2005/05/01 「子になる祈り」 マタイ 6:1〜15  (MP3)   
 祈り(--すでに聞かれている--)
 アッバ(--お父ちゃん"幼児語に近い"--信頼関係にもとずく--イエス様と一緒に祈る--)
 ヘルムート・ティーリケ(--神学者--「主の祈り」--祈りにおいて大切なことは我々がある特定の懇願ではなく我々が父なる神と結ばれ人格的な交わりに入るということである"本当のお父様に向かって祈っている--"--ただ心から愛する天の父よというだけであっても可でに祈りの大切な点は満たされているのである--)
 洗礼(--私はあなたの子ですということわ確かめる--)
 八木重吉(--主の祈りはめぐる--天と地と人間とを貫きてめぐる--突如として来れども--天にいますわれらの父よの呼ぶ声はあらゆるものの種なり--この種は神のまきたまえる初めの種なり--見えきたらんとするもの呼ぶがゆえに我も呼ぶ--そのもの我に呼ぶ心動かす如し--)
 晴佐久昌英神父(--「主の祈り」--清貧"私たちが持っている永遠の父以外何が必要なのか"、貞潔"神さまあなたの関係こそを一番大事にする"、従順"神さま、自分の考えではなくあなたの考えで生きていきます"--)

2005/05/08 「もう、大丈夫」 ルカ 24:44〜56  (MP3)   
 昇天(--三好迪”みよしみち”--新共同訳新約聖書注解--「昇天」とは、キリストが見えざる神の領域に入り、見えざる神的な力に満ちたという復活体の側面を表現する用語だが、ルカは神の救いの歴史――時空に規定されたもの――を伝えるという立場から、時空に位置づけられた別れと言う意味を「昇天」の中心にする-- キリストの可視的昇天という形の資料伝承はルカ以前には存在しない--)
 伏し拝む(--礼拝をする--本当に、イエス様は神様なのだ--)
 思い上がるな(--イエス様の頭の上に、金ピカの輪が付いた偶像--教会の外に救いなし、というような大変傲慢なあり方をする--神の救いが既に完成しているのに、教会を通らなければ、救いは無いという傲慢さ、それは次第にキリスト教だけが本物の宗教で、ほかの宗教は全部間違いというような驕りにつながります--)
 笠原芳光・佐藤研(--春秋社--「イエスとはなにか」-- キリストという呼び方はいやだ”イエスを偶像化したから?”、という人もいれば、それはどうでもいいけども、今のこれは違うとか、そのような極めて批判的に聖書とイエスについて議論をしている本--)
 荒井献(--「イエスと出会う」--岩波書店--彼女も生身の人間だった。入院したときも、毎晩のように、戸をたたいて、早く帰りたい、帰りたいと泣かれたこともあった、そのように、人間的な側面を十分持っていた--もし、恵津子に真実の意味におけるクリスチャンらしさがあったとすれば、それは歓喜の絶頂にあっても、一番うれしいときであってもなお、人間の内なる闇を見据えていたこと--)
 「無条件」が「条件」に?(--神さまは無条件で罪人を赦してくださる、と言いながら、よく注意してみると、無条件ではなく、条件がたくさんあるのです。  「無条件」が「条件」になっています--)
 そのままで大丈夫(--「大いなる然り」をいただいているのが、この礼拝のときなのです。何が足りないとか、そのようなことを言う前にまず、満ち足りていることにしっかり目を向けなさい。そして、満ち足りていながらまた、一方で足りないぞという、その両面があって、初めて健全になります。足りない、足りないでばかりいたら、いつも落ち着きを失ってしまいます。あるいは、欲求不満の塊になってしまいます。満ち足りた。それだけでいると独りよがりになります。そうではなくて、何時でも、その両面がある。そして、それを神様が「よし、いいぞ」とおっしゃっていてくださっています。礼拝はそういう自分を発見する機会なのだと思います--)
詳しくはこちらをご覧ください

「分類キーワード(教会)」

2005/05/15 「さわやかな風が」 マタイ 12:14〜21  (MP3)   
 山浦玄嗣(--聖霊"物ではなく、事であった"--風、息--息は呼吸であり、命であり、命は魂であり、心であり、こうしたものはすべて風であった--) 
 三位一体(--慈しみ"父なる神"--息吹き"聖霊"--イエスキリスト"情け"--)
 聖霊降臨(--第三者から見ると何かに憑かれた状態と見える言葉のイメージがある--)
 聖霊(--どこか遠くにあるものではなく、いつも私たちのそばにいる--礼拝の中で生き生きと働く聖霊--)
 晴佐久昌英(--「映画館での聖霊降臨」--) 

2005/05/22 「保証書付き」 マタイ 11:25〜30  (MP3)   
                                                 
 山浦玄嗣(--グレコの聖画「聖三位一体」この絵の説明ではよくわからない--一体三位といったほうがわかりやすいのではないか”一人の方の三つの顔”--)

 行届いた神(--人となられた神--愛、信じることを具体的にあらわされた--)

 聖霊(--私たち自体が生かされていること”-神から息を吹き込まれたもの”--遠いところにいて呼ばなければ来ない存在ではない”私たちの周りに満ちて、私たちを生かしている-”--)

 平沢弥一郎” 平澤 彌一郎--ひらさわ やいちろう”(--運動生理学者--医学博士--「心配無用--生きていること”詩”」--息をしている 起きているときも 眠っているときも わたしは息をしている だがわたしは息をしようとはしていない 心臓が動いている 勝手に動いて休まない なぜだろう ふしぎなことだ そうだ 呼吸も心拍もその働きは自分の意思や努力とは一切無関係なんだ 生きようとしなくてもちゃんと生きている だからわたしは何も心配しなくていいんだ こいつはすごいことだ--)

 生かされている意味(--倫理的キリスト教--年を取ると劣等感信者になる--)





←グレコの聖画「聖三位一体」
 




2005/05/29 「やり直せる」 マタイ 3:1〜6  (MP3)   
 笠原 芳光(--毎日新聞夕刊に87年から92年まで掲載されたコラムを収録した宗教論集。吉本隆明、中村雄二郎、河合隼雄、鶴見俊輔、上野千鶴子ら5人との対談--「宗教の森」--道徳と宗教はどう違うかと尋ねられ、とっさに「道徳は安全な思想で、宗教は危険な思想だ」と答えた--道徳”社会のルール”--宗教は時として道徳に反するものとなる場合がある。殺人のような悪事を犯した人はもう生きていくべきではないのか。そんな悪人がなお生きることができるのは何らかの意味で宗教によるほかはない。しかも善人もいつ悪人になるかわからなん存在である。悪人をも救うのが宗教であるとすれば宗教は危険な思想である--人間は安全な道徳だけでなく時には危険な宗教を必要とする--)
 悔い改め(--物事を判断するときの視点、立場を移す--自分の心の位置をそっくりかえる--)
 遠藤周作(--「神と私 人生の真実を求めて 」--朝日文庫--罪には再生の可能性がある--罪の中にも救いがひそめられている--大事なことは否定ではなく転嫁”悔い改めねメタノイア”なのだ--)

  
                                                                                                          ページのトップへ戻る