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 「逆説的な祝福」 

牧師 石川和夫

 「柔和な人々は、幸いである。

    その人たちは地を受け継ぐ。」

   (マタイ五・五)

 今日の主題は、「教えるキリスト」です。すでに、少し聖書に親しまれた方は、キリストは、しばしば、逆説的に教えておられる、ということにお気づきだと想います。

 例えば、「得ようと思う者は失う」とか、「偉くなりたい者は、低くなれ」とか、色々な場合に逆説的に説いておられる。これがイエスの教えの大きな特徴です。なぜ、逆説的に語られたのか?逆説的に語る、ということは、相手に気づかせる、ということを意味しています。つまり、ある種のショックを与える。

 「得ようと思う者は、捨てなさい。捨てる者は、得るよ」という言い方は、「エっ、私たちの普段の考え方と逆じゃないか」と、まずショックを与えた上で、もう一度考えさせる。そして、ああ、そうか、と気づかせる。

 だから、「耳のある者は聞くがよい」とイエスが言われたことも、言葉づらだけで聞くと、「当たり前じゃないか、耳があるから聞くのだ」となりますが、この言葉にも逆説があります。「ただ、ボヤッと聞いても駄目だよ、気づきなさい」ということです。

 私の信仰では、この気づきを助けてくださる神が「聖霊」なのです。私たちに、「気づきなさいよ」と見えないところで働きかけてくださって、「ああ、そうか」と気づかせてくださるのが、聖霊です。決して、神秘的な経験をさせることが聖霊ではありません。もちろん、時としては、そういうこともあるかも知れませんが、原則的に「気づきなさいよ」と働きかけて下さっているのが聖霊だ、と私は信じています。

 なぜ、神さまは、私たちに「聖霊」として働きかけておられるのでしょうか?それは、「生きる」ということにおいて、「気づく」ということが一番大切だからです。ご経験がおありだと思いますけれど、「気づかない」人ほど困った人はありません。結果的に、ほったらかされるのです。「仕方ないよ、あの人いくら言っても気づかないんだから……」

 その結果、それが悪循環を起こします。「気づかない」でいる間は、それが全部、自分の問題ではなく、人のせいになります。落ち着いていられませんから、「どうして、近頃、人は私に冷たい視線をむけるのだろう?どうも、私が邪魔みたいだ」というような被害者意識的な感じ方をするようになります。

 これも本当は、ハッと気づけば、「バカみたいだったな」と自分を笑い飛ばせるのですが。


  気づきは、生きることの出発点

 つまり、「気づく」ということは、信仰的に言うと、「罪」に気づくということなのです。この「罪」は道徳的な罪ではなくて、本来の意味、「的を射はずす」ということです。自分が見当外れな思い込みをしていた、ということに「気づく」のです。だから、その見当外れがおかしくなるのです。人々がそのように反応するのは当たり前じゃないか、それを全部、人のせいにして……、考えれば考えるほど、おかしくなります。そのように自分を笑えることがユーモアなのです。そして、心にゆとりが忌まれます。この経験が積み重ねられることによって、心のゆとりも少しずつ大きくなってきます。

 イエスは、その「気づき」を与えようとされた。気づくことが「愛」だからです。「気づかない」愛は、愛ではありません。それは、「親切の押し売り」に過ぎません。よいことをしたと満足しているのは、自分だけ、された側は、時によっては、困ったなあ、と心に負担が出来てしまいます。「小さな親切、大きなお世話」そのものですね。

 イエスが逆説的な語りかけをされ、生きられた、ということには、神が人となられた、ということと本質的に非常に重要な関わりがあります。その典型が「死からの復活」ということです。死ぬ、ということが、生きる、ということに繋がる。イエスは、逆説そのものです。そのイエスが逆説の真髄を発揮されているのが、今日の個所です。

  幸いは幸福とは違う

 原文では、「幸いである」という言葉が一番最初に置かれています。だから、昔の文語訳聖書では、「幸いなるかな」と始まっています。この「幸い」という言葉は、私たちが普段使っている「幸福」といっしょにしてはいけません。

