

ということは、やはり大乗においても、あまり『家業』に専念するな、ということにならないか……。仕事を一生懸命やればやるほど、それは仕事に執着していることになる。『専念』ということばと、『執着』という語では、だいぶニュアンスが違っているが、しかし詮じつめると同じものになる。そして、その詮じつめたところから言って、世俗の仕事にあまり一生懸命になるな、というのが仏教の教えであるように思える。ちょっと意表をつく結論になってしまったが、論理的に考えてそう言わざるを得ない。こんなふうに言えば、きっと誤解されるに違いないとの危惧を抱きながら、しかしわたしは思いきってそう断言しておく。

その上で、わたしは、仏教者としての生き方を考えてみたい。それは、こういうことだ――。

世俗の仕事に一生懸命になるな、という事は、何も一生懸命に努力することが悪いのではない。われわれは一生懸命に努力してよいのだし、場合によっては一生懸命に努力すべきであるのだが、ただ少し考慮に入れてほしいことは、人間というものは一生懸命にやればやるほど、どうしても他者に対して狭量になってしまうことだ。自分はこれだけ努力した、だから他人も努力すべきである、と、ついついそんな思いにとらわれてしまう。そうすると、逆に、他人の努力が足りぬように見えてくるものである。

けれども、この世の中では、いくら努力しても酬いられぬ人間がいるのである。生来の能力の差があって、はじめから競争にならない場合も多い。あるいは、失敗した人間もいる。努力主義者は――努力して成功した人は、このような弱者、落伍者、失敗者に対して、ややもすれば思いやりのこころを忘れてしまう。ときには自らの成功を楯にとって、弱者への糾弾をはじめかねない。

仏教が不可とするのは、実はそこのところである。なぜなら、仏教においていちばん大事なことは、弱者への思いやりである。それを忘れて仏教は成り立たぬであろう。そして、その点からすれば、世俗的な意味での成功・不成功などは、まあどうでもよいことなのである。

つまり世俗的な意味での成功・不成功だけが唯一・絶対の価値だと考えず、それに執着しないことである。そうすれば、おのずから弱者に対する思いやりももてるし、なによりもわれわれの生き方が自由になる。

そのような自由な生き方が、わたしは仏教者としての生き方だと思う。」(前掲書一二二―一二四頁)

イエスが言おうとしておられたこともこれと同じだと思います。ほんとうの宗教が強調するのは、この自由です。私たちも逆の傲慢に陥っていないかを省みたいと思います。

(二〇〇一年二月四日、第二礼拝説教要旨)