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「天が開かれる玄関」

石川和夫

イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐ水の中から上がられた。

そのとき、天がイエスに向かって開いた。

……そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞えた。

(マタイによる福音書三・一六、一七)

 今日の主題は、「イエスの洗礼」です。聖書日課の流れは、クリスマスのイエスの誕生に始まり、東方の学者たちが生まれたイエスを拝みに来たこと、そして、ヘロデ王の暴虐から逃れる、エジプト逃避に続いて、つまり生まれたばかりの幼な子時代から一気に成人したイエスの伝道開始に入ります。

 「イエスの洗礼」は、イエスの伝道開始(公生涯)の出発点です。イエスは、当時のユダヤ民衆が預言者として尊敬していたヨハネによって、ヨルダン川で洗礼を授けられました。このヨハネは、当時のユダヤ人歴史家フラビウス・ヨセフスによれば、民衆に正しい生活をすすめ、体を清める洗礼を行っていました。

 彼は、ユダヤ人にとって最大の預言者エリヤ(紀元前八五〇年前後)の姿をほうふつとさせる毛衣をまとい腰を皮帯でしめて、いなごと野蜜を主食にして、荒野で叫びながら民衆に洗礼を授けていました。

 イエスがヨハネから洗礼を受けられたことの意味は、彼の活動の背景から知ることができます。当時、パレスチナには、エッセネ派の運動(紀元前一五〇年から紀元後七〇年)がありました。その中心地は、死海北西岸域の荒野で、第二次世界大戦後発見されたクムラン修道院もその一つです。

 エッセネ派は、太陰暦(月の干満による暦)を採用していたエルサレム神殿中心のユダヤ教正統派に対抗して、太陽暦による共同儀式を行い、彼らが異端と考えるヘレニズム(ギリシヤ哲学)の影響を排して、旧約の律法を頑なに守りました。彼らの特徴の一つに、各自がたびたび体を洗う洗礼がありました。発掘されたクムラン修道院遺跡にも大きな洗礼槽があります。

当時は、ローマ帝国の支配のもとにあったのですが、たびたびのテロ行為に対して、ローマが大軍で押し寄せてエルサレムを破壊するかも知れないという危機感が高まっていました。(事実、紀元七〇年に、エルサレムはローマ軍によって完全に破壊され、神殿は壊滅しました)

ユダヤ人にとって、この危機感が神の最終世界支配(終末)による救いが近いという意識になり、エッセネ派では、かれらの団体の中に終末のメシア(救い主)が現れると信じていました。

ヨハネの洗礼運動は、彼らとは違って、洗礼は各自に対して一回限りでしたが、神の終末の裁きと救いを説く彼の宣教は、この派と深い関連があると言ってよいでしょう。

従って、イエスに対するヨハネの洗礼を民衆は、神の終末の救いのしるしとしての罪を洗い清める儀式と考えていました。しかし、各福音書は、イエスの洗礼を彼が神の子であることを民衆に示す式として示します。罪のない神の子が積みからの洗い清めの洗礼を受ける必要はないと考えたからです。

イエスの洗礼の意味

マタイによる福音書では、ヨハネが「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言っています(三・一四)。それに対して、イエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と答えます(三・一五)。そして、受洗後、天がイエスに向かって開かれ、神の霊が鳩のように降って来て、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞えた、というのです。

各福音書は、この声、と言うか、天からの宣言を通して、イエスが神の子であることを読者に示しています。その由来は、原始教会のイエス復活信仰にあります。イエスが復活によって神の子であることを示したと信じているからです。

では、このことはわたしたちにとって、どういうことを意味しているのでしょうか?

ローマの信徒への手紙六章四節をご覧下さい。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。」

その「新しい命」が、ガラテヤの信徒への手紙四章四、五節に示されています。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言は、イエスを通して、わたしたちにもなされたものでもあるのです。

天が開かれるとは?

春名康範牧師のマンガ説法「人生にイエスを」(教団出版局、九八年三月二五日初版発行)にこんな物語が掲載されています。

「松下竜一著『汝を子に迎えん――人を殺めし汝なれど』(河出書房新社)は、一九八五年一一月二九日に発生した事件のノンフィクション文学です。仮名になっていますが、幸せそうな家族を見ると怒りがこみあげてくるという犯人は、出所間もなく一軒の家に押し入り、主婦をレイプし、二人の子どもも殺し金を奪って逃げました。数日後、また別の家に押し入り主婦をレイプし殺しました。逃走中に警察の前に来たので自首し、自分で死ねないから国に殺してもらおうと願ったというのです。この事件が報じられた見出しに『母恋し、一転恨みに、幸せな家族への怒り噴出』と書かれました。

このニュースを読んだ日本基督教団の一人の牧師が、手紙を書き、犯人に面会しました。三歳で母親に捨てられ、一七歳で父をも失い、子どもの時から愛情らしいものを何一つ受けたことのない犯人の生い立ちを知れば知るほど、この犯人に必要なものは愛だと思って、夫と子どもたちに了解をとって養子にするのです。初めは警戒していた犯人も、本当に自分を受け入れてくれるんだと知って、『お母さん』と言うようになり、裁判を受けて、なんとか生きて罪のつぐないをしたいと考えるようになるのです。しかし最高裁は一九九六年一二月一七日、上告を棄却し死刑が確定しました。

私は、この本を読んで、もし自分がこの犯人のように愛を受けず、ほめられることも、認められることもなく排除されて育ったら、こんなことですむだろうかと不安になりました。人間は、誰でも愛され、認められ、ほめられ、受け入れられて生きるものです。」(三九〜四〇頁)


神の子とされている!

そうです。イエスの洗礼は、私たちに対して天が開かれて、全能の神が、

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

と宣言してくださったことでもあるのです。

 一六世紀の宗教改革者、マルチン・ルターは、

 「神の国はあなたがたのただ中にあるものである。だから、このことを認めようとしない者は、キリストの御国の者となることを好まず、友人たちの中にいようとし、バラや百合の中に座っていようとし、悪人たちとではなくて、敬虔な人たちと一緒にいようとする。おお君たち、神を汚す者、またキリストを裏切る者よ、万一キリストが、君たちのようなことをなさったとしたら、一体、誰が、救われるであろうか。」

と言っています。パウロも、こう言っています。

 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、

御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

(ローマの信徒への手紙八章三一〜三二節)

 わたしたちが洗礼を受けるということは、天が開ける玄関であるということなのです。