2006/02/05 「どうしてそうなるのか」 マルコ 4:10〜12、21〜34  (MP3)   
 からし種(--けし粒ほどの大きさから鳥を宿すほど"家の軒先にまでとどくほど大きな形になる"--) 生命力(--見えない部分に働いている生命力--神の力--私たちはその中に招き入れられている--どうしてそうなるのか知らない間に成長させられている--) 
 ヘルマン・ホイヴェルス神父(--最上のわざ"老年期になった時の祈り"--神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--)
  農業従事者の話(--作物の育つ姿に神を感じる--)
 少数者であっても(--劣等感を持つ必要はない--私たちに働いている永遠の命が私たちを次の完成に向かって用いてくださっている--)
 ど根性大根(--保存されたDNAから新しい芽が出る--)

2006/02/12 「聞く耳のあるもの」 マルコ 4:1〜9  (MP3)   
 キリスト教は道徳的な宗教か(--人間は、罪を負って生まれてきているという「原罪説」--聖書が伝えているのは、人間は、善なるものなのだという「性善説」に立っている--見当はずれの判断と行動をキリスト教では、「罪」と訳したために、正邪善悪にとらわれる道徳的な宗教となってしまった--)
 種を蒔く人(--自分でもそのように努力したつもりですが、実りがあった実感がしませんでした--)
 盤珪禅師(--妙心寺住職--NHKテレビ「宗教の時間」で般若心経のお話し--禅は心を大切にします。心に気づくことが大切なのです。心とは鏡のようなものです。般若心経に、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」という言葉があります。生まれず、滅びず、穢れず、清められず、増えも減りもしないという意味です。これは鏡と同じです。たとえば、馬の糞を鏡は映します。でも、鏡自身は、それで汚れるわけではありません。何かが起こるわけではありません。また、きれいな花を映します。きれいになったつもりになっても、鏡が変わったわけではありません。この様なことに気づくことが大切です。自分の心が見当外れな事を考えていることに気づくことが大切なのです。このことに気づけば仏になります。自分も、他人も仏に見えてきます。仏になれば楽になります。このままでいいのだ。何をしなければいけないと、がたがたする必要はないのです--)
 良い土地(--わたしたち造られたままの本来の姿、皆な良い地だ、皆な神の子だ--) 実り(--自分のことに気づいた心の豊かさでもあるのです--)
 柳沢桂子(--生命科学者--一ミリにも足りない細胞から一人の人間が生まれるということはとても不思議なことだと言っておられます--「般若心経の心訳」--車椅子で外に出かけたとき、上品な年配の婦人が、「おたいへんですね」と丁寧に声をかけて、通り過ぎました。そのとき、彼女は、哀れみを受けたと、嫌な気持ちを感じ、それを引きずって、落ち込みました。ですが、そのあと、「あっ、自分でそう思っただけ、鏡なんだ、そのままで良いのだ」と気づき、この問題から離れられ、うれしくなりました。あちらが善意で言ったことを、どうして、いじけて受け取るのだろう。受け取った自分が情けないと考えるのではなく、また、良いとか悪いとかにとらわれるのでもなく、「あぁ、見当違いをしているのだ」と気づくことにより、豊かな気持ちなったということです--)
 聖書(--分かりにくいなと引っかかったところを、正直に、素直に受け止めること、このことはとても大事なことです。おかしいな、わかりにくいな、というところには、必ず、大事な意味が隠されています。こんなことが分からないでと、あきらめるのではなく、すぐに答えを見つけようとせずに、じっくり待ちましょう。ダメだ、と結論をつけないで、「分かりにくいな」という思いをそのまま残しておくと、いつか必ず分かるときが来ます--)
 「聞く耳があるもの・・」(--わたしたちには聞く耳があります。駄目信者とか思わないでください。神様はそのようには、思っていません。「頼んだぞ」とお招きになっています。感謝して生きたいと思います--)
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「分類キーワード(信仰)」

2006/02/19 「呼吸が合って」 マルコ 2:1〜12  (MP3)   
 息を合わせる(--イエス様も私たちに息を合わせようとなさっている--) 礼拝(--神様の息を感じるとき--) 
 奇跡(--信仰の結果--)
 小室雅子(--7歳のお子様"いまりちゃん"を交通事故で亡くされた--家族が落ち込んでいるとき--お兄さんが「"いまり"がいなくなったのは誰のせいでもないよもともと神様につかえている一人の子供でみんなで鬼ごっこをしていたのだ。それで、あの世とこの世をつなぐ橋を渡って間違えてお母さんのおなかに入っちゃったんだ、だから帰って行っただけだよ」と言った。--母との息があった-- "原作:石牟礼道子(『苦海浄土』の朗読劇を演じた"--もっともっと生きたかっただろう娘を思えば、癒されようとか、安堵したいとか、そんな風には考えられない。悲しみは乗り越えるものではなく、悲しみを友にすることだと気づかされた--生きることや死は与えられた生を悲しみと添って全うして、おおいばりで"いまり"と会える日を楽しみにして--)


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