2005/08/07 「血縁を超えて」 マタイ 12:43〜50  (MP3)   
 父の御心を行う(--平和を作り出すということにつながる--)
 鈴木和男牧師(--「説教者のための聖書注解、マタイによる福音書」、日本基督教団出版局--「わたしの――」という所有格が重大である。教会の存在のいっさいは、この、「わたしの――」と言われるイエスにかかっている。「ここに、わたしの母、わたしの兄弟がいる」といい、「これが、わたしの兄弟、また姉妹、また母」と言われたイエスのこの一語は、「外に立つ者ら」(これは46節にある、同じ輪の中にいない、外に立っていたものたち、わたしは別だよ、とみんなから離れて立っていた人たちのことです--)
 平野美津子(--「たくさんの愛をありがとう」日本基督教団出版局--夫・達郎が悪性の脳腫瘍で突然倒れた時から、私たちの家族関係は変わったのではないでしょうか。「戦友」という言葉はちょっと大げさかもしれませんが、子どもたちとは、楽しさ、うれしさ、暖かさばかりでなく、悲しさや辛さや悔しさすべてを分かち合う仲間になりました--"お父さんを天に送るという悲しい出来事なのですけれども、にもかかわらず、病気の最中でも、笑いの絶えない家族だったそうです。そして、みんなで一つのものを見ているときに、そうだ、そうだと支え合いながら、お父さんが天に帰ったとしても、この笑いは、失わないようにしようね、とみんなで話し合ったそうです"--)
  血縁(--兄弟姉妹、あるいは家族というとき、血縁だけが、家族なのだと考えると、とたんに、関係が冷えてしまいます。家族なのに……という甘えが生まれて、一人ひとりが見えなくなってしまいます。家族であるという前に、一人の人間であるということを知って、そのことを受け止めると、もう少し理解が進むのではないでしょうか。逆に、また、家族でなくても、血縁ではなくてもイエス様と一緒に、その人と一緒に立とうとするときに、イエス様が、わたしの兄弟、わたしの姉妹と言ってくださいます--)
  平和(--戦争がないことだけを平和と言っているのではなくて、神様の前の平和が必要です--)
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2005/08/28 「かけがえのない一人」 マタイ 18:10〜20  (MP3)   
 星野富弘(--「もも」--たべないでしばらくながめていよう すこしはやさしいこころになれるかもしれない--) 迷い出た羊(--マタイ"山に残す""神さまのいるところ--教会を示す"--ルカ"野原に残す""悔い改めて戻ってくることを期待している")
 ジャン・ バニエ(--ラルシュ共同体--「ひとつとなるために」--ところで、どの一人も体の中にそれぞれの場所があるのです。そしてイエスは一つの体を作るように、私たちを呼び集め、主が私たちを愛されるように、私たちもお互いに愛し合いなさいといわれます。主は私たちを招いて共同体という愛とめぐみの奇跡を生きさせてくださいます。共同体の体は一つ、信仰も一つ、飼い主も一人です。--一人一人が同じではなく、また渾然一体となるのでもありません。なぜなら渾然一体とはしばしば混乱を意味します。そんな共同体ではなく、そこでは必然的に人間関係や真理の面では緊張や痛みも存在する。また不満の感情も起こりうる。そのような共同体です。それは信仰に基づいてたてられ、招かれて一つの体にされたという確信をもって造られるべきでしょう。--共同体を作るとき必ず起こる葛藤は神の与えられるものですがそれを受け入れて初めて私たちはそれが賜物だと知ります。しかも一度限り受け取ったというのではなく、毎日毎日祈り、求め、労苦して得なければならないものです。--)


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