悪と戦う(--イエスは十字架に架かって死ぬことはなかった--イエス様は、善と戦ったから、十字架につけられた--)
カールバルト(--「パリサイ人」というのは、「ある特定の時代の偶発的な歴史的現象ではない。」むしろ、「善と悪についての知識のゆえに、神に感謝しつつ、神の栄誉のために、彼の隣人と自分自身とを厳しく裁くところの、まったく天晴れな人間なのである。」--)
イエス様は、同じ出来ことを見ても、冷ややかにしか見ることが出来ないファリサイ派の人たちを非難されたのです。
私もファリサイ派?(--あらゆる機関を通して、情報が得られます。その情報でいわゆる良いこと、体に良いこと、老後に良いこと、良いことが、いっぱい得られます。そして、みんな、良いことを追求します。だから、この国は冷たいのです。自己中心の人で満ちてしまうのです--正しいこと、良いことを追求すると、それを人生の目的にしてしまい、よいことをしている、あるいは、少なくとも、良いことをしようと願っている、という思いでいっぱいになり、その結果、自己中心になります--わたしたちも容易にファリサイ派になりうる--)
神の国は誰もが入れるほど安っぽくない?(--神の国はあなたたちのところに来ているのだ--、遠いところに神の国があって、ある条件をクリアーした人でなければ入れないのではなくて、あなたがたのところに、もう、来ている。いま、あなた方は神の国にいるのだよ--)
救いを求めていない(--それが傲慢--)
良いことについて努力している(--自分に対する批判があれば、それを全部拒絶するようになります--無意識に人を裁くことがおこります--)
藤木正三先生(--「清さ、美しさ、正しさを求めるだけでは、人間は十分ではないのです。そう思うのは人間の傲慢、もうひとつ、救いを求めてこそ、人間は人間です。」(藤木正三、工藤信夫「福音はとどいていますか」(ヨルダン社、1992年6月30日、初版、68頁--)
J・マカイア博士(--「キリストによって捕らえられた人間の魂には二つのものが共存しうる。すなわち、ひとつは、深い静けさ、神との平和であり(神との平安、落ち着き)、もうひとつは、不滅の熱情、耐えざる熱心である。」(「希望の旅路」教団出版局、2001年11月22日、初版、66-67頁、金井輝夫「招きー祈り・生活・讃美」--)
平安と惨めさが共存している、というのがキリスト者だろうと思います 船曳(ふなびき)さん(--「わたしは家族伝道に失敗しました。だれも、教会へ行ってくれませんでした。これからも駄目でしょう。」と言いました。--亡くなった後、家族のみんなが洗礼を受けていたのです。--女の子は牧師夫人になりました--) 傲慢(--自分で何かをしなければならないというように自意識過剰になる必要はありません--)
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