信じる(--わたしたちの力で、可能になるのではなく、わたしたちの内にいて働いてくださる聖霊が、信じる心を与えてくださるということ--誰も聖霊によらなければ、礼拝に出席することは出来ない、と言い換えることもできます--信仰を持っているということは、わたしと違う方が、善意を常に持って、わたしを守り導いてくださっている、と信じているということです--)
証し(--うまくいった話、信じたおかげで、駄目だったのが、このように良くなりましたという、成功物語につながらないと、信仰の証しだと思わない傾向が強かったのです--失敗も素直に受け止めるという勇気がなければいけません。失敗ばかり繰り返しますと、わたしの信仰はどこに行ったのだろうと考えてしまいがちです。あるいは、何か悪いことがあると、わたしの信仰が駄目ですからというように、成功するか、失敗するかと区分けして考えてしまいます--)
加賀乙彦(--作家--「あけぼの」、2000年1月号"対談"--信仰というのは「向こうからやってくる」--57歳のときに、洗礼を受けました。上智大学で、教えたり、その前には、フランスに留学して、いろいろな神父さんと知り合って、キリスト教とは近しかったのですが、何とはなしに、その年まで、洗礼を受けるには、至っていなかったのです--では、どうして洗礼を受ける気になったのですか、と問われたときに、信仰というのは「向こうからやってくる」と答えました。自分で、御釈迦様とキリストのどちらが偉いかを考えて、キリストを選んだというのではなくて、「向こうから、わたしのほうに来た。それがキリストだったのだ。もしも、向こうから来てくれなかったら、わたしはいまだに不信の徒だったのではないか。信仰を持たない人間のままで、いたかもしれません。どうして、と言われても、うまく説明できません。何かがきっかけで、信じるというように変えられました」と言いました--「それでは、信じて、何が変わったのですか」と聞かれたときに、加賀さんは、ぼくは自然科学を学びました。その世界はすべて疑うことから出発します。疑い、分かち、比較し、推定して、真理だと考える。しかし、それは、ほんとうは真理に近いものに過ぎません。今の科学の水準とはそんなものです。ところが、信仰というのは、疑うという心をやめてしまうのです。すると、脳の死んでいた部分が急に活性化されて、世界がパッと広がるのです。別な脳が動き出す。疑うことばかりやっていた自分が何にも疑わず、比較せず、百パーセント信じる。これが、信仰の世界です。」と、言い切りました。すると、インタビュアーは、「はあ、すると、気持ちいいでしょうね」とたずねました。「気持ちいいですよ。うれしいですね。それが分かると聖書がすごく分かるようになる。イエスに『我に従え』と言われたペテロが、何もかも捨てて従ってしまう。なぜ?何が起きた?」。 「ペテロと同じことが加賀さんにも起きたのですか。」。 「そうです。ペテロはイエスを百パーセント信じようと思ったのですね。ぼくもかつて新約の中の奇跡の話など、うそだと思っていました。」。 「ああ、加賀さんもそうなんですか。」。 「信仰の世界ですね。その人が一番困っていることが信仰によってなくなる、ということでしょう。ぼくもある日、おれはだめだ、実にひどいものだと思ったけれど、だからこそ、もう少しイエスのおっしゃることがわかりたいと思って……要するに信仰は理屈ではありません。向こうからくる。」--「御釈迦さんか、キリストか、と自分で選んだのではなくて、向こうからやってきた。結果的に、僕はキリストが好きになったのです。恋愛みたいなものですよ」--)
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