「不幸中の幸い」ということとは、根本的に違います。

 旧約以来、聖書での「幸い」という言葉は、私たちの「状態」を指してはいません。これは神との「関係」を指している言葉なのです。しかも、この言葉は、神様に対しては決して使いません。ギリシア神話では、神々が幸いに思った、などという表現があるそうですが、聖書では、神が幸いを感じられた、などという表現は一切ありません。なぜならば、これは、神が人に対して宣言される言葉だからです。神との関係において、神が

「よーし、いいぞ」

とおっしゃることです。だから、一番最初の「心の貧しい人々は、幸いである。」ということも「よーし、いいぞ、心の貧しい人々」ということになります。

 「心の貧しい」ということは、自己中心的で、いつも欲求不満に満ちてガツガツしている人のことです。三十数年前、ドイツの進学者のR・ボーレンは「祝福を告げる言葉」という本の中で、こう言っています。

 「新聞にひとりの男の顔を見たことがあります。テカテカに髪にポマードをなすりつけて、いくぶん前にうなだれて、ふたりの弁護士にはさまれて泣いている男の顔です。ポールマンです。ロース・マリーという娘を殺したと訴えられながら、証拠不十分で釈放された男です。ひどい環境の中を生きてきたひとりの人間です。テカテカのポマードをぬった男なんて、私たちの教会に来ているキリスト者は、むしろ避けてしまうのが普通ではないでしょうか。そして証拠が不十分であれば、私たちはますますそういう人間に対する疑いの思いを深くするだけです。しかし、神はこのような人間のためにこの世に来てくださいました。そのような人間のかしらに罪のゆるしを置こうとしておられます。私たちがちょうどそのような人間をもはや非難することなく、むしろ祝福を呼びかけることを学びさえすることができたら、と思います。もし私たちがアルトマルクト(ヴッパ^タールの盛り場の名)を歩く時に、このことを理解していることができたら、と思います。ペティコートに身をつつみ、ハイヒールをはいている娘、それは天国の人間なのです!」

 私たちの人を見る目が変わらなければならないのです。イエスのような目に変えられること、それが出来ないと「幸いである」と言われないのです。そのために、私たちは敢えて逆説的に考え、受けとめなければならないのです。

  いい人になることをやめよう!

  逆説的に受けとめる、ということは、「いい人になろう」と思うことをやめて、「悪くなろう、悪い人になろう」と決心することです。「私は、ほんとに悪いなあ」という自覚が祝福に至るのです。

 「いい人になろう」と努力している人は、うまくいかないと必ず人のせいにします。なぜなら、自分の動機は間違っていないのですから、間違っているのは人だとなります。ましてや、神様のために、いいことをしようと努力している人は、結果が悪いと、あるいは、期待した通りにならないと腹を立てて、結局、人を切り捨てます。これが「わざわい」なのだ、ということをイエスが主張しておられるのではないでしょうか。いつの間にか、神様に代わってしまいます。

 「こんなに悪い信者はいないなあ」

 「こんなに悪い牧師はいないなあ」

という自覚が祝福にあずかります。こんなに悪い者なのに、どうして、こんなによくしてもらえるのだろう、と小さなことに大きく感動できるようになります。神様が

 「よーし、お前、いいぞ」と言ってくださる声が聞こえるようになるのです。


  避けたい状態が幸い

 今日の聖書の個所で、イエスが「幸いである」と言っておられる八つのことは、どちらかと言えば、私達が避けたいと思っている状態です。

 「悲しむ者」になるよりは、「喜ぶ者」になりたい。「柔和な者」というのは、順接的に聞こえるかも知れませんが、どちらかと言えば、人に無視されやすい。広辞苑を引いてみると、「性質がやさしくおとなしいこと」となっています。いわゆる「いい人」のことです。でも世間では、あまり評価されません。「あの人は、いい人なんだけど、酒を飲むと人が変わる」とか、「人はいいんだけど仕事は任せられないね」という具合です。

