2010/08/15
「神の台本を演じる」 マルコ10・46〜52
(MP3)
聖なる中断(--週一の礼拝に出る--アクシデント”大事なことに気づかせる”--) 石川 正一(詩「年賀状」--十七才の筋ジス患者--「たとえぼくに明日はなくとも--車椅子の上の17才の青春」--たとえぼくに明日はなくとも--たとえ短かい道のりを歩もうとも 生命は一つしかないのだ だから何かをしないではいられない 一生けんめい心を忙しく働かせて 心のあかしをすること それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている 釜の火は陶器を焼きあげるために精一杯燃えている--死の受容とはあきらめることではない--残り時間を大切に生きることでよりよき死を迎えようとする新たな人生の歩みを意味する--筋ジスの人生を神様から選ばれて与えられたと信じているからこそ懸命に生きた結果を神様にゆだねるという信仰が成立する--) 私たち一人一人に人生の台本がある 高柳富夫(「新しい創造の神学」--神の姿に似せて--身体的歴史的存在として--”神様から役割が与えられていて「頼むぞ」といわれている”) 小塩れい(「おばあちゃんの八十のポケット」--節先生が小さいころ母が乳腺炎になった--敗血症を起こした--医者はさじを投げた状態になった--父は母に「九八パーセントは死ぬそうだ」と告げた--母「子供たちは」--父「任せなさい」--母「だれに」--父「主に」--死後の未来は--任せなさい主に--どんな具合になるのでしょうか--人間の私にそれはわからない、今までも導きたもうた主は未来もまた善きに導きたもうに違いない、信じて任せなさい--あなたが葬式をしてくださいますか--してもいいがやめよう。乱れると見苦しい--母は夫というよりも牧師を感じた--その時から不思議と湖面のごとき安らぎを得ましたといった--) 聖なる中断に出会ったとき(--神は「お前、台本をよく見ろ、台本から外れているぞ」と言われている--)