キリスト教は道徳的な宗教か(--人間は、罪を負って生まれてきているという「原罪説」--聖書が伝えているのは、人間は、善なるものなのだという「性善説」に立っている--見当はずれの判断と行動をキリスト教では、「罪」と訳したために、正邪善悪にとらわれる道徳的な宗教となってしまった--)
種を蒔く人(--自分でもそのように努力したつもりですが、実りがあった実感がしませんでした--)
盤珪禅師(--妙心寺住職--NHKテレビ「宗教の時間」で般若心経のお話し--禅は心を大切にします。心に気づくことが大切なのです。心とは鏡のようなものです。般若心経に、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」という言葉があります。生まれず、滅びず、穢れず、清められず、増えも減りもしないという意味です。これは鏡と同じです。たとえば、馬の糞を鏡は映します。でも、鏡自身は、それで汚れるわけではありません。何かが起こるわけではありません。また、きれいな花を映します。きれいになったつもりになっても、鏡が変わったわけではありません。この様なことに気づくことが大切です。自分の心が見当外れな事を考えていることに気づくことが大切なのです。このことに気づけば仏になります。自分も、他人も仏に見えてきます。仏になれば楽になります。このままでいいのだ。何をしなければいけないと、がたがたする必要はないのです--)
良い土地(--わたしたち造られたままの本来の姿、皆な良い地だ、皆な神の子だ--) 実り(--自分のことに気づいた心の豊かさでもあるのです--)
柳沢桂子(--生命科学者--一ミリにも足りない細胞から一人の人間が生まれるということはとても不思議なことだと言っておられます--「般若心経の心訳」--車椅子で外に出かけたとき、上品な年配の婦人が、「おたいへんですね」と丁寧に声をかけて、通り過ぎました。そのとき、彼女は、哀れみを受けたと、嫌な気持ちを感じ、それを引きずって、落ち込みました。ですが、そのあと、「あっ、自分でそう思っただけ、鏡なんだ、そのままで良いのだ」と気づき、この問題から離れられ、うれしくなりました。あちらが善意で言ったことを、どうして、いじけて受け取るのだろう。受け取った自分が情けないと考えるのではなく、また、良いとか悪いとかにとらわれるのでもなく、「あぁ、見当違いをしているのだ」と気づくことにより、豊かな気持ちなったということです--)
聖書(--分かりにくいなと引っかかったところを、正直に、素直に受け止めること、このことはとても大事なことです。おかしいな、わかりにくいな、というところには、必ず、大事な意味が隠されています。こんなことが分からないでと、あきらめるのではなく、すぐに答えを見つけようとせずに、じっくり待ちましょう。ダメだ、と結論をつけないで、「分かりにくいな」という思いをそのまま残しておくと、いつか必ず分かるときが来ます--)
「聞く耳があるもの・・」(--わたしたちには聞く耳があります。駄目信者とか思わないでください。神様はそのようには、思っていません。「頼んだぞ」とお招きになっています。感謝して生きたいと思います--)
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