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 「聖餐式」  

 

           牧師 石川和夫

       

ご挨拶

 石川牧師先生・奥様

 年賀状を拝見しました。私たちも、二〇〇〇年を期して、インターネットを始めたところです。よろしくお願いします。

 ところで、先日の新年合同礼拝では配餐が行われましたが、私たちのように洗礼を受けていない場合はどのようにしたら良いでしょうか。今回は辞退しましたがそれで良かったでしょうか。また、配餐はどの様な機会に行われるのでしょうか。教えていただけると幸いです。 九日の礼拝は都合で出席できませんが、次週に伺います。娘も日曜礼拝を楽しみにしています。このところ暖かい日が続いていますが、お体に気を付けてお過ごしください。

           八王子市  M・T

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 メールありがとうございました。

早速ですが、お問い合わせの聖餐式について、お答えします。

 聖餐式は、キリストが制定された大切な儀式として、キリスト教会が、伝統的に重んじてきたものです。お問い合わせの未受洗者の陪餐については、日本基督教団の教会では、意見が二つに分かれています。

 一つは、伝統的な教会(カトリック教会、聖公会、ルーテル教会など)の受けとめ方に則っている、受洗者のみに限る、という考え方です。特に、カトリック教会では、司祭が祝福したパンとワインは、キリストの体、血そのものになる極めて神聖なものだから、はっきり信仰を告白している信徒のみが、これに与るべきである。そうでないと、キリストの体と血を汚したことになる、と信じています。だから、聖餐式(カトリック教会では、聖体拝領と言います)で、祝福したワインが余った場合、司祭は、それを飲み干さなければなりません。そうでなければ、聖なるキリストの体を放置することになるからです。パンも同じです。プロテスタント教会では、パンとワインは、キリストの体と血のシンボルと考えるのですが、カトリック教会と同じように、この式を聖なるものと考える教会は、受洗者のみに限るとします。

 これ対して、聖餐式は、すべての人が招かれているものだから、受洗者のみに限ることはないとする教会が次第に増えてきています。生前のキリストがお示しになった愛(生き方)から、キリストが最も嫌われたことが差別だった。だから、聖餐式においても未受洗者を排除することは、キリストの御心に反する、と受けとめて誰でも聖餐式に与ってよい、という考え方です。

 こうなると、では、洗礼とは、何なのか、という問いが、あらためて出されてくるでしょうし、さらに、教会とは何か、という根源的な問題にも遡ることになります。

 私は、個人的には、後者の考え方に近いのですが、聖餐式は、単に牧師個人の考え方に左右されるものであってはならない、と私は考えています。

 教会にとって根本的な問題に関心を持って、質問してくださったことをたいへん嬉しく思います。これからも、どうぞお気軽に何でもお問い合わせください。 

 参考のために、この教会で行ってきた「のびのび講座」(キリスト教基礎講座)の「教会と聖礼典」のテキストを添付しておきます。

  教会と聖礼典 

        (のびのび講座―九より

◆神は、人を神の民の一員として召し出される

 神の民が選ばれた理由は、祝福の源となること

 「あなたは生れ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。

 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。

 地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記十二:一―三)

神の民の原型→ノアの箱舟

 「神はノアと彼の息子たちに言われた。

 『わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって地を滅ぼすことも決してない。』」(創世記九:八―十一)

 人と自然の両方に対する祝福

◆教会は建物ではない、人々の群れである

 教会=エクレシア(ギ)=集会、部隊……呼び寄せられた人々の群れ

(祝福の源となるために)キリストによって呼び寄せられた集団 (マルコ三:十三―十五)

そのために

?キリストのそばに置く→キリストとの交わり自由、解放→礼拝(公同礼拝)

?派遣して宣教さっせる→よいニュース(福音)の伝達者キリストのメッセンジャー→伝道

?悪霊を追い出す権能を持たせる最も弱い人々に寄り添う→奉仕

   ↓ 「いやし」(人権回復)に仕える

  人を差別し、阻害する力……病苦、貧困、差別

「最も小さい者の一人」(マタイ二十五:四〇)に仕えるために、教会はある!