 「義に飢え乾く」というのも同じです。いわゆる「正義感の強い人」のことです。妥協をあまりしませんから、頑固者として敬遠されます。

「憐れみ深い」ということも常識離れした変人と扱われやすいでしょう。野良猫ばかり何百匹と飼っているおばあさんのように。

 「心の清い」ということも順接的に聞こえますが、本来の「清い」という意味は、「不純物が無い」ということです。いわば「単細胞」と言われる人々です。

 「平和を実現する」ことも理想主義者と受け取られたり、場合によっては、「非国民」と呼ばれたりします。

 「義のために迫害される」ということは、もはや説明を要しません。とにかく、イエスは、私たちが避けたいとか、場合によっては、軽蔑したり、排除したくなる種類の状態の人々を見直せ、とおっしゃっています。 

 柔和な人々は、幸いである

 一九七三年、当時、私は北海道で、ラジオ伝道をしていました。出入りしている若者たちが「サンゴ礁」という月刊雑誌というか、新聞のようなものを発行していました。その雑誌に、私は「ミニ・メッセージ『人と共に生きる』というコラムを書いていました。その八月号に、こんな記事があります。

 「六月下旬から七月上旬にかけて、北海道の各小学校はいっせいに運動会を開きます。ぼくの友人の牧師の長女が小学校一年生で、初めての運動会を迎えました。ご存知のように、運動会は日曜日にしますね。日曜日は牧師夫妻にとって一番忙しい日です。前の晩に、お嬢さんによく言い聞かせて、朝の礼拝が終わったら、すぐに、お母さんがお弁当をもってかけつけるから、それまで我慢してもらうように約束しました。

 さて、礼拝が終わってから、そんなに遠い所でもないけれど、タクシーに乗って、お母さんが弁当を持ってかけつけてみると、もうお弁当の時間になっていた。ああ、大変だと心配しながら、校門に着くと、そこに、担任の先生に手をしっかり握られて、お嬢さんが待っていた。ただ、それだけですが、お母さんは大変感激されたそうです。どんなに心細い思いで、娘が待っていただろうか、という心配が一度に消し飛んだことでしょう。この担任の先生は、ふだん親たちや同僚からは、ウスノロと言われて、どちらかといえば、バカにされているタイプの先生だったそうです。(まさに、柔和な人を絵に書いたような先生です)しかし、そういう先生だったからこそ、この子が待っているのは、お母さんと彼女が持ってくるお弁当だ、ということを充分に感じとることが出来たんだと思うのです。だから、自分も、弁当を食べないで、クラスからも離れて、彼女と一緒に、校門に立って待っていた。

 これが気のきく先生だったら、自分のお弁当や、友だちのお弁当を分けてやるようにしていたでしょう。そうしたら、あの子の淋しさは、ちっとも癒されなかったでしょう。あの場合に、この先生は、最高の愛のわざを、恐らく、無意識にしていたのです。きっと、このお嬢さんにとっても、生涯忘れ得ない思い出の一つになっていたでしょうし、この経験が、彼女の人格形成に非常に大きな影響をもたらすことだろうと思います。これがほんとうの教育だと言ってもいいのじゃないでしょうか?」

 「柔和な人々は、幸いである」ということは、こういうことだったのですね。気の利く人間には気づかないことに気づくのです。だから、私達が自分に言い聞かせる大事なポイントは、「自分は、ほんとうにダメな人間なのだ」という自覚をどれほど持っているか、ということです。それが、「あなたは幸いだ」と言われることに繋がります。

 だから、私は、信者として、クリスチャンとして精一杯がんばっています、という生き方は、どうしてもとげとげしくなってしまいます。結果的には、人を裁き、自分だけが一生懸命、神様からは、「おい、おい、困ったやつだな」と言われているのに、それにも気づかなくなってしまうのです。

 イエスの逆説的な祝福の意味をよく考えてみましょう。二〇〇〇年の歴史を持つキリスト教もギリシア・ローマ・ヨ―ロッパ的解釈に支配されてきたから、いつの間にか、「ねばならない」という倫理宗教になってしまって、あのイエスの生き生きとした復活の生命を失ってきたのだと思います。

 オリエンタル・アジア的な発想というのは、逆説を本当に大事にします。喜劇人が人を喜ばせているのも、逆説的なパフォーマンスによるのです。逆説的な在り方こそ、愛になります。イエスは、死んでもよみがえる、という逆説を身をもってお示しに成ったのです。

(二月六日礼拝説教要旨)