2005/02/06 「一点を見つめて」 マタイ 14:22〜36  (MP3)   
 水の上を歩かれる(--神は海に道をつけられる方"詩編"--)
 千住 真理子(--「バッハを弾くとき」"エッセー"--私は初めて神を見た。神は光となって存在した。無心になること、祈ること、自分をなくすこと、欲を捨てること神が私に送ったメッセージのように感じた。捨てても捨ててもふつふつとおこる邪念や欲。たとえば上手に思われたい、間違えずに弾き終りたいという単純なな思いは神の前に立たされた私にとって情けない人間の欲でしかないことを知らされた。奇妙なことに間違えたくないという思いが強いと間違える。すべてを神にゆだねて弾くと、結果として間違えない。それはまるで目隠しをされてビルとビルの合間に渡された一本の綱を渡る怖さに似ている。しかし、信じるというのはもしかしたらこういうことなのかもしれない。私は本当に人を、神を、何かを信じたことが無かったといわざるをえなかった。わずかな疑う心によってすべてをゆだねることは怖くてできないかもしれない。それは信じているとは言えないからだ。バッハを弾くとき私は人間人下であることを感謝する。--)
 八木重吉(--イエス、イエスの名をよびつめよう、入るいき でるいきごとによびつづけよう 憤りがわいたらイエスの名でとかそう 弱くなったらイエスの名で盛り上がって強くなろう 汚くなったらイエスの名できれいになろう 死の影を見たら イエスをよんで生きかえろう--)

2005/02/13 「聖霊主導の試練」 マタイ 4:1〜11  (MP3)   
 一致礼拝(--カトリック,ホーリネス、日本基督教団の合同礼拝--毎年各教会の会場持ち回りで開催--)
 誘惑と試練への対抗”命を選ぶ”(--何があっても主よ、主よと呼び続ける--自分で勝とうとしない”必ずイエス様が勝”--)
 籐恵子(--ゆりかご保育園--主人の膨大な借金を払い続けた--主人がガンになった--亡くなる前もう一つの借金を告白した--主人はがんになるほど苦しんだから恵子さんは怒らなかった--神様が許してくださっているものを私が許さないなんてできない--人は人に傷つき人を通して癒されます--痛みを共有してくれる人がその時々にいたのです--私もそのようになりたいのです--)
 聖霊主導の試練(--どんな試練も神さまが主導してくださっている--”どうして”と呼びかけ続ける”--人の助けを受ける--)
 向谷地 生良”むかいやち いくよし”(--日本のソーシャルワーカー--社会福祉法人浦河べてるの家理事”心の病を持った人たち”--私は彼らによって自分の力のなさ、未熟さ、貧しさを知らされました--”べてる”に行くと私自身安心して弱く、ありのままであることが許されているような落ち着きに満たされることがあります--)
 教会(--ありのまま弱さのままでいられるところでありたい--))

2005/02/20 「神の国は来ている」 マタイ 12:22〜32  (MP3)   
 悪と戦う(--イエスは十字架に架かって死ぬことはなかった--イエス様は、善と戦ったから、十字架につけられた--)
 カールバルト(--「パリサイ人」というのは、「ある特定の時代の偶発的な歴史的現象ではない。」むしろ、「善と悪についての知識のゆえに、神に感謝しつつ、神の栄誉のために、彼の隣人と自分自身とを厳しく裁くところの、まったく天晴れな人間なのである。」--)
 イエス様は、同じ出来ことを見ても、冷ややかにしか見ることが出来ないファリサイ派の人たちを非難されたのです。
 私もファリサイ派?(--あらゆる機関を通して、情報が得られます。その情報でいわゆる良いこと、体に良いこと、老後に良いこと、良いことが、いっぱい得られます。そして、みんな、良いことを追求します。だから、この国は冷たいのです。自己中心の人で満ちてしまうのです--正しいこと、良いことを追求すると、それを人生の目的にしてしまい、よいことをしている、あるいは、少なくとも、良いことをしようと願っている、という思いでいっぱいになり、その結果、自己中心になります--わたしたちも容易にファリサイ派になりうる--)
 神の国は誰もが入れるほど安っぽくない?(--神の国はあなたたちのところに来ているのだ--、遠いところに神の国があって、ある条件をクリアーした人でなければ入れないのではなくて、あなたがたのところに、もう、来ている。いま、あなた方は神の国にいるのだよ--)
 救いを求めていない(--それが傲慢--)
  良いことについて努力している(--自分に対する批判があれば、それを全部拒絶するようになります--無意識に人を裁くことがおこります--)
  藤木正三先生(--「清さ、美しさ、正しさを求めるだけでは、人間は十分ではないのです。そう思うのは人間の傲慢、もうひとつ、救いを求めてこそ、人間は人間です。」(藤木正三、工藤信夫「福音はとどいていますか」(ヨルダン社、1992年6月30日、初版、68頁--)
 J・マカイア博士(--「キリストによって捕らえられた人間の魂には二つのものが共存しうる。すなわち、ひとつは、深い静けさ、神との平和であり(神との平安、落ち着き)、もうひとつは、不滅の熱情、耐えざる熱心である。」(「希望の旅路」教団出版局、2001年11月22日、初版、66-67頁、金井輝夫「招きー祈り・生活・讃美」--)
 平安と惨めさが共存している、というのがキリスト者だろうと思います 船曳(ふなびき)さん(--「わたしは家族伝道に失敗しました。だれも、教会へ行ってくれませんでした。これからも駄目でしょう。」と言いました。--亡くなった後、家族のみんなが洗礼を受けていたのです。--女の子は牧師夫人になりました--)  傲慢(--自分で何かをしなければならないというように自意識過剰になる必要はありません--)
詳しくはこちらをご覧ください。

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2005/02/27 「サタン、引き下がれ」 マタイ 16:13〜28  (MP3)   
 この時から(--マタイが使う常用フレーズ--)
 フィリポカイサリア(--ヘロデがローマに追従して作った町--)
 ペテロ(--第一回ローマ法王”カトリック”--)
 信仰告白した人(--間違いを犯す人でもある--)
 私たちが一点で共有できるもの(--イエス様が大好き--)
 塩谷直也(--ほかの子が褒められるのを見て妬みの目で見ていた私を王先生は見ていた--先生は「塩谷君の黒髪はきれいだなー」といった--先生は僕が好きなんだと思った--)
 天国(--愛し愛されているところ--)
 イエス様(--私たちへの愛を貫かれた方--)

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