◆教会は、「キリストのからだ」である

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ一:二十二,二十三)

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。………一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。………あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
(コリント一 十二:十二、十三、二六、二十七)

「『あなたがたはキリストのからだである』。あなたがたはそのために何かをする必要はないのです。神がすでにすべてのことをなしてくださったのです。神は自由な恵みからわれわれに、われわれがキリストのからだであるということを贈ってくださったのです。このことは、神がわれわれすべてを、その力と栄誉と血と霊とがイエス・キリストであるような一つの生命に堅く結びつけてくださったということです。神はわれわれを、彼の民の中に引き入れてくださったのです。神はこの地上に一つの共同体(ゲマインデ)を選び出されました。その共同体の主はイエス・キリストであり、われわれはこの主に属し、この生命にあずかって共に生きるのです。」(ボンヘッファー「教会の本質」より)

◆聖礼典(サクラメント)とは

 サクラメント(ラ)=訴訟の際に聖所におさめる供託金→「誓約」、「新兵の入隊宣誓」

二つの聖礼典

洗礼=バプティゼイン(ギ)=「水に浸す」

「バプティスマは、水面下に全身を沈め『低みから見直させる』民間儀式であり(マタイ三¨十一、マルコ一¨四)、汚れを洗い流すというような、いわゆる浄―不浄の問題とは関係ないことでした。………イエスにとって、水の中に「身を沈める」バプティスマは、イエスがすべての人に求めるもう一つのバプティスマ、「聖霊の火の中に身を沈める」ことのしるしにすぎません(マタイ三¨十一)。……イエスが彼らに求めたバプティスマは、彼らが身を低くされ、自分に死ぬことであったことは明らかです。それはまさに「聖霊の火の中に身を沈められ」、不純なものがみな焼き尽くされて新しく生まれ変わることにほかなりません。」(本田哲郎「小さくされた人々のための福音」より)

  神の民に加わる入会式

聖餐=ユーカリスト(ラ)、エウカリスティア(ギ)=「感謝」

「一言で言えば、ご聖体を拝食することによって、僕はキリストご自身を迎えるからである。そして僕は、このキリストに命がけで自分の一生を捧げたいからである。『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしにおり、わたしもその人におる』(ヨハネ六¨五六)というイエスの言葉を単純に信じて、主において 常に留まりたいからである。……そして、その糧をいただくのは『これを取って食べなさい。これを受けて飲みなさい』(マタイ二十六¨二十六、二十七)という招きに応じるためである。主がこのように僕たちを招くのは不滅の永遠の新しい契りを結ぶためである。僕たちと切っても切れない密接な絆を結びたい主はご自分の最大の愛を示し(ヨハネ十三¨一)、切に望んでいる(ルカ二十二¨十五)計画を実現するために、このご聖体という手段をお定めになった。」(エドワード・ブジョストフスキ「主をほめたたえよ」から)

 神の民の使命の再確認

◆愛の教習所としての教会 

 愛においてざんげ(罪の告白)

人間となるために教会がある

 公同礼拝  ?愛において恵まれ(新生)愛に向けて出発する(派遣)

◆キリスト一座建立

「一人では、一座建立は出来るものではない。大勢の者が集まり、協力してはじめて一座が建立される。劇団の一座が座頭をはじめ、舞台の奈落の底で働く無名の座員までが、エゴイズムを棄てて脚本に焦点を合わせてこそ一座は成り立つ。」

「人生もまた、善人悪人によって、一座が建立されていく。舞台上でこそ、いがみ合い・争い・わめき・怒るが、どん帳がおりて楽屋にもどれば、善人も悪人もないではないか。」(松原泰道「こころの杖ことば」 全国青少年教化協議会 昭和五十一年九月一日 第2刷)